第十七話
暮れ始めた夕日が西空に沈み、薄く色づいた桃と水色の空が幻想的なグラデーションを帯びている。景色は仄暗く、生暖かい空気が肌を撫でる。住宅街片隅の乙女坂で、二人は西空に背を向けて斜面を見ていた。
乙女坂の怪奇現象。それは毎日十七時になると、斜面を転がる影が現れるというものだ。人の気配も無く影のみが存在する不気味さから、近隣住民から不安の声があがっているらしい。
坂の麓で道の端に避けながら、加賀美が腕時計を見て溜息を吐く。
「午後五時まであと五分と。待ってりゃすぐね、しりとりでもする?」
「それよかお喋りしよ。加賀美さんってどこで服買ってんの?」
「普通に店よ。でも通販は無理ね、配達員がアトリエテラスまで来られないもの」
「到達不可能が理由で通販できない人、人生で初めて見た。そういや丸眼鏡って哀川さんもつけてたけど、一緒の店?」
苦笑いしながら問うと、加賀美は「嗚呼」と丸眼鏡の柄に触れる。
「違うわよ、仙のは貰い物。というかアタシはお洒落でコレつけてるけど、仙の場合は癖よ」
「癖?」
「昔、目があった相手を石にする才能を相手したことがあって。それの対策に眼鏡をかける癖が残ってるらしいわ」
「なにそれ、現代のメドゥーサか何か?」
「昔で思いだした。実はアタシ、結構やんちゃしてたのよ」
「やんちゃ?」
「中学の頃にね。髪はパツキンオールバックでピアスもバチバチ。今みたいに身長が高かったから、実年齢より十歳は上に見られて、周囲の人にも避けられてた。遅刻と早退ばっかりで、生徒指導室の常連。でも酒とタバコはやらかしてないわよ、面白いわよね」
想像して、あまりにも似合うその様に思わず咳き込む。ガラが悪いとは常々思っていたが、まさかそこまで典型的とは。
「なにそれ。今どきそんなワルの見本居るんだ」
「十年は前のことだけど、笑っちゃうわよね。今はそもそも生徒指導室すら無いんじゃない?」
「うちは無いなぁ」
「って話してたらほら、始まったわよ」
けらけら笑いながら彼が指を差した先。正面から西日の差す乙女坂に、斜面を転がるような影が落ちている。黒く濃く刻まれたそれの周りに人の姿は無く、乙女坂には五樹と加賀美しか居ない。
「うわ、お化け?!」
驚いて後退った五樹を意外そうな目で加賀美が見る。
「お化け苦手なの? 意外。怖いもの無しって顔してる」
「だってお化けって実体無いじゃん。人間なら殴れば済むけど、お化けって対処方法ないからさ」
「それはあれじゃない、除霊とか」
「遭遇して即座に対処できる方法がほしいの!」
言いながら坂を見る。確かに影は坂の上から転がり落ちていた。
人型と認識できる影が坂の上に急に現れ、三長い坂を三秒程で麓まで転がると、影はどちゃりと音を立てて弾けて潰れ、消える。そしてまた坂の上に現れる。
どちゃりと、音がした?
