第14節 -18の秘蹟-

 聖ランベルティ教会周辺の広場は、悲鳴と怒号の叫びがこだまする混乱の極地というありさまであった。誰も彼もが頭上を見上げ、恐慌状態に陥っている。


 悲鳴を上げながらその場から逃げ去る者。

 あまりの光景に卒倒して倒れる者とそれを助けようとする者。


 理性と規律を失った人々で溢れかえる教会前広場。

 人々を恐怖のどん底へと突き落とした“きっかけ”は教会中央尖塔の中ほどに今も見受けられる。金色に輝く文字盤の時計より上に位置する3つの鉄篭。

 ミュンスター反乱において、再洗礼派の指導者の遺体を見せしめの為に吊り下げたと言われるその籠の中には、鮮血を滴らせる遺体がそれぞれ一体ずつ入れられていた。


「早く下ろすんだ!まだ、まだ息があるかもしれない!」

「駄目だ!あれを見て分からないのか!?もう死んでいるに決まってる。」

「あぁ、なんてことだ……神よ……我らに憐みと慈悲を……」


 遠目からでも籠の中の人物が既に絶命していることは容易に想像がつく。

 妙な風にねじ曲げられ、見るも無残に切りつけられた体。そこから雨粒のように滴り落ちる血液。

 地獄の釜の蓋を開けたかのような光景が広がる現場に、フロリアンとロザリア、アシスタシアは駆け足で到着した。

 昨夜の放火と暴動の現場を一目見ようと訪れた人々の頭上で晒された新たな悲劇。

 既にその場にいたはずの警察も混沌を極める光景を前にして為す術もなくおろおろとするばかりだ。

 現場からの応援要請を受けて続々と緊急車輌が到着する。しかし、駆け付けた警察官も混乱を治めようと慌ただしく動いてはみるものの、どうしたらいいのか迷うばかりでまるで意味を成していない。


 上方の鉄篭を一目見たロザリアはすぐにフロリアンに向き直り、厳しい表情で言う。

「フロリアン、どうか場の空気に中てられないように。色々と申したいことがあるかと存じますが、それらは後に致しましょう。今この場に留まることは危険です。すぐに別の場所へ移動します。わたくしたちに付いてきてください。」

 あまりの光景に絶句するフロリアンだったが、ロザリアの言葉で理性を保つことが出来た。動揺は隠しきることは出来ないが、二度ほど頷いて了解を示す。

「わたくしが先導します。アシスタシア、殿を務めなさい。」

「承知いたしました。」

 まるで戦場の中を移動する兵のようだ。フロリアンはそう思いながらも、前後を2人に挟まれる形で動き出した。

 ザルツ通りを抜けてすぐにプリンツィパルマルクトへ入ると南方へと進路を取って早歩きで移動する。急いで移動するとしても、この混乱の最中で走り出すのは自分達にとっても周囲の人々にとっても危険だ。

 移動する最中、ロザリアがフロリアンへ小さく言う。

「アンジェリカがどこにいるか掴めません。出来るだけ人の少ない場所へ向かいます。」

 その言葉を聞いてようやく2人が自分の前後に回った意味を悟る。

 いつ、どこから彼女が自分達を目掛けて襲ってくるかもしれない状況。溢れかえる人々の中にいては、特定の1人の小さな少女だけを警戒するなど、とてもではないが出来るはずがない。

 フロリアンも周囲に最大の注意を払いながら彼女達と共に聖ランベルティ教会から離れていった。

 

