第20節 -大きな惨禍(フーガ)-

 洗面台の蛇口から勢いよく水が流れる。

 フロリアンは冷たい水で顔を洗い、蛇口を閉じると備え付けのタオルで軽く顔を押さえた。

 おもむろに顔を上げ、鏡に映る自分を眺める。顔色は昨日と比べれば随分とましになったようだ。思考のもやも冷たい水を浴びることで少しだけすっきりしたように感じられる。

 身体の具合も完璧までとは言えないが、日常を過ごす分にはまったく問題がない程度に回復していた。少しだけ、気だるさが節々に残っているくらいのものだ。


 ベッド脇に戻り、早々に服を着替え隊員服のズボンのベルトを締める。テーブルに置いたヘルメスとスマートデバイスを身に着け、最後に上着を着用する。

 時計に目を向けると、時刻は午前7時丁度を指していた。ヴァチカンの2人との待ち合わせ時間まではあと1時間。 

 今日からの調査行動は浮かれた気持ちで取り組めるようなものにはならないはずだ。今朝がたアシスタシアから送られてきたメッセージを見た印象はそのようなものだった。


「教会を巡る、か。」


 調査の為なのか、別の目的があるのかなど詳細は伏せられたままであったが、ミュンスターの街中にある教会をこの2日間かけて全て回っていくという。

 それも、カトリック系に限った話ではなく、各福音主義派や正教会などあらゆる宗派の教会を巡るらしい。

 3人で街中全ての教会を2日で回るなど現実的ではないような気もするが、きっと彼女達のことだから何か手立てはあるのだろう。

 とにかく時間通りに指定された目的地に向かうことが重要だ。

 最初の待ち合わせはホテルから北に1キロメートル歩いた先にある聖十字架教会と指定されている。

 第二次世界大戦で聖パウルス大聖堂が損壊した際、一時的にではあるがカトリックの大聖堂としての役目を果たしたという歴史を持つ場所である。


 フロリアンは幼い頃からよく目にしていたゴシックリバイバル建築の建物の姿を頭に想像した。

 教会はアイボリー色の外壁に黒の屋根という歴史を感じさせる美しい建物で、特徴的な淡いエメラルド色の鐘楼と天高く伸びる尖塔を備えている。

 幼かった頃、両親に連れられた初聖体拝領式〈プリメラ・コムニオン〉に参加した時に内部へ立ち入ったのが最後だっただろうか。

 それもちょうど復活祭が終わってそう日も経っていない、今と同じくらいの季節だったはずだ。

 教会内に設置されたパイプオルガンの大きさを見て子供心に圧倒され、そのうち気付いたら他の子どもたちと一緒に薄いウエハースにも似た小さな聖餅-発酵させずに作る真っ平らな薄いパン-を丸のみしていたという記憶が脳裏にぼんやりと残っている。