「加賀美さん聞こえる? この音」
「音?」
「うん。影が消える時に音がする」
五樹は目を閉じて聴覚に意識を向ける。遠くを走る車の走行音と自分の鼓動。そして、どちゃり。何かが地面にぶつかる衝撃音と共に、水音にも似た何かが聞こえた。
「聞こえないわよ」
耳を澄ます加賀美に五樹は悩ましく唸り声をあげる。
雨音かと思ったが違う。ボールを地面に叩きつけるような、それよりも重い何かが落ちる音だ。目を開けてみれば、やはり影の接地と同じタイミングで鈍い音がする。
「加賀美さん。ここ、何かいない?」
「いるって何が」
「人の影だから人じゃない?」
五樹はそう言いながら、小走りに影へ歩み寄る。坂の勾配に膝をつくと、影に触れられるだろうかと思って手を伸ばした。
「うーん、駄目そう」
触覚は舗装された地面の凹凸と表面の砂を触る感覚のみ。加賀美も影へと手を伸ばすが駄目らしく眉を寄せている。
「本当に人なんている?」
「わかんないけど、居なかったら居なかったで」
今一番可能性として高いものは、そこに何かが存在する説だ。視覚と聴覚が存在を暗に示しているのだから。
何か試す方法な無いか、思案してあたりを見渡すと、加賀美がぽんと手を打った。
「嗚呼、一つだけいい方法があるわよ。五樹、折りたたみ傘持ってる?」
「うん」と答えて、バッグからそれを出す。急な雨に事件手帳その他が濡れないよう常備している。
「それはよかった。差しておきなさい、濡れるから」
「濡れる?」と小首を傾げながら、言われるまに傘を差して、少し高く掲げて加賀美を入れる。彼はふうと深呼吸をすると、目を細めて右手を天へ伸ばし、何かを握る素振りを見せた。
「喝采は赤、称賛は青。惜しむらくは亡き灰の空。共に終わらぬ夜を夢見て。才能開示【再演】」
唱える。しかし何も起こらない。
そう思ったのも束の間、煌々と茜に染まっていた夕暮れ空、二人の頭上を中心に何処からともなく黒雲が湧く。それはみるみるうちに夕空を覆い、周辺数キロの空を飲み込むように広がった。
ぽつりと、道路に黒く小さな水玉が落ちる。傘を打って跳ねる音がした。
雨だ。晴れ渡った空が瞬く間に曇り、小粒の雨を一面に降らせている。灰色の地面は雨の匂いと共に水に濡れ、傘の端から雫が垂れる。
加賀美が、才能で雨を降らしたのだ。
「これも、加賀美さんの才能?」
「厳密には違うわ」
問えば、彼は苦しそうな顔で首を振る。
「模倣。それがアタシの"才能"。誰かが使った"才能"を、アタシも真似して使うだけ」
空に掲げた右手をおろし、彼はその手のひらを強く握る。普段はあっけらかんとした彼も、今は力なく弱々しい笑みをしていた。
「昔やんちゃしてた、って言ったでしょ。この才能を使って悪いことをたくさんしたの。あ、人に直接危害を加えるとか、そういうのはしてないわよ。というか、規模の大きい事する肝も無かった。人に迷惑をかけてはバカにする、イキった学生だったのよ」
「例えば何したの?」
「磁力を操る才能で遠くからゴミ箱を倒して人を怖がらせたり、空き家のシャッターにスプレーで落書きしたり。ううん、立派な軽犯罪よ」
人形の時、彼は自分の才能を語りたくないと言った。語れば、軽蔑される可能性があったから。
斑鳩の際に扱った炎の才能も、この雨も模倣なのだろう。彼の才能と思っていた金属の形状変化も、斑鳩の際に扱った炎のも、この雨を降らしたのも、全て誰かの才能。
五樹はもしも彼の立場だったらと考えて、胸を撃たれた気分になる。どれだけ苦労しても、誰かの模倣しかできないと突きつけられる心痛は、察するに余りある。
芸術は個性ありきだ。誰かの模倣をすれば、パクリと蹴られて終わる──模倣の上にしか物は生まれないのに。
「だから、人に避けられるようになったの?」
彼は昔、ガラが悪く人に忌避されたと言っていた。素行不良で迷惑をかけていたからなのだろうか。けれど加賀美は小さく首を振ると、不安そうに自身の腕を抱いて縮こまる。怯えた様子の彼の猫背が更に小さく見えた。
