第三十話

 香椎の周りを飛び回る虚構生物の壁を見て、加賀美はチッと荒く舌打ちをし青筋を立てていた。

 深宿駅から少し離れた、けれども同じ大通り上。歩行者天国状態の道路を虚ろ気な顔で、ぶらりぶらりと左右に体を振り歩く香椎を見据えながら、加賀美はその前方を先立って歩いていた。

 どうやら香椎へ一定の距離近づくと消失に巻き込まれるらしい。彼女に歩み寄った中年の警察が跡形もなく消えたのを見て理解した。

 加賀美は香椎の速度に合わせながら、距離感二十m程を保ちながら後退して歩き、虚構生物と彼女の才能の様子を見る。

 虚構生物は隠れた人間を炙り出すように、ガードレールを引きちぎっては振り回し、路面店の扉を蹴破っては中を覗き、路地裏の室外機を踏み壊している。けれども香椎の正面で距離を保つ加賀美には興味をもたない。身を隠した人間の消失だけが目的らしく、発見した人間を食す真似もしない。

 加賀美は虚構生物が人間を見つけては、幻で身を隠してやって、虚構生物が混乱している合間にその人へ避難を呼びかけてを繰り返している。

「まずは接近可能距離。当たっても悪く思わないでよね」

 潰れた空き缶を拾い、香椎の足元を狙って投げる。彼女の手前にガシャンと音を立てて空き缶が転がって、香椎がぴくりと肩を震わせてそれを見ると、三秒程して消える。

 彼女が視界に捉えることは消失の条件らしいが、既に視界にいる加賀美が消えない。やはり可能距離があるらしい。

 けれど彼女は消失の初犯を遠距離で起こした。距離というより、物体の認識が問題か。物体を認識し、それが消せるか判断し、消失に至る三秒のタイムラグ。学校の場合は既に物を認識していて、才能を発動するだけだったか。才能を発動してから消えるまで、誰も認識していないラグがあったはず。

 物の認識、消失の命令、消失の発生。加賀美が消失してないのは、視力が悪く見えていないか、遠距離のため人間と認識していない可能性。

「消せないものはあるのかしら、それが分かれば──」

 ふと辺りを見渡して思う。物といえば、道路も周囲の建物も全て物質だ。けれど、消えていない。彼女は平然と道路を歩き、虚構生物を従えている。

 建物だけではない。虚構生物の破壊で起きた火事やその瓦礫もだ。思い立って、先程虚構生物が壊したガードレールを見る。虚構生物が引き抜いた物は消えていたが、地面に立っている物は残っている。

「大きさ、消せないって認識……とりあえず大きさを試しましょ。喝采は赤、称賛は青。惜しむらくは亡き灰の空。共に終わらぬ夜を夢見て。才能開示【再演】」

 呟いて、左人差し指の金指輪に触れる。指輪はその質量をむくむくと広げ、次第に加賀美の身長百八十程と同じまでになる。だが重さは指輪と変わらない。

 金属の質量及び形状変化の限度は、重量と大きさ共に加賀美の身長体重程度まで。アクセサリの数にも限りがあるから慎重に使いたいが仕方ない。

「頼むから、避けて頂戴ね!」

 巨大な金属の板をひょいと持ち上げると、香椎に向かって投げつけた。放物線を描いて飛んだそれか香椎にぶつかる、と思うと。

 ガンッ! と音がして、金属板が横へ弾き飛ばされて、道路脇の金物屋の壁へぶつかる。香椎ではない。虚構生物が割入って、それを弾いたようだ。

「消せないものは消せない、ってことね」

 理解しつつ、加賀美はちらりと後方を確認して舌打ちする。大通りをこのまま真っ直ぐ進めば深宿駅がある。確かあそこは野次馬だらけで、哀川が避難誘導をしてるはずだが、どれほどかかるかわからない。ここで足止めしなくては。

「でも、近づけないんじゃ意味が──」

「景さんっ!」

 聞き慣れた声がして空を見上げれば、快晴を背景に金字の虚構生物を乗りこなして、羽深がひらりと地面に降り立つ。

「は?! 弥、アンタなんでここに!」

 加賀美は驚愕に目を見開いた。間違いない、瀟洒な黒髪も身なりも彼女のもの。金細工の頭飾りは加賀美がかつてあげたものだ。

 まさか、自ら外に出たのか?