 聖体拝領を受けたは良いが、その後は熱心な信徒となることもなく、今では無宗派となってしまった。だが、あの経験も人生においては良い経験だったに違いない。

 洗礼を受ける為にカテキズムに則った勉強をしたことだって知識として役立っているのだから。

 経験できることは何でも経験させておこうという両親の教育方針には今でも感謝している。


 指定された場所について、懐かしい記憶を思い返しながら物思いに耽るが、それもここまでだ。先からず行動をしなければならない。

 とはいえ、目的地までは10分と少しで到着できる距離なのでまだまだ時間に余裕はある。ここはひとつ有意義な活動が出来るように体調管理に重きを置く方が良いだろう。

 であればまずは朝食だ。近くの美味しいパン屋やレストランもよく知っているが、アンジェリカの件も踏まえればむやみな外出をするべきではない。

 買い置きのパンと部屋備え付けのコーヒーメーカーで淹れる熱いコーヒーで簡単に済ませるとしよう。

 フロリアンはそう思いすぐに行動に移した。



 コーヒーメーカーがドリップをしている間、ロザリア達がなぜ落ち合う場所を聖パウルス大聖堂ではなく聖十字架教会にしたのかを思考する。

 理由はおそらくこのホテルと聖パウルス大聖堂の位置関係にあるのだろうと推察した。

 この場所から聖パウルス大聖堂に向かう、もしくはその逆を実行しようとすれば、どうしても聖ランベルティ教会やプリンツィパルマルクトの近くを通り抜けざるを得ない。

 だが、昨日の事件のことや今までの流れも踏まえれば、決して近付いて良い場所とは言えない。アンジェリカの行動範囲を鑑みても、むしろ絶対に避けるべき場所だ。

 そう考えると、聖ランベルティ教会とプリンツィパルマルクトをお互いの活動拠点から避けて合流できる聖十字架教会という指定は実に理に適った選択と言えよう。

 あの場所ならこのホテルからも、ロザリア達が拠点としていると言っていた司教館からも危険地帯を回避しながら辿り着くことが出来る。場合によっては道中のヴァッサー通りからブロイルに入る道で合流することだって可能だ。


 部屋の中に淹れたてのコーヒーの良い香りが漂う中、総菜パンを片手にメディアの発信するニュースをくまなくチェックする。

 映像ニュースやネット記事など、今回の事件にまつわる内容で確認出来るものは全て。


【ドイツ連邦政府 ミュンスター暴動に対する懸念を表明】

【ヴァチカン教皇庁 ドイツ ミュンスター暴動に関する談話を発表】

【ミュンスター暴動に関して 市長による会見を本日正午より放送予定】

【プリンツィパルマルクトへ警官隊配備 厳重警戒続く】

【速報 厳戒態勢のプリンツィパルマルクトでデモの動き】


 フロリアンは最後のニュースに目を留めた。

 プリンツィパルマルクトでデモ?

 該当のネット記事を開いて内容をすぐに確認する。



                 ===


《ネットメディアニュースより》

 騒動を拡大するプリンツィパルマルクトで新たな動きの兆候が確認された。

 21日未明から正午にかけての恐ろしい暴動は市民の心に大きな恐怖と不安を植え付けている。今回の騒動はローマカトリック派閥と福音主義派閥の間で巻き起こっている諍いによるものが根本原因と見られているが、真実は未だ定かではない。

 振り返り4月7日。旧市庁舎の窓から5人の福音主義信徒が投げ出された事件が発生した。以後も宗派に対する嫌がらせのようなビラが撒かれたりといったことが繰り返されており、警察ではこれら一連の事件が特定の首謀者、或いは組織による計画的犯行であると見て捜査を進めている。

 しかし、捜査も行き詰まりの様相を呈し、首謀者特定に向けた進展がないというのが実情のようだ。

 そんな中、あるインターネットサイトにて事件に関連したデモの実行を呼び掛ける動きが発生している。呼び掛けの内容は〈22日午前にプリンツィパルマルクトで信教の自由を訴えるデモを計画している〉といったものだ。

 当該の呼び掛けに対し、参加を表明する書き込みも多くなされており……


                 ===



 フロリアンは食事の手を止め、夢中で記事の細部まで見た。

 デモが行われるのは今日だ。しかも、午前中ということは既にプリンツィパルマルクトでは多くの人々が集まり行動を開始しているのかもしれない。

 すぐに部屋備え付けモニターのリモコンに手を伸ばして電源を入れ、メディアニュースを読み込む。すると、興奮気味にまくしたてるアナウンサーの声と共に、プリンツィパルマルクトに集結した大衆の姿が映し出された。

 周囲は警察による厳戒態勢が敷かれ完全に包囲されている。


 やはりあの通りに近付くことは出来ない。


 フロリアンは改めてそう考えた。

 聖十字架教会へ行く道筋についても、極力プリンツィパルマルクトから離れた道筋を選ぶのが賢明だろう。

 ニュースから視線を外し、手元のスマートデバイスにふと目を落とす。ロザリア達からの新たなメッセージなどは特にない。


 その時、ふと昨日ロザリアが自分に言った言葉が脳裏に蘇ってきたのだった。


『Eile mit Weile.〈ゆっくり急げ〉』


                 * * *


「絶景かな、絶景かな☆」


 無邪気な笑みを浮かべ、楽しそうに少女は嗤う。

 昨日と同じ、聖ランベルティ教会の向かい側にある建物の4階窓辺からプリンツィパルマルクトへ集った大衆を見下ろし、己の計画がいよいよ大きな転換点を迎えるべきところまで辿り着いたことを喜んだ。


