第三章 乙女坂には影落ちる

第十六話

 四月も下旬に差し掛かった頃。加賀美と共にアトリエテラスに到着するや否や、彼は何やらそそくさと螺旋階段をあがって二階へと行ってしまう。

 彼らの小部屋は上の階にあるのか、どんな内装になっているのだろうかと、五樹は興味を隠せず上の様子を窺って居る。

 哀川は買い出しに行っているらしく、一階は五樹一人。珍しく静まり返った部屋は何処か寂しくて居心地悪く感じていると、草原へ続く戸口が開いて、そこから羽深がひょこりと顔を出した。

「五樹さんこんにちは」

「あ、羽深さん! こんちわ」

 話し相手が現れた喜びで、無い尻尾をぶんぶんと振りながら彼女に駆け寄る。

「何してたの?」

「いえ、特に何も。そうだ五樹さん、これから景さんが乙女坂に行くのですが、どうか同行してあげてくださいませんか?」

 乙女坂といえば、八桜子の山沿いの住宅街にある、急勾配の坂の名前だ。五樹も小さい頃は、坂の上にある伊依の家に遊びに行くために、ひぃひぃ言いながら登ったことがある。

「何か依頼でもあったの?」

「いえ、怪奇現象の調査です。ですが景さん一人だと何が起きるかわかりませんし、不安なので。五樹さんが着いてくださったら私もとても安心できますのでどうか」

「そっか、任せて!」

「ありがとうございます」

 力こぶを見せる五樹に、羽深が深く頭を下げる。大袈裟だなと思いながらふと、そういえば香椎から貰ったスケッチブックを彼女にあげていなかったと気づいて、鞄を漁りそれを取り出した。

「羽深さん、これあげる。香椎っていう──消失事件の犯人だった子がさ、これだけは消せなかったらしくて。誰かにあげてって言うからさ」

 彼女は目を瞬かせながら受け取ると、瀟洒な手付きでページを眺めて、ほうと嬉しそうに頬を高潮させる。

「とても素敵な風景ですね。ありがとうございます、大切にします」

 気に入ったらしく、それを強く抱きすくめ再度頭を下げる彼女を見て、五樹はふと──聞いては駄目だと思っていた内容を、聞こうと決心する。

「ねぇ、羽深さんはどうしてここから出ないの?」

「私はこの空間を維持する為に──」

「羽深さんの師匠、大解放の時に亡くなったって聞いたよ」

 羽深の身体がびくりと跳ねて、目一杯開いた紅赤の瞳で五樹を見る。どうしてそれを、と言いたげに震える彼女は、不安そうにきゅっとスケッチブックを持つ手に力を入れた。

 その様子を見て、ちくりと良心が痛む。けれど五樹は彼女の事を知りたいのだ。彼女が何を思い考えているのか──大解放の事は特に、知らなければならないと思った。

「私の、せいなんです」

 ぽつりと、弱々しい声で羽深が言う。

「師匠が死んでしまったのは、私のせいなんです。私が、師匠を殺してしまったんです」

「え」

「大解放が起きた時に、師匠は私を逃がすために亡くなりました。私は、師匠を助けることができなかった。自分が逃げるために犠牲にしてしまった──全部、私が悪いんです」

「それは羽深さんのせいじゃない!」

 大解放で誰に殺されたのかは、聞くまでも無いだろう。尻すぼみする羽深の声に五樹は彼女の手に触れて声を荒げる。

 師匠は、羽深を庇ったのか。ならばそれは殺した人間のせいで、彼女が自責の念に駆られる意味はないのに。

 けれど羽深は諫めるように首を振る。

「あの時の光景は、今でも夢に見ます。何もかもが崩れ落ちて、誰も彼も瓦礫に押しつぶされて死んでいた。またあの時ようなことが起きたらと考えると、怖くてたまらない」

 触れた羽深の手は小さく震えていた。瞳は悔悟と涙に滲んで、彼女は俯いたまま顔をあげない。

「だから私は、ここから出てはいけないんです。私がここから出れば、誰かが不幸になる」

 その罪の意識は見当違いだと思うのに、それを言って羽深が救われる訳では無い。何も言えず、五樹は彼女の腕を握る手に強く力を込めた。

 羽深がこの空間に固執するのは、それが理由なのでは無いか。一度失った物を再度失うのを恐れて、アトリエテラスに人を寄せ付けない。

 彼女が閉じこもるのは、罪の意識と同時に死を恐れているからか。脱獄囚に怯え、強固な空間で自分を守り、大解放のトラウマから逃げている。

「五樹さんは、フリークスを殺したいのでしょう?」

「うん。だってあいつらは父さんを殺して、伊依を苦しませた。それに今も悪事を繰り返してる──許せる訳がない」

 ぎりりと音をたてて歯噛みする。羽深は何か言いたげに顔をあげ、口を開いて、けれど何も言わずに閉口して俯いた。

 何だろうかと首を傾げていると、彼女はいつものような柔和な笑みを取り戻して再度五樹を見た。

「五樹さんのお父様は、どのような方だったんですか?」

「うーん、俺、父さんのことあんまり知らないんだよね。無口な人だったし、仕事ばっかりしてたから。嫌いなワケじゃないよ、憧れの英雄っていうイメージの方が強いだけ」

「そうなんですね。確かに、旧作の著者近影に映る顔は威厳のある面持ちでしたね」

「だよね、でもあの顔って緊張して強張っただけなんだって父さんが言ってた」

「それは、ちょっとイメージが変わりますね」

 羽深が嬉しそうにくすりと笑う。五樹はそれを見てふと羽深の手を離して、物悲しげな表情を誤魔化すように頬を掻いた。

「父さんさ、最期に『息子に誇れるようなことができただろうか』って言ってたんだって。笑っちゃうよね、。人助けして悪を成敗して、世界で一番かっこいいに決まってるのに」

「そう、ですか。脱獄囚を見つける夢、叶うといいですね。いいえ、どうか叶えてください」

 言葉を詰まらせた羽深は、哀愁を帯びた表情で笑う。先程何を言いかけたのか問おうとすると、上階からドタドタと荒々しく足音を鳴らして、加賀美が螺旋階段を降りてきた。

「それじゃ弥、アタシちょっと行ってくるわね」 

「あ、加賀美さん俺も行く!」

「好きにしなさい」

 加賀美は五樹を軽くあしらいながら、足早に玄関へ向かう。

「じゃ、行ってくるね」

 玄関扉の前で靴を引っ提げて振り返ると、羽深はいつものように穏やかな笑みを浮かべ、上品に手を振ってくれていた。

「お気をつけて、いってらっしゃい」

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