 人々の心情を曝露するウェストファリアの亡霊。行き過ぎた信仰の先にある、狂信を利用した大衆扇動。

 アンジェリカの用意した舞台の幕は開かれ、序曲が終わろうとしている。

 街中では未だ、けたたましいほどの鐘の音が鳴り響く。そこに普段の美しさや荘厳さは感じられない。

 重厚なる金属の打音が示すのは、次なる惨禍の陰湿な予兆であった。


                 * * *


 ホテルの室内まで届く陰鬱な鐘の音を聞きながら、マリア達は現況の把握に努めていた。

 スマートデバイスから投影されるホログラムモニターをマリアは眺める。そこには聖ランベルティ教会の広場で今起きている事件の映像が流れていた。

 現地にいる人々がスマートデバイスを用いてネットに映像や写真を拡散したものだ。

 あまりに過激であることから、ソーシャルメディア側によって削除されるものも多いが、その速度を遥かに上回る速度で転載と拡散が続いている。

「情報の拡散に歯止めは効きそうもないね。今日の昼には世界中の主要メディアでもニュースになることだろう。聖ランベルティ教会の鉄篭に囚われた3人の遺体。この事件を皮切りとして事態は最悪の方向へ加速することになる。早々にどうにかしたいところではあるけれど……トリッシュ、次の事件を予測できるかい?」

「はい。明日の午後、プリンツィパルマルクトで小規模ながらデモ行進隊が現れます。極端な宗教思想を口にする者への弾圧を要求するものです。今のところ私に感じ取ることが出来るのはこれだけですが。」

「いや、十分だよ。私の目に見える未来には不確定要素が多いからね。君の力が助けになる。ありがとう。」

 シルベストリスの返事を聞いたマリアはそう言ってホログラムを消し、彼女の肩に手を置いて感謝の言葉を述べる。

 その言葉を聞いたシルベストリスは彼女の役に立てたという実感に喜びを示した。


 予言や預言といった異能を持つマリアが、未来に関することを自分の目で見るのではなく、敢えて彼女に問い掛けたことには当然意味がある。

 近未来予測。シルベストリスにはそうした特異な才能が備わっている。〈神を見るもの〉という意を持つ大天使チャミュエルの加護による特別な力だ。

 今の状況としては、この力で彼女が視る〈これから少し先における正確な予測結果〉がマリアには必要であった。

 マリアが常に〈予言〉の力で見ている未来とは、今現在の時系列から先に進むにつれ、複雑に枝分かれした未来の総称を言う。一言で枝分かれした未来とは言え、それは無数に存在するものであり、尚且つ1人の人間の行動によってさらに複数に枝分かれもする非常に複雑で膨大なものである。

 つまり、いくら無数の未来を完璧に予期できたとしても、枝分かれした未来の中で〈どれが実現するのか〉を的中させることは至難の業ということだ。

 自らの行動だけで結果を完璧にコントロール出来る物事に対しては百パーセントの的中率をはじき出せるが、今回のように大衆の行動に左右される事象に対してはそうはいかない。予言時点から結末までにおける個々人の行動を全て思い通りにコントロールすることが不可能な為だ。

 故に〈予言〉の力の活用はあくまで〈自己の行動がもたらす結果、或いは自己が干渉した物事に対する結果を確定的なものとする〉というある種の妥協が必要なのである。

 対するシルベストリスの近未来予測はより断定、確定的な未来を予知するものだ。

 彼女は〈ある未来の行方が大きく動くきっかけとなる決定的瞬間を切り取る〉ことができる。

 過去の歴史で例えるならば、世界が第二次世界大戦に突き進む間接的な原因となった〈世界恐慌〉や、開戦の直接的な原因となった〈ドイツ軍のポーランド侵攻〉などを事前に予期することが出来たと言えよう。

 マリアにも予言とは別に〈預言〉という絶対に改変することが叶わない究極の未来視が備わっているが、この力は意図的に使用することは出来ず、言葉通り天啓のように突然垣間見えるものなので、こうした場合に使用することは不可能だ。

 そうした理由をもって、物事の規模の大小に関わらず、近未来で明確に〈何が起きるのか〉という結果を意図的に知り得るシルベストリスの力はマリアにとって非常に頼もしいものとなっている。


 マリアはアザミと三姉妹に向けて言う。

「さて、この災厄が今後もプリンツィパルマルクトを中心として刻一刻と苛烈さを増していくことは分かった。あとは事態を収拾へ導く為に私達がどう動くかだ。アンジェリカの意図的な企てで扇動されている人々の心をケアし、亡霊の干渉を無効化するという最大の目標はあるとして、問題はその手法と行動のタイミングにある。」