「思い返せば、ここまで来るのも大変だったわね。タイプでもない司教に媚びを売ったりさ?あちこち飛び回って仕掛けをしたりさ?でも、それもようやく報われる時が来たんだって思うと感慨深いっていうか。」


 双頭の鷲を象ったぬいぐるみの頭を優しく撫でつつ、満面の笑顔でこれまで自身がしてきた苦労を自身で労う。

 眼下には大勢の人が詰めかけ、信教の自由を訴えかけるプラカードなどを掲げて口々に何かを叫んでいる。中にはカトリック教会の長き歴史にまつわる罵詈雑言が書かれたものも見受けられるし、反対に福音主義派に対する皮肉が書かれたカードを掲げる者も見られる。

 もはや特定の集団が特定の意思を表明する為のデモではなく、人々が言いたいことを叫ぶだけの集会。見た目通りの“混乱”“混沌”であり、断定的に言えばただの醜い〈罵り合い〉だ。


「きゃはははは!おっかしいの!でもでも、楽しいショーはこれからよ。さぁ、見せてちょうだい。数百年、千年経っても変わらない人間の本質というものを。憐れな人間の辿る末路というものを。」


 アスターヒューの瞳を淡く輝かせる少女は、地獄で罰を受ける人々を見下すような目でこの後の成り行きをじっと見守る。


「ここで無様な姿を楽しく曝け出してくれたなら、今度もっと凄いものを貴方達に見せてあ・げ・る……からね?」


                 * * *


 Religionsfreiheit〈信教の自由〉

 Bereuen Sie!〈悔い改めよ〉


 天に突き上げられたプラカードにはそのように書かれていた。

 ひしめき合う人々は己の意思を叫ぶ。だが、そこには自由を求める悲痛な叫びだけがこだまするわけではない。


 他者への攻撃

 認めない者への糾弾

 不要な対立を煽り、相手を屈服させようとする頑なな意志


 聖ランベルティ教会前の広場の近く、通りの隅に修道服を身に纏う1人の修道女の姿があった。

 混沌とする景色を目の前にして、ただそこに佇むだけの人。

 表情は無く、意思を示さず、行動もせず、じっと物陰から辺りの様子を窺っている。


「全ての元凶はお前達だ!横暴なカトリックがまた平和を乱そうとしているだけだ!」

「陰謀だ!福音主義は私達を貶めようとしている!」


 聞こえてくる声を聞き逃すことなく記録していく。

 眼前で起きる事象をひとつも余すことなく、全て。

 ひとえに、自らを生み出し総大司教へ事実を伝える為に。


 一方、プリンツィパルマルクトにおける別の場所の物陰にも同じような佇まいの男性の姿があった。

 周囲を観察し、その場で起きた出来事を全て正確に記録していく。

 ひとえに、自らを生み出し総大司教へ事実を伝える為に。


 人を象った“それ”ら無数の者達は、あらゆる場所からデモが巻き起こる様子をつぶさに観察し続けていた。


                 * * *


 聖十字架教会へと辿り着いたフロリアンは手元のスマートデバイスで時刻を確認する。

 午前7時55分。良い頃合いだ。

 ホテルを出てからというもの、周囲に最大限の警戒をしながら遠回りで歩いてきたことで、思ったよりは到着が遅くなったが約束の時間には間に合った。


 一息ついて空を見上げる。

 聳え立つ尖塔の先にある空はいつもと変わりない曇り空である。ただ、昨日に比べれば雲も薄く幾分か明るい。

 日光が届かない影響から、相変わらず気温も低いままで、現在の外気温は6度だ。上着がなければすぐに風邪をひいてしまうような肌寒さである。


 気持ちを晴らしてはくれない空から目を逸らし、教会の入り口に目を向けたとき、見慣れた少女2人の姿が視界に入った。

 いつからそこに立っていたのだろう。自分がここに到着した時には姿が見えなかったはずだが。

 不思議には思うが、彼女らの特異性を考えれば大したことだとは思えなかった。

 構うことなくフロリアンは朝の挨拶をする。