「逆よ。避けられてたからグレたの。アタシの両親は画家と作家の夫婦でね。二人はそこそこに売れてたから、アタシへの期待も大きかった。だけどアタシ、頭の出来がよくなくて。小さい頃から絵を習ってたのに上達しないし、テストの点数も低かったから、親の期待に答えられなかった」
加賀美はぽつり、ぽつりと零すように言う。
「才能が発現したのが、小学校高学年の頃でね。その時は一時的に気にかけてもらえてたけど、才能の中身が模倣って判明した瞬間に、親からの興味は完全に無くなってたと思うわ」
「そんな」
「あはは。自分で言うのもあれだけどね。多分、寂しかったんだと思う」
加賀美は空元気を絞って高笑いをすると、傘越しに曇り空を見て大きな溜息を吐く。
「注目してもらいたくて馬鹿なことをして、人に避けられて、また目立とうとしての繰り返し。酒と煙草がギリギリのラインだった、そこを踏み越えたら本当に捨てられると思ってた。そんなこと考えても、とっくに手遅れだったのにね」
「手遅れ?」
「えぇ。両親に完全に縁を切られたの。二人の名前に傷がつくから、ってね。今じゃもう、二人がどこに住んでるのかもわかりゃしない。正直、顔すら思い出せないのよね」
中学生──否、その歳で縁を切られたのなら、無視は小学生からされていたのか。仕打ちにしては酷い、血の繋がった親のすることではない。
それでもこの世には、それを平気でやる親が居る。五樹もそれは理解しているけれど、それが許せる訳では無い。
「それからすぐにアタシは──まぁ、児童保護施設みたいなところに入ってね。そこで現実を突きつけられたの。自分がただのイキってるガキだって思い知ったわ」
「思い知った?」
「羽深弥。あの子に地を舐めさせられたのよ」
「怒られたってこと?」
羽深と加賀美はそこまで古い仲だったのかと少し驚きながらも首を傾げる。
「いや、言葉通りの意味よ。調子にのって弥の空間の中で喧嘩売って、圧死寸前までボコボコにされて、立てなくなって地面に這い蹲ったわ。」
「え?!」
しみじみと言う加賀美に、五樹は驚きのあまり声を張り上げる。深窓の令嬢を思わせるあの羽深が、加賀美を叩きのめす姿が想像できない。
「喧嘩よ喧嘩。お互いがフルに才能を使って、本気で喧嘩したわ。あの時の床は不味かったわ」
「羽深さんと喧嘩したの? マジで? 哀川さんとじゃなくて?!」
「そうよ、仙としたこともあるけど」
「あんのかよ!」
「あの時の仙ってちょっと、自分が一番偉いと思ってるイタイ厨二病ぽくって、それ弄ったら喧嘩になったわ」
「厨二病だったの?! なにそれおもしろ」
「でも死にかけたのは弥と喧嘩した時ぐらいよ。あの時の弥の性格的に、仙とか周りの大人が止めに入ってなかったら、やばかったかもしれないわ。両親と、通ってた絵画教室の先生の才能。その三つを模倣して全力で立ち向かったのに、勝てなかった。力の差が大きすぎて、相手にもならなかったわ」
唖然として口を開き、もはや言葉も出ない。未だに自分の耳が信じられず、「喧嘩、羽深さんが?」と事態を反芻すると、加賀美は普段の調子を取り戻してけらけら笑った。
「当時は本当に苛ついたわ。自分より四歳年下のガキに痛い目にあわされて、恥ずかしいやら何やらで。あの時は弥のことが本当に嫌いだったわ」
けれど今は喧嘩のケの字も見たことがない。仲直りしたから共に生活しているのだろうか。嘆息しながら彼を見ていると、加賀美は懐古するように目を細めた。
「あの子とその周りの数人だけが、ちゃんとアタシと向き合って、言葉をかけてくれたの」
「なんて言われたの?」
「『お前は何に怯えているんだ? 誰もお前に期待などしていないのに』って」
羽深がそんな厳しい事を言うとは思えない。だが加賀美は会話の内容と相反して、少し嬉しそうに相好を崩す。
「『俺を役立たずだって馬鹿にしてんのか』って言い返したわ。そしたら『ここにはお前の父も母も居ない。お前に変な期待をする人間は居ないのに、どうして虚栄心を張り続ける』って。そう言われた瞬間に、馬鹿らしくなっちゃったわ」
はっと、目を覚ましたような心地がした。