「事件の全てが“陰謀によるものだ”と信じ込んでいる、又は目の前で起きた現実を元に信じざるを得ない状況に陥っている人々に“それは間違っている”と正しい認識をしてもらう為にどう対応するのか、でしょうか。」アザミが言った。

「そうだね。少し語弊があるかもしれないが、この街の人々はアンジェリカの策略で洗脳されかかっている状況だ。現実に起きてしまった出来事によって、実際は有りもしない陰謀論による対立を強制させられそうになっている。」

「洗脳……怖い響きだね。」ブランダが呟く。

「はいはーい!マリア様に質・問・です☆ 確か洗脳といえば総大司教様が持つ異能だって聞いたと思うんだけど。だとしたらあの方なら何か対応策のヒントを持ってるんじゃないかな~って。そう思うのですが。」すぐ横からホルテンシスが質問をする。

「他者の過去の記憶を読み取り、その人物が求めている言葉をかけることで心の門を開かせ、瞬時に自らの傀儡としていく。確かにロザリアはそのような力を持ち、実際に行使することも出来る。けれどそれは基本的に個々人に対しての効力ということと、広範囲に適用するにしても〈ある一定人数まで〉に限った話となる。能力の限界というものだね。これほどの大衆を相手にした場合では勝手が違うだろう。あと、ここだけの話だけれど、彼女は滅多にその力を使いたがらない。理由は“事後処理が面倒だから”だそうだ。」

「ほぇー……なんか意外ぃ~。うーん、参考には出来ないかー。」

「いや、しかし全てがそうというわけでもない。以前、ロザリアからこんな話も聞いたことがある。洗脳というものには手順があると。一つは意識の氷解、一つは意識の改変、一つは意識の凍結だという。彼女の教えてくれたこの一連の要素は手掛かりになるかもしれない。」

「難しい話になりそう?」人差し指を唇に当て、困った顔をしながらホルテンシスが言った。

「安心したまえよ。そう込み入った話ではないから。聞けば単純な話さ。洗脳、マインドコントロールにおける第一段階は、最初にその人が持ってる“人格”を叩き壊すことから始めるんだ。判断力を極端に鈍らせる為に身体的苦痛や精神的苦痛を味合わせる。極度のストレス環境に身を置かせるといったように。」

 マリアがそこまで言うとブランダは思いついたように言った。

「あ、ウェストファリアの亡霊による恐怖の伝染、今起きている事件。」

「そう。今ミュンスターで暮らす人の中で、この事件をストレスに感じない人はいないだろう。あの亡霊は曝露の性質と共に、これまでただの隣人であった異なる宗派同士の人間がいがみ合うきっかけを与えた。

 亡霊による事件の誘発は、結果として『今度は自分が違う宗派を信仰する人から攻撃されるかもしれない。』という強迫観念や恐怖を知らず知らずのうちに人々に植え付けていったんだ。

 疑心暗鬼。今までただの隣人だった人が敵になるかもしれないという恐怖。その影響が例え僅かであろうとも、24時間を通してこの強迫観念に苛まれれば誰だって精神が徐々にすり減ってくる。ここまでが意識の氷解だよ。」

「じゃぁ、次の意識の改変って?」ホルテンシスが言う。

「これまでの常識を否定し、新しい価値観や事実を植え付けようとする過程。今回の事件で言えば、“違う宗派を信仰する人が自分達を攻撃しようとしている。これを防ぐ為には先に攻撃をしなければならない。”といったところだろう。

 普通に考えればそのような話があるはずがない。ただ、日々積み重なっていく精神的苦痛によって既に正常な思考能力を奪われた人にとってはその限りではない。ちょっとしたトラブルでもその価値観を正当化する材料になってしまうし、有り得ない話であっても真実になってしまう。

