第二十七話
深宿片隅のゴミ捨て場で、マンションの塀に腰掛けて待つこと十五分。日はすっかり傾いて、景色は茜に染まれども、扉から次陣が来る気配は無い。
「景、一度僕が戻ってみるよ」
どうにも嫌な予感がして、悪寒に肌を擦りながら、哀川は戸口に手をかけた。もしや管理局に露呈したのでは無いか。
「わかった。弥はアタシに任せて」
「嗚呼、頼んだ」
答えるが早いか、扉の白い膜に飲み込まれるような冷たい感覚と共に、空間の中へ戻る。
そこには、炎が広がっていた。
物置の正面。校舎から離れた位置にある納屋の窓から、ごうごうと音を立てて火の手があがっている。溶けるような熱波が肌をじりじりと焼いて、入って直ぐに額を汗が伝う。
一体、何が起きている?
脳味噌が止まって、はくはくと言葉にならない呼吸を口から吐いた。
皆は、内海は何処へと、校舎の窓に張り付いて中を覗くけれど、明かりのついた室内に人の姿は見られない。
「初さんっ!」
声を枯らして名前を呼ぶ。応答は無い。
消火するにも、炎は黒い煙を吐いて更に勢いを増すばかり。水でどうにかなる範疇じゃない。降雨を起こしても、消火に何時間かかることか。
考えれば当たり前だ。納屋は油絵の画材置場のようなもの。油絵の具だけでなく、水代わりに使うペインティングオイルや乾燥剤。これまで描いた絵も油の塊のようなもの。納屋は質の良い薪と同じだ。一度火が出れば、全て燃えるまで消えるはずがない。
これはきっと、弥でも消せないだろう。彼女の空間は千変万化するが、操れるのは彼女の手で起こした事象のみ。だからドームにも干渉できない。
怪我の治療で傷に絆創膏を貼っても傷自体が消えないのと同じく。何か対処はできるが、火そのものを消すことはできない。
誰か逃げ遅れて居ないかと、哀川は納屋へ駆け寄る。すると納屋の裏手、辛うじて火の煽りを受けないような壁沿いに、火傷まみれの内海がもたれていた。
「初さん! これは、一体」
駆け寄って様子を見る。腕や背中や顔、身体の至るところに火傷があり、特に足の傷が酷い。溶けた服の下に見える素肌は赤黒く変色し、ぶくりと膨れている。服の化学繊維の影響か、灰色の制服は素肌にべたりと張り付いて、膜のように肌を覆っていた。
灰色の髪は解け、炎を浴びてかすっかり焦げて、首丈ほどの長さになっている。
「巡回の奴が、納屋に戻ってきた。弥が居ないのがバレて、必死に止めたんだが、一人に警備室に向かわれて……もう一人が、外へ探しに行こうとするから、抵抗したんだ。揉み合ってたら机にぶつかって、乗ってたものを、全部落として」
「机の上……? まさか」
クロッキー帳でラフ作成をするなど、羽深が手元作業を行う時に使う机がある。あれの上にはペインティングオイルの小瓶やデスクライト、文房具一式があったはず。
「嗚呼。溢れたオイルに、デスクライトが落ちて、火花が散って……そのまま、油絵に燃え移った」
彼の様子からして、足から火が燃え移ったのだろう。幸い室内には手洗い場があるし、筆洗いバケツにも水が貯めてあったはず。それで消火をして、火の手の無い場所まで逃げたのか。
もう一人の管理局は、納屋で死んだか彼を見捨てて逃げたか。どちらでも構わない。
「今すぐに救護班を」
「やめとけ。殺したい奴が、勝手に死にかけてるのに、わざわざ治療するはずがない」
喉を火傷したのか、ひゅ、ひゅ、と空気の混ざった弱々しい声で彼は言う。
「とりあえずここを離れようか、手を貸すよ」
咳込みながら哀川は内海へ肩を貸して、物置の側まで戻る。彼を施設の壁にもたれさせながら、ふと辺りを見回す。外へ出るまでは室内に人影があったのに、今は誰も見当たらない。夜警は何処に行ったのか。
内海が負傷して火災が起きているのに、何故夜警の誰も助けに来ない。見捨てるとは考えられない、なら皆はどこへ?
