第二十八話

「父さんが、大解放の被害を、拡大させた?」

 濁流のように襲ってきた話の数々に、感情が追いつかず無表情なまま、五樹はがくりと項垂れて虚空を見る。

 反対にその思考は冷静に、状況を飲み込めと、情報を棚に仕舞うように整然と並べる。

 フリークスは大解放を行い、脱獄囚を逃した諸悪の根源。そのせいで父は死に、五樹や伊依の生活が一変した。

 だがフリークスは、存在しなかった。居るとすればそれは、アトリエテラスであり猪戸コウ。

 信じられるわけがない。

 信じれば、大解放を起こしたフリークスは、自由を求めた哀れな人々になる。

 信じれば、父はあの惨殺を招いた元凶の一人となる。

 アトリエテラスが、敵対すべき社会悪となる。

 嫌だ、信じたくない。父が虐殺を選んだと思いたくない。アトリエテラスを憎みたくない。

 信じて、五樹はどうすれば良い?

 三人を糾弾すれば良いのか、同情すれば良いのか。

 どちらにしても、五樹はどうなる?

 染みが広がるようにじわじわと、五樹の中で理解が深まる。

──脳内で、全てが逆転する音が淡々と鳴る。

 父は、混沌を選んだ。家族を含めた人々と三人の命を天秤に乗せて、勝ったのは彼らだった。

 あの日五樹が被害を被ったのは、外に出るなという言いつけを破ったからだけれど。

 父は、家族を見捨てたのか?

「信じられないかい?」

 呆けたままの五樹に、重々しい声音で哀川が言う。五樹は顔をあげることすら億劫で、萎びた花のように俯きながら、ぼそぼそと口を開いた。

「信じられないってか、信じたくない。父さんはずっと、俺の憧れだったから」

 コウは、五樹が嫌いだったのだろうか。

 けれど彼は最後に、五樹と歳の近い子供を守って死んだ。

 死の直前、コウは腹の中で何を考えていたのか。何の価値基準で、どのような感情と思考をもって、大解放の道を選んだのか。本人が逝去した今、誰にもわからない。

 けれど、一つだけ理解した。

『俺は、息子に誇れるようなことが、できただろうか』

 コウの遺言、その真意を。

 彼は何も誇らしく無かったのだ。

 誰かを守り助けることも、悪を捕らえることですら。誇りに思っていなかった。

 犯罪者を捕らえるほどにこの国は平和になる。だが収容所に囚人が増えれば、羽深の存在の重要性が増す。一人、また一人と誰かに重い判決が下れば、羽深が外に出られる可能性は減る。

 何も誇らしくなんて無かったのだ。誰かの自由を束縛し、子供を犠牲にすることが。

 どんな思考と感情の上にあっても、あの瞬間の選択が、彼にとっては最善だった。それが糾弾されかねない暴挙としても。

「哀川さん。なんでこれを、俺に話そうって思ったの? 英雄の息子だから?」

 僅かに見上げて問えば、彼は強く首を振り、芯のある目で五樹を見据える。

「君の人生を、狂わせてしまったから」

「俺の人生?」

「僕は、自分の選択を後悔していない。だから罪悪感を覚えたんだ」

「どういうこと?」

「五樹くんを見ていて、心が痛くなった。この少年を狂わせたのは、自分の選択だって。だけど、同時に思うんだ。例えあの日に戻ろうと、僕はきっと同じ道を選ぶ。見知らぬ何万人を犠牲に、大切な数人を救う。心変わらず悔いはない」

