第5節 -ウェストファリアの亡霊-

 アンジェリカという名に言及された時、フロリアンは悪い予感が当たったと感じた。同時にこれまでの過程における全てに合点がいった。

 どうして自分が今回の調査に選ばれたのか。どうして行動を共にするのが彼女達であるのか。

 それは決してカトリックと福音主義の対立の構図が煽られていることに起因しているという理由からではない。どちらかといえばそちらが建前だ。

 話の答えは、西暦1035年に世界史から姿を消した〈リナリア公国〉と呼ばれる国家へと行き着く。


 まだ世界の全ての地域が発展途上だった時代。

 今からおよそ千年前の大西洋上にはリナリア公国と呼ばれる島国国家が存在した。

 島を代表する七つの貴族の統治によって繁栄を遂げていた国であり、海を隔てた向こう側に存在した大陸の国々ともそれぞれ緊密な交流を続けていた国である。

 リナリア公国は各国が世界制覇を目論んでいた当時としては珍しい野心のない国家であり、他国との争いには参加しない中立の立場を堅持していた。何よりも重要視したのは自国と自国に生きる民の安定であり、その為の国策を貫き続けたことも特徴だ。

 実際に度重なる戦火を繰り広げていた世界の中で戦争に介入や加担することはせず、長きに渡り平和を維持していたという記録も存在する。

 しかし、そんな国の在り方を時代が、そして世界がいつまでも許すはずがなかった。

 

〈領土拡大戦争レクイエム〉


 後の時代にそう呼称されることとなる、大陸に連なる国同士で繰り広げられていた大きな戦争である。

 当時のリナリア公国は当然ながらこの戦争に加担することはなく、全ての国々と対等かつ中立の立場を維持していた。

 だが、どこの国にも手を貸さないという姿勢が他国の反感を買った。立場をはっきりさせろという脅しが海を隔てた周辺諸国から届くようになったのだ。

 この出来事を受けて、リナリア公国は自国の意志と思想、そして国民を守る為に変わろうとしていた。

 当時国を治めていた王家の立場にあった貴族と、もうひとつの代表的な貴族の子供同士を結婚させることで少なからず存在した内政のいざこざを解消し、貴族も国民も一丸となってより強力な国家運営基盤を持つ国として立とうとしたのだ。

 結果としては、この動きが完遂される前に他国の侵略によって国としての歴史を閉じることになる。


 ただ、ここで重要なのは国が滅びたという事実よりも前にある〈七貴族〉という存在と〈その子供達〉の存在というキーワードだ。

 通常において、到底信じられることではないが、千年前に滅びた国の末裔たちは今〈この時代を生きている〉。


 肉体という殻を失くして魂のみを顕現させている者。

 どういう理屈か当時の姿形そのままで生き残っている者。

 自身に近い依り代となる人間に魂のみを顕現させた者。 


 そのいずれかの状態で彼ら彼女らは現世に存在する。

 尚、この事実を今の世界で知っているのは基本的に世界特殊事象研究機構という組織に属する者、或いはヴァチカン教皇庁に籍を置く限られた人間だけだ。

 機構の話に付け加えると、どういった人物が亡国の末裔であるのかは組織内の数限られた人間しか知り得ない。その情報の全てを知る者達こそが自身も所属するセントラル1の小隊、マークתなのである。


 当時存在していた七貴族の姓は自分が理解している限りでは次の4つである。


〈ガルシア〉

〈デ・ロス・アンヘルス〉

〈コンセプシオン〉

〈インファンタ〉


 そして、この内〈コンセプシオン〉と〈インファンタ〉の家系に連なる末裔は“今この地に2人ほど存在する”。

 踏み込んで言えば今自身の目の前にいる彼女だ。

 ロザリア……、ロザリア・コンセプシオン・ベアトリス。


 ローマカトリック教会 ヴァチカン教皇庁の総大司教。

 彼女が女性でありながら総大司教という地位に就いているのはなぜか。これは推測でしかないが、きっと彼女が“奇跡の存在”であるからだ。

 当時の姿から変わることなく、千年にも渡り存在を保ち続けているという奇跡。そしてその身に宿す超能力と形容できる異能。

 それらの事実がロザリアという少女を特別たらしめているのだろう。教皇自身が彼女についてどこまで仔細を把握しているのかは定かではないにせよ、その奇跡的な特別性こそが彼女を総大司教という地位たらしめていることは想像に難くない。