──思い返せば、おかしな点ばかりだ。そもそも羽深の外出許可が出たこと自体信じがたい。入院中の彼を連れ出す方法も。彼が強行するものだから、なし崩し的に従ってはいたけれど。
「ねぇ、初さん。貴方は本当に、皆で逃げる気があったのかい?」
「ははは、無かった!」
はつらつと言って、彼はごほ、と咳き込む。赤黒く腫れた痛々しい顔で、けれど普段通り笑う彼に、哀川は表情を悲壮に引きつらせる。
「皆の総意だ。夜警が全員いなくなれば、今後一般人が犯罪に晒されたら、彼らが困るだろう。だからお前たちを逃して、後は残る。逃げ延びた後なら、バレたって構わない。残って、無関係な一般人に被害を出さない」
「は? どうしてそんなに身を挺するんだ。一般人なんて──」
「どうでも良い、だろ? お前は、そう言うタイプだと思ってた。だから、言わなかったんだ。作品は、見る人間が居ないと成り立たない。一般人を、蔑ろにするな」
思えば収容所のほうが騒がしい。夜警は皆そちらへ行って、局員の足止めをしているのか。けれど夜警は精々二十人程度、軽く数百人は居る夜警を相手にはできない。じき、ここにも人が来る。納屋の消火と、羽深を探すために。
「空間の主軸の絵画にも、そのうち火がつく。あれが燃えれば、現世との境界は崩壊する……囚人が、外へ放たれる。誰も殺したくなかったのに、なんで、こんなことに」
「元になってる絵画は、何処にあるんだい?」
「納屋の奥の壁が二重壁で、その隙間に飾ってあと、弥が言っていた」
羽深が空間への扉を繋ぐためには、中枢として彼女の周囲に絵画の存在が不可欠。その絵画に損害があると、空間全体にも影響が出る。
そのため絵画の居場所を知っているのは、羽深やコウ、管理局の上の人間ぐらい。哀川も今初めて知った。
哀川が奥の壁を壊して絵を移動させれば、守れるだろうか。否、そもそも中枢の絵画を見たことがない。油絵のキャンバスの大きさは数がしれない。縦横数メートル、天井に届く程の大きさもありえる。
「にしても、戻ってくるなんてな。先に行けって、いったのに」
「はぁ?! 逃げるはず無いだろう! 見捨てて逃げる馬鹿がどこにいる! とにかく、早く逃げよう。救護班が駄目なら外の病院に連れて行く」
彼を担ごうと脇に手を回すと、内海は哀川の腕を押し返して──けれどその手は力無く、ただ柔く触れるだけで。
「もう良い、もう遅い」と、彼は微笑み首を振る。
「なんで!」
「どうせ殺されるなら、ここで死ぬ。それにもう、火傷で体の感覚が、無いんだよ」
がひゅ、がひゅ、と。耳を澄まさずともわかるほど、彼の呼吸音は荒い。足や腰の火傷は風船のようにぶくりと腫れて、肌にヒビが走るように黒く変色している。
嗚呼、と哀川は声を漏らす。生きてくれ、まだ大丈夫と、無責任な言葉はかけられないと、今更気がついた。焦燥を上書きする無力感。喉の奥から込み上がった悲しみを振り払うように、彼の顔を覗き込む。
「初さん。本当に、悔いはないのかい」
「嗚呼。だからもう、逃げろ」
「わかった」
自分でも驚く程、震えた声が出た。悔しさに強く、強く唇を噛む。
「初さん、貴方の言うとおりだ。僕は赤の他人数千人よりも、大切な数人の方の命を選ぶ──だから、世界の崩壊を利用するよ。それで、弥を逃がす」
「やっぱりな」
内海は腫れた顔で、けれど心底嬉しそうに笑った。人を殺すと宣言してるのと同じなのに、彼はまるで悪戯を眺めてるような無邪気な顔で。
「失望したかい?」
「お前は、人の死を、憂いてはいる。価値観が違うだけで。景ならきっと、見知らぬ人を、選ぶだろうなぁ──子供の死ぬところは見たくない、といって」
遠い昔を懐かしむように、彼は錆浅葱色の目を細める。段々とその声も、ぼそぼそと独り言のようになって。弥、絵、景と、単語が辛うじて聞き取れる程度の小さな声は、いつもの大声とはかけ離れていて。
「師匠?」