「ロザリア、アシスタシア、おはよう。」

「ごきげんよう、フロリアン。昨日はゆっくりお休みになれましたか?」慈愛に満ちた笑みを湛えながらロザリアが言う。

「おかげさまでこの通り。もう大丈夫だよ。アシスタシア、昨日はありがとう。」

「無事回復されたようで何よりです。」

 この素っ気なさにも随分と慣れたものだ。表情ひとつ変えることなく返事をするアシスタシアを見てフロリアンはそう感じていた。


 とりあえずの挨拶を終えると、フロリアンはすぐに本題を切り出した。

「ロザリア、今日からの行動内容を詳しく説明してほしい。」

「承知しております。わたくしどもが新たに得た情報も踏まえて、じっくりとお話をさせていただきましょう。話は教会の中で。」

 言葉を言い終えるか否かというところでロザリアは後ろを振り返り、教会の入口へと向かって歩き出し、アシスタシアも続く。フロリアンも2人の後を追って続いた。


 黒扉の立派な玄関を通り抜けて教会内部へと入ると、すぐにアシスタシアが扉を閉め、内側から厳重に複数の錠を掛けた。

 フロリアンが彼女の行動に視線を送ると、すかさずロザリアが言う。

「今日この場において、わたくしたち3人の他には誰1人としてこの場に近付けることも立ち入らせることも出来ません。故に、少々過剰とも思われる行動もありましょうが流して頂ければと思います。」静かな口調でそう言うと奥へ向かうように誘導する。「さぁ、参りましょうか。」

 進んだ先の奥に見える祭壇は赤紫色に照らされ、大きな十字架と磔刑となったキリストの像が吊り下げられている。


 祭壇まで歩みを進めると、ロザリアは中央に立ち十字を切って祈りを捧げ、アシスタシアも同じように祈りを捧げる。

 フロリアンは2人の祈祷が終わるまで久しぶりに訪れた教会内を見渡した。

 美しいステンドグラスと装飾品の数々。遠い昔にプリメラ・コムニオンに参加したときから、おそらく見かけ上は何も変わっていない。

 目まぐるしく変化を続ける世界の中で、こうして変わらないものが歴史の中に残っていくのもなかなかに感慨深いものがある。

 周囲を見渡し、フロリアンが祭壇へと視線を戻した丁度その時、2人は祈りを終えたようだった。

「では、昨夜わたくしたちが入手した情報の共有から始めるとしましょう。デバイスに必要なデータを送信いたしますので、資料の閲覧と併せて話をお聞きくださいまし。」

 ロザリアはフロリアンのデバイス宛に資料データをすぐに送信し、フロリアンのデバイスがデータ受信を告げた。


「凄い量のデータだ。これを一晩で?」送られてきた資料データを起動し、中身を一目見てフロリアンは言った。

「いいえ、わたくしどもが情報を調べ上げたわけではありません。この膨大な資料を提供してくれたのはマリアですわ。」

「マリーが?」

「はい。昨日夕食を共にした際にこれら一式を。」

 その一言を聞いたフロリアンは背筋に悪寒が走るのを感じた。

「ロザリア、アシスタシア。少し話が逸れてしまうけど聞いておきたいことがある。貴女達がマリーと一緒に夕食を共にしたのは何時ごろだったか教えて欲しい。」

「午後7時頃から9時頃までは共に過ごしましたわ。」

「その間、マリーは一度も席を外さなかったかい?」

「えぇ、ただの一度も。夕食の部屋に彼女達が入ってきてからは、わたくしとマリー、そしてトリッシュ、ホルス、ブランダはずっと部屋におりました。唯一、アザミ様とアシスタシアはデザートを取りにいく間だけ席を外しましたが極短時間でしたわね。それがどうかなさいましたか?」

 嫌な予感というものほど当たる。フロリアンは昨夜ホテルを訪れたマリアを名乗る人物が偽物であったことを確信し、同時に正体が誰であったのかについても確信した。

「昨日の夜8時ごろ、僕がホテルで休んでいる時に来客があった。ホテルのフロントからのコールで〈マリア・オルティス・クリスティー〉を名乗る人物が僕に会いたいと言ってきていると言われたんだ。」