 さらにこの刷り込みを強化していくと、その人にとっての正義とは“他宗派を無条件に攻撃すること”になっていく。」

「月初め以後、小さな言い争いや喧嘩が街中で増えていったのはその影響ということでしょうか。」シルベストリスが言った。

「おそらくは。そしてその“小さな争い”はさらなる精神的苦痛を周囲の人々に振りまいていく。そうすると『次は自分が攻撃されるかもしれない』という恐怖が日増しに高まっていくことになる。これまで無視を貫いてきた人であっても看過出来ない状況が生まれるわけだ。日を追うごとに反応が過激化していっているのはそれが理由だろうね。」

 マリアからここまでが語られた時、その場にいた誰もが今回の事件における大衆扇動の本質というものを理解した。

「それで、最後にはどうなっちゃうの?」ブランダが震える声で言った。

「最後は刷り込みの強化だ。他宗派を攻撃し、弾圧することが正義だという思想の肯定。そうしなければ自分達は殺されてしまうかもしれないという思い込み。これが意識の凍結。

 ここまで来ると他人がいくら『その考えは間違っている』と言っても意味はない。それどころか、『貴方は真実に気付いていないんだ。』であったり、『周囲が自分を騙そうとしている。』などと極端な拒絶反応を示す。それが例え親しい友人や愛する家族相手であってもね。

 過度な思い込みというものはその人にとっての現実と同義だ。オーグメンテッドリアリティ、拡張現実と呼ばれるもので誇張されたような世界でも同じこと。その人にとって見えているものが真実というわけさ。」

「だとすると、人々に誤った思考を受け入れさせて、合わせて正しい事実に気付いてもらうのってなかなかハードな道のりなんじゃないかな……?」難しい顔をしたままホルテンシスが言った。しかしマリアはそのホルテンシスの顔を見て言う。

「だからこそホルス、君の力が必要だ。私達の行動において“どうするか”については既に決まっている。今この街の人々は思考力を極端に奪われてしまった状況であることに間違いないが、翻ってまだ意識の凍結の段階までは進んでいるわけでもない。

 街全体レベルで見ればせいぜい意識の改変の一歩手前といったところだろう。けれど、このまま事態を放置すれば、他宗派への攻撃という誤った思想で人々の正義が固定されてしまいかねない状況であることも事実。