「その話は後です。消失について、何かわかりましたか?」

 髪を結びながら香椎を見据える羽深に、加賀美は目を瞬かせて頷く。

「それなら予想はついた。物体の消失までに三秒のタイムラグがある。多分あの子が、それを消せるものがどうか認識してる時間差。炎とか大きな物体とか建物っていう、あの子が『消せない』って認識したものは消えなさそう──それと多分、あの子洗脳されてるわよ」

 加賀美は心配げに香椎を見て、髪を荒々しく掻く。彼女の様子は明らかに異常だ。人が消えても何も言わず、加賀美を知らない人のように見て、魂の抜けた顔をしている。廃墟で会った感情の起伏の激しい香椎らしくない。

「確か思考停止か目的達成、気絶、死亡、考えの上書きでどうにかできるのよね」

「はい。命令された行動に対して、やってはいけないという意識、つまり彼女が消してはいけないと考えると──景さん、私に考えがあります。消せないと認識させるのではなく、消しちゃ駄目だと思考させれば良いのでしょう?」

「そうだけど、どうやるの?」

「炎の壁で彼女の進路を遮って、同時にキルケゴールを退けます。私がその炎を抜けて、彼女にこれを」

「それは、スケッチブック? なんでそんなもの持ってんのよ」

 彼女の体に巻き付けていた紐を解き、ショートデザインシャツに隠すようにしていたそれを持つ。一般的な表示デザインのスケッチだ、加賀美にもよく見覚えがある。

 確かに羽深の生成した炎は、何かに燃え移って勢いを増さない限りは彼女を燃やさない。けれどスケッチブックで何か解決できるとは思えない。

「香椎さんが消せなかったものです。これを彼女に返すべきだと思い、持ってきました」

 思い返せば香椎は、教室の風景を絵に描いたと話していた。それを羽深が所持しているのは疑問だが、大方香椎が五樹へ、五樹が羽深へあげたのだろう。

 香椎が『絶対に消してはいけない』と思うのなら、その思考で洗脳を上書きできる可能性はある。作戦としても、幸いここは二車線の大通り、中央分離帯も植え込みではなく広い土地だ。燃え移るとしたらガードレールやポールだが、その程度なら降雨でどうにかなる。

 だが問題は、

「炎、使えるの?」

 加賀美が神隠し事件で扱った、虚構生物を爆発した炎。それは他でもない羽深のもの。けれどその才能の起因は、大解放で仮象空間を──内海を焼き殺した炎だ。

 憂うように彼女を見下ろすと、羽深は芯のある目で、けれど僅かに戸惑ったように自然を泳がせる。

「使えるかどうかではありません。何があっても、使います。これにすべてがかかってるから」

 羽深は自身に言い聞かせるように呟いて、香椎から後退するのをやめ、彼女に少しずつ歩み寄る。羽深の足元にふわりと青白い花が開いて、嗚呼彼女の服は足跡に花咲くのだったと思い出し、今更ながら彼女が外に出た事実を理解する。

「景さん、私の姿を幻で消してください。消失できる人間と認識されたら駄目なら、消せない物をゼロ距離で突きつけます」

「わかったわ」

 言われるがまま才能を発動し、彼女の体が一瞬だけ揺らめく。これでもう、加賀美にしか羽深の姿は見えない。

「弥、怖くないの?」

 香椎へ立ち向かう彼女の背へ、ぽつりと呟いた。羽深は肩をびくりと震わせて、今にも泣きそうに震えた瞳で加賀美を振り返る。

「怖いですよ。けれど一番怖いのは、大切な人さんが消えてしまうこと。それに比べたら、居場所なんて、無くなったっていい」

 体の脇で握った拳は怯えに震え、強気な言葉を吐く声は震えている。

 羽深の赤い瞳へ、燃える業火の揺らぎが鮮明に灯る。

「恐れ多くも我人われひとは、分かつ言葉を紡ぐのです。神よ、冷たく黙し、我が前へ跪いて。才能開示【夢物語】」

 開いた掌を香椎へ伸ばす。その掌上にぽつ、と橙の火種が生まれ蠢き、やがてびゅうと強く吹いた風に煽られて、その炎は轟々と猛り、見上げるほどの豪炎と化す。

「一から何かを作る、それが表現者のあり方だから。消えてもやり直せるように、頑張るから! だから、だからッ!」

 彼女は掌上に炎を宿したまま、手を横薙ぎに払った。瞬間、赤々と燃える炎が香椎を取り囲む籠となって、彼女の姿を多い隠す。突如として現れた炎に、虚構生物が慄き逃げるように飛び上がった。視界一杯の赤と金の揺らぎを見て、羽深がスケッチブックを大切そうに抱えると、その炎の中に飛び込む。



 炎の壁を掻き分けて、同時に解けた幻の中から蜃気楼のように羽深が現れると、香椎は驚愕に目を見開いた。

「あ……」

 彼女の嗚咽を聞いて、羽深はスケッチブックを彼女の胸に押し付けて渡す。香椎は虚ろな瞳でそれを見下して、ぱちりと目を瞬かせる。

「けしちゃ、だめだ」

 その暗く陰った表情が炎の赤に照らされて、明るさを取り戻すのを見て、羽深は歓喜を顕に花のように笑う。

 ばちっ火花が散って飛んだ二人の羽深の頬に触れる度、肌を刺す痛みが走り、その火に当てられる二人の体が熱を帯びる。しかし何処か柔らかく、心の温まるような火だった。

「初めまして、羽深弥と申します。貴方が香椎さんですか? お会いできて光栄です──もう、何も消さなくて良いんですよ」



「弥ッ!」

 羽深が才能を解除したらしい。炎の籠がぷすぷすと消えて白煙の中に羽深を認め、加賀美は焦って駆け寄る。二人に怪我は無く、けれど香椎は羽深の腕の中で力無くぐたりと抱えられている。