 2人目は先程からの会話で言及されている少女。アンジェリカ・インファンタ・カリステファスである。

 彼女もリナリア公国七貴族の生き残りの1人であり、千年にも渡る長き時を変わることなく生きてきた奇跡の存在だ。

 ロザリア曰く、彼女も当時の姿そのままであるらしい。

 常人では有り得ない異能を扱う幼き少女。その愛らしい見た目と無邪気さとは裏腹に加虐性と残酷性を兼ね備えた天使のような悪魔。

 半年と少し前に自分の仲間2人を殺そうとしたのも彼女だ。そんな存在がこの地で起きる事件に関わりを持っている。


 この事実を持って、フロリアンはこれまでに起きた一連の全ての流れに合点がいった。ロザリアとアシスタシアが調査に同行しているのは、つまるところ〈アンジェリカ対策〉という意味なのだろう。

 自分に調査を命じた総監はこのことを知っていたのだろうか?いや、おそらく知らなかっただろう。

 アンジェリカという少女は機構内で扱うシステムのデータベースにも登録されており、その危険性から〈対象A〉という呼び名で第一級の警戒を敷かれる存在だ。

 仮に総監がミュンスターの地に彼女が滞在していると知っていれば自分を含めて誰も派遣することは無かっただろう。彼女が存在すると知っていれば、その時点で要請を断ったはずだ。

 では目の前の彼女は?ロザリアは最初からアンジェリカが事件に絡んでいることを知っていたのだろうか。

 考えれば考えるほどに、この派遣に対する人選はヴァチカン側の、つまりはロザリアの要求によるものであったことは明白だ。

 何もかも納得したフロリアンはロザリアへ言う。

「貴女が何を言いたいのかは分かった。僕が調査に抜擢された理由も、貴女が同行する理由も。怪奇現象の真偽判定とは建前で、実質的には彼女がやろうとしていることを阻止すること……それが本当の目的だね?」

「初手より欺くような口上を用い、この地へ呼び付けたことについてはお詫びいたします。そして本来の意図をご理解いただけたようで何よりですわ。ゆめ、お気を付け下さいませ。状況はわたくしどもの想像よりも早く進んでいます。そして、早々にあの子に目を付けられた以上、これより先の調査では何が起きるか分かりません。」