 故に、そんな間違った考えが浸透し凍結するよりも先に、“争うことに意味はない”という別の考えを〈刷り込み〉して、そちらを凍結してしまうのさ。」

 マリアはそう言ってホルスの頭に手を伸ばし優しく撫でた。


 マリアの言うホルテンシスの力とは大天使ジョフィエルの加護によるものを指す。

 万物に美しさと明るさを与え、エデンの園で知恵の樹を守護し、人々の正しい行いを見守る役目を受け持つ大天使。

 それに加えて彼女自身の“ホルス”という愛称通り、ホルテンシスにはもうひとつの特別な力が備わっている。

 〈ホルスの目〉と呼ばれる【ラーの目】と【プロヴィデンスの目】だ。

 第六感覚、魂の在処、精神の色を視通すラーの目。

 全てを視通す神の目と呼ばれるプロヴィデンスの目。

 これらの加護と目を用いることでホルテンシスは人々の魂の汚染状況を探り、それを取り除き、万物に太陽の如く温かさと癒しを与えるという特別な力をふるうことが出来る。

 ホルテンシスが秘める力は、彼女が明確に意図をもって言葉を発するか、または大衆に想いが届くようにと念じるだけで発動することが可能である。

 星咲き一輪草の異名を持つアネモネ・ホルテンシスの花のように幸福と明るさを人々に分け与える力。その力こそが今回の事件におけるマリアの切り札でもある。


「マリア様……正直、私に出来るのか不安です。」マリアの目の前で、いつになく不安そうな声でホルテンシスは言った。

「大丈夫。君がこの難題をクリアする未来も私の目は捉えている。」マリアはホルテンシスの頬に手を当てながら続ける。

「けれどチャンスは一度だ。アンジェリカにその力が知られたら、彼女は必ず真っ先に君を狙って来る。そうさせない為にも、今からは慎重に動かなければならない。」

 優しく穏やかに、それでいつつも真剣にホルテンシスを慮るマリアの心情が感じられる。

 すると、今までのやり取りをマリアの傍で聞いていたアザミが言う。

「加えて、ホルスの持つ力を最大限に発揮させる為の舞台を用意する必要もあるでしょう。どう対応するかについて、一番の難題とも言えます。」

「どういう方法を取り、いつ実行するのか。今日からはそれを見定める為に奔走することになりそうだね。最悪の結末に至るまで、残された時間がどの程度あるかもわからない状況というのがネックだ。」マリアは歯がゆそうに返事をする。

 残された時間。その言葉を聞いてアザミがふと言う。

「マリー、常々気になっていたことがあります。」

「何だい?」

「アンジェリカは大衆扇動の実験という目的以外に、何の意味もなくこの事件を起こしているのでしょうか。」

「へぇ、なるほど。つまりこの一連の事件には物事を順序だてて行う為の筋書きがあると、そういうことかい?」

 アザミに言わんとしていることを察したマリアは言う。それについてアザミは同意を示して頷いた。

「はい。人々の心を掌握する為には“現実に存在する何か”をモチーフとして、それについての認知を歪めることが何よりも簡単です。」

「その言葉、本当の神である君が言うと恐ろしくもあるね。」

「お戯れを。」にやりと笑うマリアにアザミは言った。そして話を続ける。

「今までに判明している事実を整理しましょう。まずは何よりも人々が口を揃えて言う “ウェストファリアの亡霊”という言葉。そして争いの根幹は全てキリスト教の別宗派による対立。主にカトリックと福音主義による争い。厳密に言えば異なりましょうが、広義に言えばカトリックとプロテスタントの対立とも読み取ることが出来ます。直近で実際に起きた事件は窓外放出事件。これは1618年5月23日にプラハで起きた事件の再現であり、この事件を印象深く捉えるのであれば……」

「現実に存在する何かとは三十年戦争を指す。ウェストファリア、つまりヴェストファーレンは三十年戦争を終結させる為の条約に繋がるからね。」

「しかし、これだけでは行動を起こすために必要な情報が不十分です。三十年戦争という史実の中に含まれる“別の何か”こそ、アンジェリカがこの一連の事件において意味を置いているものなのではないかと。わたくしはそう思います。」