 ロザリアとアシスタシアは話の意味を悟ると表情を険しくする。

「それでも、貴方様は来客とはお会いにならなかった。」ロザリアが言う。

「嫌な予感があったんだ。話を聞いた時に、あの子の姿が脳裏に浮かんだ。」

「アンジェリカ。」

「間違いないと思う。その時は姿を見たわけでもないし、声を聞いたわけでもない。そして朝、ホテルのフロントに昨夜訪れた人物の特徴を教えて欲しいと言ったら金色の髪に赤い瞳で黒いドレスを纏った少女だと言った。けど、さっきの話を聞けばマリーが僕に会いに来ることは有り得ないと分かる。」

 ロザリアは軽く息を吐き、上方の十字架を見上げて言う。

「その直感は大事になさってください。今後もあの子が同じような方法を使って貴方に近付こうとする可能性も否定できません。傍にわたくしやアシスタシアがいるときならばまだしも、1人きりの時にそのような事態に見舞われることだって有り得ます。」

 そして視線を下ろし、再びフロリアンへ向き直って言う。

「フロリアン、この地でわたくしが最初に貴方様に提案しお伝えしたことを覚えていらっしゃいますか?」

「確か、“接しやすくするために呼び方を変えよう”という話だった。」

「はい。そのことはどうか心にずっと留め置いていてくださいまし。貴方様のことを〈ヘンネフェルト〉と呼ぶ何者かが現れ近付いてきた際は迷いなく逃げることです。」


 それを聞いた瞬間、フロリアンは初日にアー川沿いの道を歩いていた時に彼女がした話を思い出した。

 2日前のあの時、自分はロザリアにこう問い掛けた。

『貴女方の日常を知ることにどんな意味があるのですか?』

 それに対して彼女は『聡明な貴方ならいずれ分かる時が来る』と返事をした。


 違和感を感じれば逃げろ。


 つまり、ロザリアは最初から自分がアンジェリカにつけ狙われる状況が訪れることを見通していたのだ。しかも彼女が自分に近付いてくるときに〈完璧な擬装〉を手段として持ち出すことまで踏まえて。


「小手先の対策で完璧とはまでは言いませんが、危機の判断材料において目安程度にはなりましょう。あの子がどの程度の擬装が出来るものか推し量ったことはありませんが、先に聞いた話ではそれなりにうまく対象者へ擬態することが出来るものと考えた方が良さそうですわね。」

「肝に銘じておくよ。……色々な意味でね。」

 するとアシスタシアが言った。

「彼女の過去についてあまり感傷的になりませんようお気を付け下さい。」

 心を見透かされているようだ。ロザリアの近くにいる人物なのだからそういうこともあるのだろうか。フロリアンは思う。

「大丈夫。」


 3人の間に少しの静寂が訪れるが、一息入れてフロリアンが言う。

「ごめん、話を逸らしてしまった。改めて、これからのことについて聞かせて欲しい。」

「承知いたしました。」

 ロザリアは真剣な眼差しでそう言い、フロリアンに昨夜入手した情報の全てを伝え始めた。


                 * * *


「プリンツィパルマルクトの状況は?」マリアが言う。

「デモが徐々に激しさを増してきています。現状、聖ランベルティ教会から聖パウルス大聖堂に向かって、カトリック派と福音主義派が隊列を形成して行進しているところです。その周囲を警官隊が包囲するように取り囲んではいますが、列から外れた一部が暴れて取り押さえられています。」アザミは自身の権能とも呼ぶべき力を使い、プリンツィパルマルクトや各教会などの今の状況を直接観測している。