 フロリアンは周囲へ少し目配せしながら答える。

「分かった。でもまだ分からないこともある。さっきの話だけど、観光を通じて貴女がた2人の日常を知る意味というのがまだ呑み込めない。」

「聡明な貴方様であれば、いずれ分かる時がきます。その時が来れば必ず。」

 明確な答えを明かさない彼女に対し拭えないもどかしさを感じながらもフロリアンは静かに頷くしかなかった。


 その時だ。それまで2人の会話を静かに聞きながら周囲の様子を見ていたアシスタシアが言った。

「ロザリア様。“来ます”。」

 彼女の警告を聞き、ロザリアは後ろを振り返りってある一点を見つめ始めた。

 何が来るのか。彼女の言葉を聞いたフロリアンは言い知れぬ不安を覚えた。この路地に足を踏み入れてから今の今まで、誰一人としてすれ違うものはいない。

 どこか様子がおかしいままだ。空の色は暗く、周囲の空気の冷たさよりも体感温度は低く感じられる。

 大通りの喧騒も届かぬ静けさ。まるでここにいる3人だけが別世界へと隔離されてしまったかのようであった。

 アシスタシアが言葉を発して間もなく、すぐ近くで金属が擦れるような音が響く。だが、木々の生い茂る川沿いで、金属が音を響かせるようなものなど付近には存在しない。

 心臓の鼓動が早い。妙に高まり続ける緊張感の中、フロリアンは音の鳴った方向へと目を向ける。ロザリアとアシスタシアが視線を集めるその場所へ。

 ある一点を見つめる中、フロリアンはそこで信じられないものを目にした。


 突然空間が歪んだようにねじれると、その隙間から黒い影が溢れ、やがて板金鎧をまとった兵士が呻き声を上げながら出てきたのだ。

 返り血を浴びたかのように赤く染まる鎧。首や腕は有り得ない方向に曲がっており、一目見ただけでもこの世の存在ではないことがわかる。

『これが亡霊と呼ばれるもの……』

 フロリアンはすぐに総監から聞かされていた例の話を思い出した。


 ウェストファリアの亡霊。


 三十年戦争によってこの世を去った兵士の魂が現世へと蘇ったという怪奇話だ。この噂が広まると同時にカトリック教徒と福音主義教徒の対立を煽る行いも過熱し始めた。

 今回の事件において中核を成す現象が今目の前で起きている。

 しかし、眼前の光景はとても現実だとは思えない。あまりの衝撃に後ずさりしそうになりながらも、それが悪手であると理解し踏みとどまる。

 やがて血まみれの兵士はロザリアとアシスタシアへと近付き、手に持つ剣を掲げ始める。

 2人の危険を察したフロリアンは咄嗟に声を上げる。

「ロザリア!」

 しかし、彼女は呼びかけを意に介すことは無かった。そしてフロリアンが叫び終わると同時に兵士は動きを止めて小刻みに震え始める。

 次の瞬間、兵士の鎧に直線状の閃光が幾筋か走り、脚と胴体、胸部から上という具合にバラバラになって崩れ落ちた。

 そのすぐ横ではアシスタシアが燃え滾る蒼い炎に包まれた大きな鎌を携えて立っていた。

 足元に散らばった兵士の残骸にロザリアは左手をかざし言った。

「〈代理執行〉……主よ、天に召す者に永遠の安寧を与え、絶えることなき光を彼の上に照らしたまえ。彷徨える魂が安らかに憩わんことを。」

 するとバラバラになった兵士の亡骸は蒼い炎を噴き上げ、蒸発するように一瞬で消滅した。


 これが彼女達の異能。

 フロリアンは目の前で起きた出来事について思考を巡らせる。

 これまでは話に聞いたり、データを閲覧したりというだけの話であって、今までに彼女達が力を行使するのを実際に目にしたことは無かった。

 これこそがロザリアという少女のもつ力の一端。前年のミクロネシア連邦での調査時に同じチームの上官が目にしたという力だ。


〈生命に対する絶対の裁治権〉


 本来この世に存在し得ないもの、するべきではないものを無条件に滅ぼす力だと聞いている。

 現実の理から外れた生命に対し、ロザリアがこの世界に必要でないと判断すればそれを消滅させる。単純に言えば、怪異の類を〈生かすも殺すも彼女の考え次第〉というところだ。

 アシスタシアの持つ大振りの鎌も同じ色の炎をまとっているところをみると、やはり同じ力があるのだろう。

 知識にある限りでは、ロザリアはこの力の他にもあらゆる物質や他者の心から過去の記憶を読み取るサイコメトリーに近い能力を持っているという。

 特筆すべきは、一般的に〈サイコメトリー〉と呼ばれる能力とは違い、対象そのものに〈触れる必要がない〉というところだろうか。対面した他者は彼女と視線を交わすだけ、或いはその姿を視界に捉えられた時点で過去の記憶を読み取られてしまう。

 故に彼女は他者に語り掛ける言葉を間違えない。他者が一番言ってほしいと思っている言葉を理解した上で会話をするからだ。

 もしくは、言ってほしいと思う言葉を理解した上で敢えて伝えないという会話をしている節もある。先程の会話がまさにそれだ。

 神に仕え、人へ教えを説き導く立場にあるものとしては最上の力といえるのではないだろうか。


 フロリアンが思考を巡らせる中、ロザリアは空間を薙ぎ払う様に右手を横へと振った。

 間もなく、異界に迷い込んだかのような先程までの異常な空気は周囲から跡形もなく消え去っていた。遠くの大通りからは賑やかな話声も時折聞こえてくるようになっている。

 アシスタシアが手に持っていた大鎌もどこへともなく消え去っていた。

 ロザリアが言う。「あれが件の亡霊と呼ばれるもの。4月5日の復活祭の夜に初めて目撃されて以後、場所や時間を問わずにこの地に現れるようになりました。亡霊が現れるときは決まって先程のような現実世界から隔離されたような状況になります。そして、その隔離された空間の中にいる人間にしか知覚できない。」