声がしてはっと哀川が顔をあげると、物置から出てきた羽深と加賀美が、青白い顔で内海を見下ろす。彼女は驚愕と恐怖に紅赤の目を染めて、はっ、はっと、過呼吸気味に言葉を紡ぎながら、内海の側にしゃがみ込む。
「なんで、何があったんですか。どうして、その怪我は」
肌に触れようと白魚の手を伸ばし、止める。水膨れの肌は今にも弾けそうで、触れれば死ぬのではと彼女は思ったのだろう。
「管理局員ですか? 奴らが、貴方をそんな目に?」
内海の身体を見て、彼女は収容所を見据え睨みつける。爛々と、殺意に歪んだ表情だった。
「今すぐに、救護班を連れてきます。彼らに拒否はさせません、だから師匠、もう少し──」
「弥」
慈しみか。はたまたもう、目を開くことすら難しいのか。目を細めた内海が、くすんだ色の瞳を更に曇らせて、僅かに羽深の方を見る。
「怒りやすいところは、変わらなかったかぁ」
呼吸音の中、辛うじて彼は言葉を紡いだ。
「師匠?」
羽深が問い、彼の身体に触れる。けれど返事は無い。彼女はがくがくと、内海の身体を揺さぶった。
「ねぇ、師匠。なんとか言ってください、ねぇ。黙らないで! 冗談きついですよ、ねぇ」
返事はない。
「なんで死んだ! あぁぁぁぁぁあ!」
号哭が響く。
加賀美は強く爪を立てて拳を握り、哀川はいたたまれず目を逸らした。
ふと、施設の入り口に人影が一つ見える。局員の制服を着ている。ついに追手が来たかと身構えると、近づいてきたそれはコウであった。
「お前たち、無事だったのか」
駆け足で息を切らして来た彼は、内海に縋る羽深を見て絶句し、絶望したように足を止めた。
「コウさんは、知っていたのかい? 初さんの逃亡計画を」
問えば彼は首を振る。ならば、内海が取り逃がした管理局員の話を聞いてここに来たのだろうか。
コウは強く瞑目すると、ふっと決意したような真剣な面持ちで一同を見渡した。
「じき、局員が消火に来るだろう。俺が足止めをする、お前たちは逃げろ」
「え? 足止めって、そんなことしたら囚人が外に──」
「そんなことはわかってる。だからって、苦しんでる子供たちを見捨てて、閉じ込めるのが正解なのか?」
加賀美の言葉を遮って、コウが強い語調で言う。内海の遺体に縋ったまま、羽深が虚ろな目をして独り言のように呟いた。
「外にいる人達が、危険にさらされるとしても? ご家族がいらっしゃるのでしょう」
感情の抜けた顔の羽深に、コウは衝撃を受けたらしく苦い顔をすると、苦悶を顕に俯いた。
「今日は、外に出るなと言ってきた。帰宅した後で、俺がこれまでしてきた事を──夜警と、この場所のことを話すつもりだ。家は八桜子だから、直ぐに巻き込まれる可能性は少ない」
「直ぐじゃなくても、囚人は四方に散るでしょう。遠方へ逃亡し、管理局の手から逃れれば、囚人は何処に潜むかも──」
「わかってる!──わかってるんだ。でも、お前たちを見捨てられない」
珍しく声を荒らげた彼は、悲痛に顔を歪めながら、僅かにその瞳に涙を浮かべていた。
「俺は愚かな人間だ。悪い可能性を直視するのが嫌で、希望的観測ばかりする。囚人とお前たちを逃しても、事態は重大にはならないのでは期待して。息子も妻も、もちろん大切だ。けれど俺は、『二人のためにも一生地獄で暮らしてくれと』と、お前たちに言うことができない。この半端な男を、どうか、許してくれ」
「コウさん……」
「何年か先の未来では、俺の行動は悪手だと嫌われてるだろな。それでも俺は、胸を張ってお前たちを逃がす──はは。これでようやく、息子に誇れることが一つできるな。嗚呼これは、誇れるんだよな? はは」
取り繕って笑う彼に動悸を覚えて、哀川は強く胸を押さえる。彼を悩ませ、苦しめているのは他でもない自分達だ。外を望み、世界の崩壊を選んだから。コウに家族か三人かを選ばせた。
外を望む者達の前で、その夢を無下にできる訳も無く、彼に家族を見殺させた。外の家族が死ぬとは限らないけれど。死ぬ可能性を選ばせたのは、紛れも無く自分達だ。
そう理解した瞬間。
──ゴォォオォォォォォン!!