 観測したい場所に “目”となる影を飛ばすことによって様子を探ることが出来るのだ。

「周辺にアンジェリカの気配は確認出来るかな?」

「いえ、外に姿や気配は確認出来ません。ですが、この状況を観察していないこともないでしょうから、差し詰めどこかの建物内から悠々自適に見物でもしているのかと。」

「ありがとう。引き続き監視の目は飛ばしておいてくれたまえ。」

「承知いたしました。」


 マリアとアザミ、そしてアネモネア3姉妹。ホテルの部屋には昨日と同じように5人全員が集まり、今朝からプリンツィパルマルクトで起きているデモの状況を見守っている。

「うっはぁ……凄いことになってる。」ふかふかのベッドに腰を下ろしスマートデバイスで映像を見るホルテンシスが言う。

「酷い状況だね。」

「そうね。」同じようにベッドに腰を下ろして映像を眺めるブランダとシルベストリスも言った。

 アザミとは違い、直接現地の様子を見ることが出来ない3人は“とある筋”からデバイスに直接送られてきている映像を見て状況を把握している最中だ。

 姉妹たちはそれぞれのデバイスに目を釘付けて映像を注視する。3人が眺めている映像はどれも至近距離から記録されている映像で、現場の混乱する様子が生々しく伝わってくるようなものであった。

 メディアも現在の状況をある程度はライブ中継してはいるが、3人が見ている映像はそれとは違う。ニュースなどで繰り返し放送されているものとはまったく別のものである。

 ある程度映像を眺め、今度は別の角度や場所から記録された映像に切り替える。これを繰り返して、プリンツィパルマルクト全域で何が起きているのかの全容を把握していく。

 

「ロザリーも良い仕事をしてくれる。さすがといったところだね。」感心した様子でマリアが言う。

 すぐ傍でアザミも同じように言った。「ある意味では恐ろしいとも言えましょうか。これだけのことを簡単にこなしてしまうなど、彼女の御業はほとんど神域のものといって差し支えないかと。」

「元々神である君がそう言うなら間違いないのだろうね。こういうのを見せつけられると、改めて敵側には回したくないものだと考えてしまう。」

 2人が言及しているのは、先程から姉妹たちが眺めている映像のことについてだ。

 それらは、ロザリアがプリンツィパルマルクト全域に配置した合計20体の“人形”から送られてきている。彼女が指を鳴らすだけで生み出した人形の視界に入った映像、耳に届いた音、それらを姉妹たちのスマートデバイスで閲覧できるようにしているのである。

「てっきり、アシスタシアという1人の最高傑作を制御する為に、他の人形の創出と操作は制限しているのかと思っていたけれど、実の所はまったく問題ないらしい。いや、彼女の存在と能力の使用範囲は全くの別物で、関係すらないようだ。」

「アシスタシアに自我を持たせ、自立させているからこそと言えるでしょう。昨夜、彼女と2人で話したときに非常に不思議に思ったものですが、ある程度は納得がいきました。」

 マリアはアザミに目を向けて問う。「残りの“ある程度”は?」

「未知数です。かのパトリアルクスの考えることなど理解の及ぶことではありません。」

 アザミの返事にマリアは笑った。「そうだろうとも。不可視の薔薇。私が“予言の花”と呼ばれるのと同じように、それが彼女の二つ名だ。心を視通せる者なんていないだろうね。言い換えれば“素直ではない”とも言えるのだろうけれど。」


 そう言うとマリアはソファから立ち上がって姉妹たちの傍まで歩み寄って言う。

「状況は見ての通りだ。良くも悪くも事前の予測から寸分の狂いもない。故に私達は予定通り、ここを拠点としたまま情報収集をしつつ、〈発覚〉の引き金が引かれる直前に行動を起こすことになる。」

 するとホルテンシスがすかさず挙手をして言った。「はい!マリア様質問です!」

 マリアはすぐ傍の椅子に腰を下ろしながら言う。「構わないよ。何だい?」

「情報収集についてですが、具体的にどのようなことを?」

「何が起きていて、どう対処するかまでは決まった。であれば、最後は〈何を言うのか〉だ。」

「それはー、えっと、もしかすると?私が話す内容について……ということでしょうか。」

「もちろん。ただ“争いはやめるべきだ”といって争いが無くなるなら単純な話だけれど、そういうわけにはいかない。人々に何を伝えるべきか、私達皆で考えようということがつまるところの“情報収集”になる。」