「今までに亡霊が人に危害を加えたことは?」フロリアンが問う。

「いいえ、未だ報告されていません。ですが、遭遇したという方の人柄や性格が豹変した……などというお話は聞き及んでいます。怪我を負わせるような物理的な干渉はなく、何かしらの別側面からの影響を与えていると考えるのが自然でしょう。」

 ロザリアがフロリアンの問いに答え終わるとアシスタシアが言った。「ロザリア様、周辺での亡霊の存在は知覚できません。今のところは、ですが。」

 ロザリアが言う。「ありがとう、アシスタシア。そしてフロリアン、敢えて危険を伴う場所へ同行させたことを重ねてお詫びいたしますわ。しかし、貴方様に至っては口で説明するよりも、その目で見て頂いた方が早いと思ったものですから。」

「その考えは間違っていないと思う。おかげで僕のやるべきこともよく分かった。」

「さすがにご理解の早い。そう言って頂けると救われます。それとひとつ、忘れないでくださいまし。此度の調査は建前と違って相当な危険を伴うものとなります。しかし、この地で共同調査を行う以上、わたくしもアシスタシアも貴方様の身は最後まで守り切ることを約束致しましょう。だからこそ、もしわたくしやアシスタシアの姿をした者が、〈自ら進んで貴方様を危険な場所へ連れ出そうとした〉とき、或いは〈危害を加えようとした〉ときは “それ”を即時に切り伏せて頂いても構いません。」

 この言葉を聞いた時、フロリアンは彼女が観光を装って自分達のことを知ってほしいと言った意味を少しだけ汲むことが出来た。

「ただ、武器を持たぬ身である貴方様には切り伏せるなどということは難しいかもしれない……ですから、手近なもので殴りかかるなり何なりと、如何なる実力行使をもってしても“それ”を排除してくださって構いません。逃げられるのであればそれが最善。わたくしたちの似姿をしているからといって決して躊躇わないように。」

 そういう状況が訪れないことを願うばかりではあるが、絶対は言い切れない。あのアンジェリカという少女相手なら尚更に。

 そしてロザリアは付け加えるように言った。

「仮に“本物”であったとしても、わたくしどもが刺されたり殴られたりした程度ではどうにもならない身であることは先ほどのことからもご理解頂けるはず。故に手加減などしてはなりませんよ?」

「そうならないことを祈りたいね。」フロリアンは苦笑しながら答えた。

 仮に対峙したのが本物であったのならば、自分のような非力なものに殴られるなどという隙すらも与えるはずがないと思ったからだ。

 その返事に対し満足したように頷いてロザリアは言う。

「では、本日はこの辺りに致しましょう。本格的な調査……いえ、〈人探し〉という方が正確ですわね。それは明日からということにして、各々ゆっくりするということで。」

 彼女の顔にはいつもの余裕を含んだ笑みが湛えられている。隣でアシスタシアが静かに頷く。

「そうしよう。少し頭の中を整理する時間も欲しい。」フロリアンが言う。

「決まりですわね。では、このまま司教区の方へ抜けて……あら。」

 ロザリアはそこまで言うと言葉を区切った。そして、道の向こうへ視線を投げかけたまま静かに微笑みを浮かべる。

 その後、まもなくして道の向こう側から歩いて来た少女が彼女へ声を掛けた。

「おや、こんなところで出会うだなんて奇遇だね?ロザリー。」


                 * * *


 一歩、二歩、お散歩。鼻唄を歌い、とてもごきげんな表情を浮かべながらプリンツィパルマルクトを北に向かって彼女は歩く。

 カフェのオープンテラスで起きた小さな争い。規模は小さくとも争いは争いだ。人間同士の諍い。立場の違う者同士だからこそ起きる感情のぶつけ合い。


 喧嘩という名のちっぽけな“戦争”。


 アンジェリカは先の騒動の結末に満足していた。ロザリアとアシスタシア、そしてフロリアンを釣り出して自身の存在を認識させればそれで良いと思っていたが、予想外にマリアとそのご一行まで食いついてきてくれたからだ。