唸り声のような轟音と共に大地が鳴動する。ばきばきと、物が割れる破壊音がして咄嗟に顔を上げれば、紫と混ざった茜の空を断裂する、黒い亀裂が入っていた。
仮象空間と現世、その境界の崩壊が始まっている。中枢の絵画が燃え始めたのだと、瞬間的に察知する。
「弥、仙、景。お前たちの才能は、人助けに向いている。だから、人を救え。けれど、俺のようにはなるなよ」
空を見上げたコウが呟いて、一つ深呼吸をする。
「世のあらゆるは人にあらず、これすなわち無常なり。才能開示【巌】」
唱えて、彼の百八十にもなる上背が、施設の二階は優に超える高さとなる。二百五十はくだらないだろう。巨人の名に恥じぬ風体となった彼は、不安そうな顔をした羽深を見て柔らかく笑うと、羽深と加賀美に哀川、そして遺体となった内海を優しく抱いて顔を寄せる。
「どうか俺を許してくれ。愛してる。お前たちの人生に祝福があらんことを」
そういって彼は、引き止める間も無く収容所へ走り出す。管理局員を足止めしに行ったのだろう。
哀川は気づけば頬を伝っていた涙を乱暴に拭って、なおも遺体に寄り添う羽深の腕を掴み、加賀美を見上げた。
「弥、行くよ。景、弥を運んでくれ」
彼は一瞬目を見開きながらも、無言で頷いて羽深の腰に手を回す。俵担ぎにされるのを「嫌です! 私はここに──」と腕を振って拒絶するのを。
「駄目だッ!」
哀川は怒鳴りつけて制した。ぼろぼろと、大粒の涙を流した彼女に、哀川は安心しろと笑いかけることもできず。
「全部、無駄にするつもりかい?」と、八つ当たりのような言葉を吐き捨てると、羽深は傷心して黙り込み、加賀美にされるがまま担がれて。その様子を見て、自分は何を言ったんだと、じくりと胸の奥が痛んだ。
それからは、直ぐだった。外に少し走り大通りに出ると、人々が混乱して走り回っていた。遠くで火の手があがり、高層建築物がドミノのように倒れ、砂塵が一気に肌に叩きつける。
遠くに紅葉らしき公園の木々が見えた。けれど、違った。赤く色づいた草木は、それを上回る業火の赤に包まれて、ばちばちと音を立てて焼け上がっている。
「外は、きれいなんじゃ、なかったんですか」
悲壮げに、何処か呆然と呟いた羽深の声に胸を刺されながら数十分走って。加賀美が疲れた頃合いに羽深を下ろし、そこからは人の波と一緒に線路沿いをただひたすら歩いた。
気づけば三人とも火傷と擦り傷まみれになっていて、数時間歩き続けたところで、見かねた親切な人が車に乗せてくれて。そこでようやく、自分が幻をかけ忘れていることに気がついた。
八桜子まで送ってもらい、そこから更に花杜山まで二時間ほど歩いた。人目も危険も無い場所を探すのに必死だった。
すっかり山奥に入って寂れたガレージを見つけて、もう追手は来ないだろうと思い、その側に倒れた大木に腰掛けて休憩した。時刻は日の出間近の、空が薄く白んできた頃だった。
靴底が擦り切れて、足も木偶の坊になって。身体を疲労が襲った瞬間。今日あったことが事実なのだと、肉体の痛みと共に記憶がぶり返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
羽深が狂ったように謝罪の言葉を繰り返す。哀川は手の疲れを無視して彼女の背中を擦り、加賀美は血相変えてその小さな体を抱きしめた。羽深は震えていた。歯をがちがちと鳴らして、怯えたように涙を流して。
「私が、外へ出たいと願ったから。願わなければ、師匠は死ななかった。この国は平和で、皆が穏やかに暮らせていたのに。私は、私は、外に出ては、いけなかったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい。ごべんなざい」
ろくに水も飲んでなかった喉で、枯れた声で慟哭をあげる彼女に、伝える言葉も無くて。水分の抜けきった体からは、自然とぼろぼろ涙が溢れた。
「そうだ、人助けだよ」
無意識に哀川の口から言葉が溢れ落ちて。
「人助け」「そうよ、人助けよ」
と、他の二人も壊れた人形のようにそれを反芻した。
人助け、それが自分たちの贖罪だ。
奪った命の数だけ人を救わなければ、きっと許されることはない。
誰かを救わなければ、自分たちは存在することを許されない。自分たちが苦しめた人間の姿を、目に焼き付けなければならない。
自分達の力は、人助けに向いている。いままでだって、嫌でも人を助けて来た。今更どうということはない。
誰かを救う方法は、身に染みてよく知っているから。
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