「景さん。彼女を起こして、消失を解除してもらいますか?」

「いえ、いいわ。開放された人々が混乱を招く可能性もあるし、むしろ今の状況なら、消えてた方が被害から逃げられるもの」

 被害といっても、消失の心配はもう無さそうだ。虚構生物は炎に臆して何処かへ飛び去った。斑鳩の元へ帰ったのだろう。少なくとも香椎を脅かす不安は、ここにはもう何もない。

「それよりもアンタ、どうしてここに。外に、出られたの?」

 慈しみの目で香椎の頭を撫で付ける羽深の側にしゃがみ、彼女の顔を覗き込む。羽深は少し恥ずかしそうに頬を赤らめて首を傾げた。

「五樹さんに言われて、気がついたんです。『外を出る』のは、私の決断次第だと。それがずっと出来なかった。でも今回になって思いました。もしも外で皆が死んでしまったら、私はその亡骸を拾えないことに。皆の死を見過ごすぐらいなら、私も共に戦いたい。だって私、すごく強いんですよ?」

 冠を戴く彼女はそれの位置を正しながら、悪戯っぽく微笑む。晴れやかな、夏場の太陽のような顔だった。

 彼女は空間の支配者、夜警の一人。弱い人間とは一度も思ったことはない。けれど彼女の中に巣食っていた不安は、少なくとも一つとれたらしい。

 加賀美は羽深の頭を撫でつけようとして、けれど冠をズラしたくなくて、代わりに羽深の手をとって、正面から彼女の紅赤の瞳を見つめる。

「アタシ、ずっと目をそらしてた。アンタが傷ついてるのに、自分じゃ力になれないからって、何も言わずに傍観してて。だけど、今日は言うわ──アンタは悪いことをした。牢獄の管理者の職務を放棄して、囚人を解放した。そのせいで罪のない人がたくさん死んで、今も囚人は逃げおおせてる。それは揺るぎない事実なの」

 例え誰が手引きして、道を舗装したとしても。彼女が逃げた事実に変わりない。言えば彼女を傷つけるから、ずっと胸の内に秘めていた言葉。

 けれど五樹に言われ、それじゃ駄目だと気がついた。悪いことをしたら叱るのが当たり前だから。

「帰ったら、アンタも仙もお説教よ。自分がやってしまったことと向き合って、反省しないといけない──ねぇ弥、指切りしましょ」

 加賀美は羽深の小指と優しく絡めると、ゆびきりげんまん、とはにかんで言う。

 内海が反逆を企て、哀川が大解放を選び、コウが被害を広げ、羽深が逃げた。なら加賀美は何の罪を背負うべきか。

「アタシ、共犯者になるわ。アタシは一緒に逃げた、だからアタシも同じ罪を背負うわ。皆が引き起こしたこの大惨事を、アタシの手で終わらせる。皆で一緒に犯罪者になりましょ?」

「大惨事を、終わらせる?」

「えぇ。アタシ、斑鳩かがりを殺すわ。だからその後は──弥と仙で、アタシを叱ってちょうだいね?」

 加賀美も五樹と同じく、人殺しを嫌悪していた。けれどそれ以上に、罪のない子供が凄惨な目に遭うのが耐えられない。

 だから、斑鳩を殺す。それが犯罪になるとしても。

「景さん。空を飛んだら何を気にするのかって話、覚えてますか?」

「えぇ、電線でしょう?」

「はい。でも先程空を飛んでいて、電線なんて微塵も気にならなかった。高度の問題もありますが、それ以上に景色が素晴らしくて──嗚呼、世界って、こんなに広かったんですね」

 羽深が空を仰いで言う。雲ひとつない快晴は、空の端から徐々に赤らんで、そろそろ夕暮れが訪れることを告げている。酷く長い一日だと思った。

「景さん。私、いつか世界を創りたい」

 呟いた言葉に驚いて、加賀美は彼女の顔を見る。羽深は曇のない瞳に青空いっぱい映して、夢見る少女の顔でいた。

「五樹さんに言われて考えました。私は私の世界を、どんな形にしたいのか。自由に変化できる範囲を2kmより更に広げて、地球全体の裏世界を作りたい。私理想の平和な裏世界を、いつか作りたい。だから沢山外に出て、色んな場所を旅したい」

「いいわね、それ。全部終わって、皆で生きていたら──そうしましょう」

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