 五樹の人生を見て同情した上で、彼の考えは揺るが無かった。その薄情な己を罰しているのだろう。罪であると理解した上で、その選択を恥じる気持ちがないことを。

「それと……心配だったんだ。誰かが道案内をしてあげないと、君は殺人犯になりそうだったから」

「え?」

 言葉の意味が分からず、彼を見つめ返す。哀川はその薄黄色の目を同情に染め、哀れな者として五樹を見ていた。

「君は最初、才能を復讐の道具としか考えていなかった。だから誰かが軌道修正しなければ、いつか過つと思ったんだ」

 才能は強さじゃないと、酒葉に口酸っぱく言われても、才能を攻撃に扱う方法ばかり考えた。才能の強弱だとか、伊依の才能は人を制圧するのに適任だとか。

 思えば、戒められたことは多い。人形の際は加賀美に、神隠し事件では梶谷に。危険行為をするなと言われた。

 ようやく理解する。自分は心配されていたのだ。非行に慣れ、道を踏み外さないように。

「そっか、ありがとう。加賀美さんも」

 ちらりとリビングに居る彼を見ると、相変わらず背を向けたまま足を組み、居心地悪そうにそっぽを向いて、小さく頷いていた。

「俺、動揺してるみたい。これまでの話を聞いて、怒りっていうより、虚無感の方が強いや」

 緊張か、弱々しく震えた自身の手を見る。全身を襲う無気力さで、上手く力が入らない。心にぽっかり穴があいて、風がびゅうと吹いたようだ。

「大解放が起きて、何百人も死んだ。父さんも混沌を選んで死んだ。正直幻滅したよ。でもさ、じゃあ父さんは悪人かって考えたけど、多分違うんだよ」

 信じていた事全てが壊され、裏切られ、感情は迷走している。これでは何が正義で悪かわからない。これから何を信じ、どう動けば正しいのかも。

──違う、正しさなんて無い。

「ようやく俺の愚かさがわかったよ。目に見えたものだけを信じてた俺は、正真正銘の馬鹿だ。この世界は、目に見えるものが全てじゃない」

 事実は立場や角度一つで、様々な彩色の真実に変貌する。今五樹が聞いたのも、そのうちの一つに過ぎない。

 結局、あるのは各自の『最善』だけだ。

 誰もが、個人の思う最善の行動を取る。それは思考や感情と共に脳味噌に仕舞われ、誰も知ることはない。

 一人ひとりの思考、それに派生する可能性全部を考えれば、どれが正義か悪かなんてわからない。

──例えば、管理局が大解放の情報を秘匿した理由。

 一つ。夜警という子供を利用したことを始め、不祥事を隠匿するためだった可能性。英雄であるコウが被害を拡大させたとあれば、大衆の管理局への不信は増す。それを恐れ黙り込んだのか。

 一つ。羽深を守るためだった可能性。大解放の元凶は、きっと世界中から糾弾される。羽深への行為の謝罪として、その批難の矛先の彼女を隠したか。

 一つ。英雄を守るためだった可能性。英雄は確かに大解放を招いたが、この国の功労者でもある。そんな彼を英雄のまま死なせるため、存在しない犯人を仕立て上げたか。

 どれが真実かはわからないし、考えればキリがない。何にせよ、羽深とコウは管理局の行動に救われた。

 ここにあるのは、管理局が隠すのが最善と思い行動した事実だけ。

「だから俺、一先ずは皆の行動を受け入れる。許すかどうかはこれから──で、一つ疑問があんだけど。羽深さんは、なんでここにいるの?」

 哀川の隣に腰掛けた羽深を見る。力無く項垂れた彼女は、心此処に非ずの抜け殻のような面持ちで、「え」と掠れた声を出す。

「羽深さんさ、大解放の後に一回でも外出したことある?」

「ありま、せん」

 戸惑いに紅赤の瞳を揺らした彼女に、五樹は軽く笑いかけて、他の二人をじろりと睨む。

「そっか。じゃあ多分これは、羽深さんじゃなくて他二人への怒りかな。二人は、羽深さんを外に連れ出そうとしたことあんの?」

「僕はここへ来て少し後に、数回ほど。外出できる精神状態じゃなかったから、断念したけれど」

「加賀美さんは?」

「アタシは……」

 彼は五樹に背を向けたまま、言葉を濁らせて腕を抱く。その動作に不快感を募らせて「話すときはこっち向いてよ」と威圧を混ぜて言えば、彼は収まりが悪そうに、ちらりと五樹を振り返る。

「なんで連れ出さなかったの? 精神状態とか関係無いよ。本人のためを思うなら、無理でも外へ連れ出すべきだった」

 話を聞いて、羽深が自力で立ち直ることは不可能と断言できるだろう。自分のせいで大切な人が犠牲になり、無関係な一般人も死に、ただただ何もかも死んで死んで死んで死んで。

