第二十六話
また更に一年半が過ぎた、とある秋の日の夕方。
哀川は納屋の窓際の席に腰掛けて、部屋の中心で油画を描く羽深の横顔をぼうっと眺めていた。
窓の外は秋の茜に染まり、肌寒い風が施設脇の金木犀から甘い香りを攫って運ぶ。それに油絵の匂いが緩和されて、普段は厄介な油臭は気にならない。
羽深は髪を一つに結んで汚れた作業衣の袖を捲り、真剣な表情でキャンバスに向かっている。最近は紅葉の絵を描いているようで、傍らの木製パレットで混色された色は、明度の細かく違う赤や黄色。床に垂れて固まった油絵が極彩色の水玉模様を作っていて。掃除が大変そうだなと、哀川は苦笑いを零した。
きん、と金属質な物音がして見れば加賀美が居た。壁沿いの網棚に置かれたキャンバスを、乾燥度合いによって整理しているようだ。
仕事の無い日の暇を持て余した哀川は、手伝ってやるかと伸びをしながら立ち上がった、その瞬間。
「なぁ弥! 明日、紅葉を見に行かないか?」
がだん! と、納屋の引き戸が外れる勢いで開け放たれて、三人がぎょっとした顔でそちらを見る。仕事服姿の内海が、気合を入れて灰髪のポニーテールを締めながら、快活に歯を見せて笑っていた。
羽深は呆然として、嗚呼いつものことかと理解し笑う。内海が写真集などを持って、羽深に『この景色を再現してくれ!』と頼むのは見慣れた光景だ。
「紅葉ですか、それも良いですね。じゃあ明日は空間内を秋景色に──」
「いや、外へ見に行くんだ。紅葉が綺麗な公園が近くにあってな。ここ最近は秋晴れが多かった上に、適度に雨も降ったから、今年の紅葉は特に綺麗だって言われてるぞ」
「はぁ? アンタ、自分が何言ってるかわかってんの」
加賀美が素っ頓狂な声をだして、次いで内海を冷たく睨む。羽深は外に出られない。夜警の中では常識で、冗談としてはデリカシーを疑う発言だ。
だが内海は加賀美を無視して笑う。羽深は一瞬花のように顔を綻ばせ、けれど直ぐに顔を伏せて瞳を悲哀の色に染めた。
「申し訳ありません。お誘いは嬉しいのですが、外出許可が降りるはずもありませんので……どうぞ、皆さんで楽しんできてください」
「大丈夫だ。明日の夕方、一時間だけの約束で、外出許可をもらってきた。だから夜警皆で見に行くぞ!」
内海は豪快に笑って言う。その様子に疑心を抱き、哀川は眉を寄せるけれど、羽深は絵筆をぽとりと地面に取り落とし、呆然と内海を見た。
「本当ですか?」
「本当だ、俺が全員分頭を下げてきた! だから今日はもう絵を描くのをやめて、ゆっくり風呂に入って飯食って、早く寝ろよ」
「はい! えっと、まずは片付けを──」
「嗚呼、俺達でやっておくから。弥は皆と風呂入ってこい」
「わかりました、ありがとうございます」
羽深は結んだ髪をさらりと解くと、三人に一礼をして鼻歌混じりに部屋を出ていく。それを見送って加賀美は、キャンバスを乾燥棚に入れながら内海を見る。
「初、アンタさっきから何の話してんのよ。紅葉とか外に行くとか、できる訳無いでしょ」
「明日、弥をここから逃がす」
「は? 何よ急に」
「仙。俺は、そのうち殺されるんじゃないか?」
「なんで、それを」
面食らった加賀美が目を瞬かせる中、内海はいつになく鋭く冷えた目で哀川を見た。つうと冷や汗が伝い、居心地の悪さを覚える。彼に嘘は通用しないと懸念していたが、本当に見透かされるとは。
「何よそれ、今直ぐ説明して」
「数年前から管理局は、初さんの才能を危険視していたんだ。教育の才能は一種の洗脳だから、国家すら転覆しかねないと。だから、初さんを海外渡航させるという話が出ていた」
「海外渡航が、なんで殺すって話になるのよ」
「渡航先はデボアだよ」
「デボアって、紛争地域じゃない。それになによ、初が世界征服するみたいな言い草。失礼にも程があるでしょ」
加賀美が苛立ったように舌打ちをすると。油絵の具を入れ物に仕舞い、流しに筆洗いバケツを置いた内海が、それに水をどぽどぽ貯めながら、無感情に淡々と口を開く。
「俺は、人を殺したことがある。それも何人もな。だから、この施設に来た」
哀川は目を見開いて「なんで」と呟く。夜警は何かしらの難点を持つ、けれど殺人なんて話は初耳だ。
「復讐ってやつだ。俺を殴って罵倒してきた奴らを刺殺したら、少年院のかわりにここへ入れられた。だから管理局が俺を警戒するのは当然だ。征服も──実際やろうと思えばできる。時間はかかるけどな。俺が夜警を教育したのは、管理局からしてみれば、危険な表現者を懐柔して手中に収めたようなものなんだろ」
「チッ、そういうことか」と、哀川は思わず舌打ちして爪を噛む。
一年半前にコウの言った、悪人が善人に変わることを許すべき、という言葉。あれは囚人のみならず、内海も暗に示していたのか。夜警のリーダーであるコウは、内海の素性も知っていただろう。
彼が殺人犯であるなら、管理局が警戒するのも当然のこと。複数人を恨み殺した人間が、再度殺しに手をかけるかもと、恐れるに決まってる。
管理局が施設に入れたのは、彼を正しい道に戻そうとしたのか。考えても真意は不明だ。