親の期待に答えられなくて、それでも自分を見てほしくて人の目を気にしていた加賀美は、弱いところを隠すように、見目を攻撃的にしていたのだろう。
威嚇のように、自分を大きく見せようとして。両親の目も無い場所で何故そうするんだと、羽深はそれを諌めたのだ。
「弥や仙が私を怒るのは、自由と無秩序を履き違えていたからだった。自由は一定の規則の上にあるのに、私がその規則を破ってたから。マ、そっからは規則を守って縦横無尽にやったわ。規則の抜け穴をついてね」
「アトリエテラスの私有地立ち入りみたいに?」
いじるように言うと、彼は「そうね」とはにかんで。
「着たい服を着て、好きな喋り方で好きなことをした。でもマ、女っぽいとか女になりたいの? って言われることもあったわよ。」
「喋り方に女らしいとかあるんだ。なんかダサいね、その区切り」
五樹が加賀美を見ていても、女らしいと感じることは特に無い。ガタイが良くて圧があるとは思うが、お洒落でかっこいい程度だ。
加賀美は面食らって目を丸めると、すぐに「あははは!」と高笑いをした。
「やっぱアンタ最高ね。弥も同じようなこと言ってたわよ、『何が女らしい男らしいと、偏見を押し付ける人間ほどつまらない物は無い』ってね」
褒めるように、加賀美が雑に五樹の頭を撫で付ける。五樹が小っ恥ずかしくなって顔を背けると、加賀美は今度は心底楽しそうに口角をあげて空を見上げた。
「弥は本当にすごいの! 一回あの娘に質問したことがあるの。空を飛ぶときに、まず何が気になる? って。ちなみに私は風景よ、空からの景色って一番気になるでしょ。でもあの子、なんて答えたと思う?」
「綺麗に飛べてるかどうかとか?」
五樹だったら高度を気にする。どうせならスカイツリーより高いところへ行きたい。
「違うわ。『私は電線です。触れたら死んでしまうでしょう? 怖くて仕方がありません』って言ったのよ。着眼点もなにも、あの子は凡人とは違うの。だから憧れだわ」
現実的な思考、ということだろうか。確かに空を飛ぶという夢のある話に現実を持ち込むのは、不思議な考え方だとは思う。
「井の中の蛙だったアタシに、あの子は広い世界を教えてくれた──それなのに、あの子はずっと狭い場所に閉じこもってる。あの子を救えたらいいのに、アタシにはそれができない」
加賀美は地面を見つめて、悲しそうに呟いた。長い付き合いの彼ならば、彼女を外に出すために様々な手段を取ったのだろう。
どうすれば、羽深は救われるのだろうか。
「才能って、誰が最初に呼び始めたのかしら。クレヨンで壁に落書きなんかしてた頃は、才能が存在するのも知らなくて、きっと気楽だったのに」
羽深だけじゃない。こうして悩む加賀美も、救えたら良いのに。悲しげな横顔の彼を見て、何も言えずに唇を噛んだ。
「昔は芸術なんて金持ちの道楽だって言われてだけど、今じゃ誰だって手をつけることができる。本気でやるかどうかは別として──芸術の苦しみも手の届く範囲になった。誰だって訪れて当然の地獄ね」
彼はぶっきらぼうに呟くと、がしがしと荒々しく髪の毛を掻き乱して大きく伸びをした。
「マ、アタシも変われたのかしらね。大っ嫌いな過去の自分から!」
「過去の自分って、否定しなきゃいけないの?」
思わず呟けば、彼は不思議そうに目を瞬かせて五樹を見おろす。五樹はそれを気にせずに続けた。
「過去の加賀美さんが居るから、今の加賀美さんが居る。胸張って生きればいいじゃん」
昔の五樹が絵を描こうと必死になったから、今の才能を手に入れている。人を助ける手段を得られた。過去の自分が居なければ、今ここに五樹は居ない。
それを全て否定していたら、自己嫌悪ばかりで虚しい人生になってしまうから。
加賀美は面食らったように目を見開いて、「胸を、張って」と何度も呟くと、痛々しげに、けれど何処か吹っ切れたように笑った。
「その言葉、忘れないわ。ありがとう」
加賀美が五樹の胸を軽く叩く。その軽い衝撃にふらつきながら、彼に正しい言葉をかけられたように思えて、思わず照れ臭そうに頬を掻いた。
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