 急激にしんみりした様子で言うホルテンシスにマリアは穏やかに話す。マリアは椅子からすぐに立ち上がるとホルテンシスに歩み寄り、優しく頭を撫でながら言う。

「ホルス、君は1人ではない。私達がいる。安心したまえよ。自信がどうしても持てない時はそう言えば良いんだ。そうすれば私達は君が自信を持つことが出来るように心から寄り添うだろう。どうしても無理だと思えばそう言えば良い。そうすれば私達は別の手段を皆で考えよう。」

 ホルテンシスはマリアの手が優しく自身の頭を撫でるたびに嬉しそうな表情を浮かべる。

 そして静かに目を閉じて深呼吸をして言った。

「やります。既に決めていることです。無理だなんて言いません。自信がないだなんて言いません。私は私の出来ることをする。それでみんなが幸せになれるなら、私も幸せだから☆」

 いつものようなゆるい笑顔を浮かべながらも、ホルテンシスは力強く宣言した。

 マリアは彼女を撫でる手を止めて下ろすと笑みを湛えて感謝を伝える。

「ありがとう。」


 続いて様子を少し離れた位置から見守っていたアザミが言う。

「マリー。人々に伝える内容を決めていく過程についてですが、どのようにして考えていくつもりですか?」

「考えるより聞いた方が早い。いや、明確に言えば“何を望んでいるのか聞き出した方が早い”。そう考えているよ。」

「何を望んでいるか。それではまるで彼女のような。」

 アザミはある人物を浮かべながら言う。その人とは当然ロザリアのことだ。

 他者の記憶を読み、他者が求める言葉を的確に伝える。彼女が最も得意とすることである。

「似て非なるもの。ロザリーの力というものはあくまで他者が言ってほしいだろうことを“想像した上で伝える”ものだ。私達がこれからやろうとすることは当人が一番求めていることを“本人の口から言わせる”ものだ。分かるね?」

 マリアの返事を得たアザミは視線をブランダへと向けた。

 

 慈悲と慈愛、記憶を司る大天使ザドキエルの加護を持つブランダが持つ特別な才は完全記憶能力だけではない。

 公正・高潔を示し、人の内なる記憶を解き明かし、自らの存在について思い起こさせること。ザドキエルの加護を持って、他者が心の奥底に閉じ込め封印した記憶に干渉することが出来るのだ。

 トラウマ。人は深い心の傷を負った時、無意識化でそれを“無かったもの”として封印することで理性と自制を保っている。傷を負った瞬間は難しいが、切り傷が出来た皮膚にかさぶたが出来てやがて再生していくように、心というものも時間の経過と共に“忘れる”という手段を持って傷を覆い隠し回復を果たす。

 精神の浄化。過去の辛い記憶で精神に支障をきたしている人に寄り添うことで癒しを与える才覚。


 どうすればよかったのか、どう考えるべきだったのか、本当はどう考えていたのか。


 ブランダの力とはそれら封印された記憶を呼び起こす、または傷となるような記憶を抹消し封印するものである。

 ただし、記憶の呼び起こしと封印は出来ても、それが別の記憶であったと誤認識させるような改竄は出来ず、ロザリアのように自身が他者の記憶を垣間見ることも出来ない。あくまで対象となる本人の記憶の引き出しに働きかけるものだ。

 ロザリアの力と大きく異なる点は、マリアが言うように〈本人が自らの記憶を元に、自らの意思で、自らの気持ちを語る〉ということだろう。


「この事件が起きる前、アンジェリカは相当綿密に対象者を絞り込んだ上で直接的な働きかけを行い、事件が起きるように誘導、扇動していったはずだ。バタフライ効果。小さなうねりがやがて大きなうねりになるものを示すが、その小さなうねりを引き起こすためのきっかけとした人物とその本心。それらを汲み取ることが最も重要だと考えている。事件の根幹に繋がることだからね。ブランダ、君の力を貸してほしい。」