 自分がこの国でやろうとしていることとは別に、彼女達と〈遊ぶ〉ことが出来ればそれはそれは楽しいことだろう。

 マリアが連れている物騒な神と本気で対峙することは避けたいが、からかう程度であれば楽しむことはできそうだ。

 それはさておき、遠目から眺める抗争というものは実に愉快であった。

 あの場で喧嘩が起きた理由はごく単純なこと。どこにでもある“取るに足らない”理由。


 〈ただ悪口を言われたから〉


 ただ信仰する宗派が違うというだけ。

 しかし、それは彼らのように信仰の道を歩む人々にとっては重大な意味を持つ。各々が持つプライドという名の信念を少し刺激すると……どんっ!爆弾のように怒りが火花を散らす。

 自分にとっては取るに足らない、そんな些細な理由で彼らは争いを始めてしまう。

 きっと17世紀に起きた三十年戦争と呼ばれる惨劇も元を正せばそのようなものだったのだろう。

 どの宗派が一番だとか、どの思想の方が優れているだとか、信仰という本筋から外れた個人や集団のエゴによってもたらされた災厄。

 何が正しくて何が間違っているなどと、そんなことのために一国の人口の2割を含め、延べ800万人もの命が散っていったのだ。


 アンジェリカは心の中で高笑いをした。

 愉快だ。実に愉快だ。

 まるで意味のない争いに命を賭ける人間こそ狂人と呼ぶにふさわしい。まったくどうかしている。戦えと言われて決起し、意味もわからずに戦場へ向かい、襲ってきた敵に討たれて死ぬ。その有り様は滑稽に過ぎる。

 ただ当時を生きた人間にとっては〈それこそが正義であり、それこそが価値であった〉に違いない。

 さらに面白いのは、今を生きる人間達が過去の経験をまるで何も教訓としていないことだろう。

 戦争が終結して数百年の時が経つが、今でも先のような“つまらない理由”でいともたやすく人々はまた争いを始めてしまった。

 人が持つ闘争本能が進化の過程で消え去ることはない。それ以前に、遠い遠い昔から人はまるで教訓を得ていないことに合わせて〈進化もしていない〉。戦争の歴史がそれを事実に物語り証明している。


 さぁ、始めよう。

 この国でもう一度。

 主義と主張の衝突による惨禍と賛歌。

 血で血を洗う惨劇の幕開けを告げる鐘は既に鳴り響いた。

 憐れなる子羊に神の救いなど訪れない。

 なぜなら、いつだって“神”という存在は人間の味方などしたことはないのだから。


〈主義は何だって良い。過激であればあるほど良い。そういう争いが好ましいと感じられる、選民思想の権化たちがこの地には一定数いる。故に争いは避けようがないのだ。〉


 これから起きる出来事に胸を躍らせ、満面の笑みで好物のバニラアイスを頬張り通りを歩くアンジェリカであったが、気付けば目の前には目的の建物が姿を現していた。

 通りの向こう側からずっと見えてはいたが、実際に真下から眺めて見るとやはり立派なものである。

 西暦1450年に完成した高さ90メートルの宗教的建造物。聖ランベルティ教会。

 ローマカトリック司教座大聖堂への対抗教会という立ち位置を持っていた教会だ。

 毎晩日暮れになると塔の番人が角笛を吹いて火事への警戒を呼び掛ける伝統的な習わしが今なお続く場所でもある。

 とあるプロジェクトによって〈安息を求める3つの魂、或いは内なる炎の出現を表現した〉という〈3つの鬼火〉がこの教会に灯されたというが、現時点でさらに注目すべきはファサードを見上げた先にある別の3つのものだろう。

 大きな時計の上に正三角形状に並んだ四角い3つの鉄の籠。16世紀半ば、三十年戦争よりも前に起きた宗教対立、ミュンスターの反乱における指導者の遺体が見せしめの為に入れられたという籠である。

 当然、遺体が入れられた籠は今と同じ場所に吊り下げられていた。

 籠の犠牲者となったのは独自の千年王国を築き上げようとした指導者ヤン・ファン・ライデンの他にベルント・クレヒティング、ベルント・クニッパードリングの2人を加えた3人だ。

 支配の上にある支配。反乱と略奪。目に見える景色が示すのは、長い長い歴史における人間達の愚行の結晶。

 そしてもうすぐ、あの籠の中には新たに名も無き憐れなる子羊が詰め込まれることになる。


 運命の歯車は回る。

 始まりの鐘は鳴った。

 誰がどうしようと、もう後戻りなど出来ない。


 完璧な形で〈賽は投げられた〉のだ。



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