「絵本作家になる、だなんて言っていたけれど。人を殺した手が描く絵本なんて、子供たちには残酷すぎたのかもしれないな」
「やめてくれ。弥に感情を与え、景の生き方を変え、僕を正してくれた童話の数々を、作者である貴方が冒涜しないでくれ」
流しで絵筆を洗う彼が、水音に紛れて呟いたのに、哀川は強い語調で言う。内海は 「ありがとう」と虚しく笑うと、普段の陽気さを取り戻した顔をして、真摯な目で哀川と加賀美を見た。
「俺は死ぬつもりはない。だから明日、夜警全員で逃げて外で暮らすんだ」
「わかった。にしても急だね、他の皆は知ってるのかい?」
「嗚呼、前々から話をつけてあった。お前達に言うのが遅くなったのは、弥へのサプライズも兼ねてだよ──逃げるってのは、弥には言わないでくれ」
「もちろん。で、具体的にはどうするんだい?」
「明日の夕方。巡回が終わった後に、納屋の扉を外と繋げる。外に出てからは、仙の才能で容姿を変えて逃げよう」
施設は朝昼夜問わず、三時間起きに管理局員二人による巡回が入る。どの時間帯を選んでも結局は時間が経てばバレるが、夕暮れの方が視認性が下がり、外に出てから有利だろう。
「『彼』は、どうするんだい?」と、思い詰めた顔で言う。
これまで逃亡を図らなかったのは、子供は力がなく大人より弱いから。それと同時に、一人身体が弱い子供が居たからである。
彼は病弱な事を原因に、頻繁に外の病院に入院している。皆が逃げれば彼が一人になるから、誰も逃亡を口しなかった。
彼のためだけではない。外出許可の取れる夜警は、何時でも逃亡のチャンスがあったもの。だが誰も、それを試さ無かった。一人逃げれば、他の夜警の立場が悪くなる。
友人であり家族なのだ、置いてはいけない。
だが病弱な彼は今も、身体検査のために入院中のはず。
「嗚呼、そっちも考えてある」
「一体──」どうやって、と問いを続けようと口を開くも、内海が食い気味にそれを遮って笑う。
「大丈夫だ。さ、お前たちも今日ははやく寝ろ。明日は長いぞ」
そうして三人で画材を片付けた。談笑はあったが問えば話を逸らされて、結局何も聞き出すことは叶わず。
彼に限って見捨てる事は無いと思うが、どうにも気が気でなくて、哀川はその日一睡もできなかった。
翌日、夕方巡回の後。施設校舎の脇に植わった金木犀の影にある、屋外用品用の小さな物置の前に四人は居た。
哀川は羽深の使う画材一式を詰めたリュック。加賀美は三人の着替え少しを背負っており、その大荷物を羽深が不思議そうな顔で見ている。
彼女は紅葉狩りに行くつもりなのだから当然だ。内海がさて、と言うと、浮足立った羽深にはにかんで、物置の扉を指差す。
「それじゃあ弥、繋いでくれ」
「はい。深宿公園の側にある、マンションのゴミ捨て場物置と繋げます」
彼女がそう言って扉を開くと、戸口の枠組みの先に、水面のように揺らぐ白い膜が広がる。扉の中を見た通行人が怪しまないよう、戸を開いても奥の景色が見えないようにできるらしい。
更に、普段人が出入り口として使う扉と繋げると、それに入った人が誤って空間へ来てしまう為、出入り口の機能ではない扉を使う。
羽深が扉を確認している中、「仙、今のうちに先にこれを」と内海が耳打ちして、哀川の手に三冊の通帳を載せる。名義はそれぞれ哀川と加賀美、そして羽深のもの。自分の通帳らしいが、見覚えは無かった。
「夜警で働いた分の給与、全額入ってる。開設当時、一番成人に近い俺が全員分預かってたんだよ。あ、手はつけてないからな?! 勤務歴六年あまり、しかも公務員ときた。桁を見て驚くなよ」
にやにやと厭らしい笑みの内海に、羽深が歩み寄って心配そうに辺りを見渡す。
「あの。どうして正規の出口から出ないのですか? 勝手に外へ続く戸口を作って良いのでしょうか」
「夜警は人数が多いだろう? だから今回だけは特別だ」
「他の皆は何処へ? 一緒に行かないと、景さんが迷子になりますよ」
「だぁれが迷子になるですって?」
「大人数が一気に物置から出てきたら、通行人が驚くだろう。焦っても紅葉は逃げないからね、怖がらせないで済む方法でいこう」
「そうだぞ。心配しなくても、皆準備してるから。ほら見てみろ」
内海が指さす先、施設二階のカーテンの隙間で、夜警の誰かが手を振ってるのが見える。羽深はそれを見て相好を崩すと、待ちきれないと言った様子で扉の先を見つめた。
「五分ごとに次のを向かわせるから、お前たちは先にでて待機しててくれ。十五分経っても誰も来なかったら、お前たちだけで先に行け。いいな」
次の人間が出てき次第、哀川が才能で容姿を上書きするという手筈。
先に行けというのは、羽深からすれば紅葉狩りの場所取りを頼まれてる気分だろうけれど。哀川はそれを理解する。誰も来ないとは、計画に不備が生じた意味をさす。
「じゃ、行って来い」
内海に背を押され、哀川から順に外へ出た。
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