 マリアもブランダに視線を送り言う。

「はい。こんな私でも、役に立てることがあるなら何でも。頑張ります。」

「頼りにしているよ。」

 慈しみを湛えた笑みをブランダに送りながらマリアは言った。続けてシルベストリスに目を向けて言う。

「トリッシュ、これからすぐに事件の発端に関与した人々を探す手伝いをしてほしい。」

 物事を視通す力に長け、近未来予測と同じように“探し物”を見つけ出す力に秀でる彼女の力を頼りにしてのことだ。

 探し物に加え、その人物がどこにいるのかを探知する力にも極めて優れた資質をシルベストリスは兼ね備えている。

「承知しました。しかし、手掛かり無く短時間で探すのは無謀なように思います。ヒントとなるものがあると助かるのですが。」

「もっともな意見だ。けれど心配はいらないよ。その為に君達3人に調べ物をしてもらっていたのだから。」

「あ、私達がずっとしていた聞き込みってもしかして?」手をぽんっと叩きながらホルテンシスが言った。

「そう。この地に来てからずっと人探しに似たような聞き込みをしてもらっていた理由がそれだ。」

 マリアはスマートデバイスのホログラムモニターを立ち上げると、これまでに姉妹たちがミュンスターの街の人々に聞き込みをして得た情報の一覧を表示した。

 そこには聞き込みをした人物の顔写真と氏名、住所、連絡先が全て明確に記載されている。

「はぇ~……国連半端なくない?ここまでわかっちゃうんだ。ぁたしちゃんの理解を超越する展開なり。」驚愕の表情を浮かべてホルテンシスが言った。

「国際連盟がというより、私達セクション6だからこそというべきだね。他のセクションでは個人の情報を得ることはまず無理だろう。

 それはさておき、この中におそらくは5~6人。アンジェリカと直接接触して何かを吹き込まれ、行動を起こすように誘導された人物がいるはずだ。その人物達は彼女の力によって、自身と遭遇したという記憶自体を抹消されている可能性が高い。先からずそれを暴くとしよう。

 ブランダ、ここに表示されている人物達全てに聞き込みをした場所、時間、話した言葉の内容まで含めて全て覚えているね?」

「はい。印象に残った方から、順番に言っていくのが良いかな?」

「頼む。トリッシュ、ブランダの話を元に私達が探すべき人物が誰なのか候補を挙げて欲しい。最初は大まかに候補を立てるだけでも構わない。」

「承知いたしました。」


 シルベストリスが返事をした直後、ホルテンシスの声が他の姉妹達の脳内に響く。

『うへぇ~……マリア様ってば、そこまで考えていらっしゃったの?そしてトリッシュ、ブランダやっぱりすっごーい。私は隅でじっくり話を聞くだけに徹しようかな☆』

『もう、ホルスも一緒に探さないと。いくらブランダが全てを記憶しているといっても、そもそもこの人達に話し掛けに言ったのはほぼ百パーセント貴女なのだから。いくらブランダでも聞こえなかったことは記憶できないのだから、貴女がしっかりサポートしないと。』

『うん。凄かったよね。ホルス、コミュ力の塊だった。私には、真似できないかな。』

『えへへー☆もっと褒めて☆そしたら、ぁたしちゃんもっと頑張っちゃう♡』


 姉妹たちの様子を見やりながら、彼女達だけで何かを話していることをマリアは感じ取った。おおよそ何を話しているのかも含めて。

「では早速取り掛かろう。」

「「「はい!」」」

 マリアの呼び掛けに姉妹たちは元気に答える。

「アザミ、引き続きプリンツィパルマルクトとその周囲一帯の警戒と観察を頼む。それと、出来ればロザリーたちの様子も観測しておいておくれ。今あの3人は聖十字架教会で調査行動の打ち合わせをしている頃合いだろう。それが終わって行動を開始した後、アンジェリカがきちんと食いつくかどうかを確認しておきたい。」

「はい。承知いたしました。」アザミはいつもと変わらぬ冷静な口調で返事をする。

「それと、例の件についてメディアに情報をリークしてくれたまえ。ロザリーたちの動きに合わせるように。情報戦というものは常にタイミングが重要だからね。」

 マリアは予め用意していた仕掛けを使うようアザミに指示を出した。

 赤い宝玉。マリアの美しい瞳に映る未来。辿り着くべき結末へと誘う為、不必要な枝葉を丁寧に剪定するかのようにセクション6は水面下で動き出す。


 こうして情報戦に徹する国際連盟側の本格的な行動は開始されたのであった。



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