 アザミの進言を受けたマリアは口元に手を置き一考する。そのまま全員しばらくの無言が続き、部屋には静寂が訪れる。


 それから数分後。

 皆が押し黙り、めまぐるしく思考しているであろう中、ふとあることに思い当たったのかブランダが言う。

「あの、私ひとつ思い当たることに、気付いたんだけど……」

 自身でもそれが正しいのか否かについて判別に迷っているらしく、戸惑いがちに言った彼女に対し、マリアは優しく言う。

「どんなことでも構わない。ぜひ聞かせておくれ。」

 マリアの返事を聞き、意を決したようにブランダは語る。

「兵隊さんの行進、争い、略奪、暴動、放火。三十年戦争について、この順序で“ある芸術作品”を生み出した芸術家さんが1人だけいます。」

 時系列を追って進む芸術作品。アザミの言うモチーフというイメージにぴったりの意見だ。半ば確信をもったマリアは真剣な表情でブランダに言う。

「ブランダ、その芸術家の名前と作品について詳しく教えて欲しい。」


 ブランダは一度深く息を吸い、呼吸を整えるとはっきりした口調で言った。

「その芸術家の名前はジャック・カロ。1633年に三十年戦争をモチーフとした、18の作品群『大きな惨禍』を世に残した食刻家です。」


                 * * *


 市街地全域に響き渡る荘厳な鐘の音を聞きながら、アンジェリカは聖ランベルティ教会前の広場で混乱する群衆を眺めていた。

 教会のすぐ傍、ザルツ通りとプリンツィパルマルクトが交わる場所にある建物の4階から、恐怖に怯えながら鉄篭を見上げる人々の状況をずっと観察している。


 目の前で起きた現実を受け入れらず、呆然と天を仰ぐ者。

 恐怖に怯え、周囲の状況などお構いなしに我先にと逃げ出した者。

 まだ助かるのではないかと必死に救助を呼びかけ続ける者。

 そこへ次々と集まってくる緊急車輌の群れが場の緊迫した様子を事実に表している。


 数が集まったところで、出来ることなどたかだか知れているというのに……


 アンジェリカは口元を歪めてほくそ笑みながら、愉しそうにこの状況の観察を続ける。

 そんな中、つい先程のことだ。ザルツ通りの奥から見知った顔が現れたのは。

 自分を警戒したのかどうかは知らないが、彼女らは聖ランベルティ教会の上方を一瞥し、その後は足早にプリンツィパルマルクトを南方へと歩き去ってしまった。


 ロザリア・コンセプシオン・ベアトリス

 アシスタシア・イントゥルーザ


 ヴァチカン教皇庁から遣わされた総大司教と修道女。彼女らのあのような表情はなかなか拝めるものではない。なかなかに愉快な光景だ。

 そしてもう1人。


 フロリアン・ヘンネフェルト


 この地を故郷とする彼にとって、今自分が巻き起こしている事件の衝撃はいかほどのものか。

 いや、厳密に言えば自分はきっかけを与えただけに過ぎない。あとはこの地にいる人間達の潜在意識化にある“本性”が引き起こした悲劇であるのだから。

 そんな人々の心の奥底の本音が曝露され続ける事件は彼にとってどのように映っているのか。考えるだけでもわくわくが止まらない。


 そう、これは自分から彼に与える“愛”だ。

 愛しい故郷を愚劣な本性で汚す人々を暴き、その全てに罰を与える。

 突き詰めれば、最後にこの地には心の清らかな者だけが残されるだろう。

 その過程における一筋の道行き。

 彼はこの愛に気付いてくれるだろうか?


 愛、愛、愛。


 誰も彼もが口々に言う愛を自分は知らない。

 知っているのはそう。悪を暴き、罪を告解させ、罰を与える。これが自分にとっての愛の在り方だ。

 そうすれば両親は褒めてくれた。それがあの国の役に立っていた。それだけが自分の存在意義であった。

 だからきっと、この地に蔓延る悪と罪を罰すれば彼も褒めてくれるに違いない。



 これは当てつけだ。



 マリア・オルティス・クリスティー。リナリア公国の次期王妃の一番の親友。彩色兼備で非の打ちどころがない完璧な存在。

 それに比べて、何の取柄もない凡庸な人間でしかない彼。

 そんな彼の何を見てマリアは認めたというのか。あれほどまでに親密な関係でいられるのか。

 裏を返そう。マリアが認めた彼に自分を認めさせることが出来れば、自分はきっと彼女も越えられる。“光の王妃”が寄り添った彼に自分を認めさせることが出来れば、きっと王妃を越えられるのと同じように。


「私は正しい。私は正しい。私は、正しい。間違っているのは世界の方なのよ。いつだってそう。世界が正しかったことなんて、千年もの間にただの一度たりとも無かった。それを証明するわ。ねぇ、もう1人の私。貴女だけが正しかったの。あとはみんな間違っていたのよ。」


 誰に言うでもなくアンジェリカは呟いた。


 もうすぐ18の秘蹟は完成する。

 18の大きな惨禍の序曲は過ぎ去った。

 繰り返し奏でられるフーガ。最後に訪れるコーダ。

 あの戦争をもう一度。あぁ、この脳裏に蘇る、なんて麗しい景色。

 赤黒く燃える空。焼けただれた大地。巨大な水柱を立てる海。この胸を震わせる、あの爆撃音。


“この世界にもっともふさわしい景色”


 跪け。賛美せよ。それだけがお前達人間に残された、ただひとつの罪滅ぼしである。



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