 その身を襲う罪悪感は、想像できたものじゃない。毎日首を締めるような苦しさと希死念慮に駆られ、人生を呪ったことだろう。

 なら、気分転換でもさせるべきだった。紅葉が見たかったのならそれを見せて、少しは安寧を教えてやるべきなのに。彼らはそれすらしなかった。見捨てているのと同じだ。

「自由になりたかったんじゃないの? 逃げ出す前と今とで、全く状況変わってないじゃん。空間に閉じこもり続けて、また同じことを繰り返すの?」

 自由を求め、犠牲という遺骸の山の上にそれを成したのに、結局空間に居るのでは事態は何も変わらない。

 なら、人々は何の為に死んだ?

 ただ無意味に非生産的に、血肉を雨あられと降らせただけ。

「大解放を経て三人の生活が明るくなってたなら、俺も前向きに納得できたよ。でも結局何も変わってないじゃん。それってどういうこと?」

 圧するように見渡して問えば、彼らは五樹を見返して、水面のように黙している。五樹は再度、冷たい目で加賀美を見下した。

「加賀美さん、乙女坂で話してたよね。自分には何もできないって。俺は、何か尽力した上で悔しがってんだと思ってた。でも違うよ、あんたは何もしてない。適当に言い訳付けて、現実逃避してるだけじゃん。大切な人なら励ますなりケツ叩くなりしてやれよ」

 怒声を張り上げそうな気持ちを強く抑え、冷水のような起伏ない声を浴びせ、卵色の目で射る。言われて加賀美は瞑目して頷くと、抱いた腕に強く爪を立て、「返す言葉もないわ」と自責の声を漏らす。

 五樹は哀川を一瞬見るが、彼は行動を起こしただけマシだろうと思い、次いで羽深を見据えた。

「でも羽深さんへの怒りもある。あんたを逃した人たちの言葉を聞いた上で、『自分は外には出られない』なんて抜かしてるのが、俺は一番許せない。周りがあんたの為に努力しても、当の本人に変わる意思がなきゃ何の意味もない」

 彼女は普段の芯のある面影は何処へやら、歳より少し幼気な面持ちで、揃えた膝に手を置き弱々しく頷く。

 五樹も、淡々と発するべき声の節々が震える。抑えても溢れる怒りのあまり、涙が薄く膜を張って視界が霞んだ。何故こんなにも怒りが絶えないのか。

──嗚呼、彼らは鏡写しだからだ。

 伊依にエゴを押し付け、支えになることも無く、彼女を壊したことを後悔するばかりの五樹と。立場こそ違えど、過去に固執して行動を起こさない事に相違ない。

「やってしまったことをウジウジ考え続けて、何か変わる訳がない──俺もそうなんだ。間違いを受け入れて、それから何をするのかが問題なんだよ」

 自分が口にする言葉の刃、全ての刃先が五樹の心臓を突き刺す。

 伊依の言葉に悩まされ、そのことばかり考えて。まだ彼女に謝罪の言葉も何も伝えていない。

 ようやく気がついた。今すべき事はそれじゃ無い。弁明方法を探すのではなく、自分が伊依の心を殺したと認めて、その事実に向き合い動かなければ。

 過ちを認めなければ、人は一生変われない。

 間違いを理解してからが重要だ。それを改善するのかしないのか、全て本人次第なのだから。

「どんな過去があっても、人に迷惑をかけていい理由にはならない。それをどうやって挽回するかを考えないと」

「私は一体、どうすれば良いのでしょうか」

「それを選ぶのは、羽深さん自身じゃなきゃ意味がない。どうすれば良いかじゃなくて、羽深さんはどうしたいの?」

 彼女は心底困惑した様子で悲痛に顔を歪めると、見目良い服にシワがつくほど強く拳を握って、枯れ萎む花のように項垂れた

「少なくとも、俺は羽深さんの行動全てが悪いとは思わない。死刑囚の扱いを変えるよう動いたのは、特に」

 羽深が罪人という存在を詳しく理解していなかったとはいえ、彼らと真摯に向き合いとった誠実な対応は、間違いであると思わない。

「羽深さんの才能は、どんな可能性も秘めてると思うよ。ノアの方舟にもなるし、人類の次の居住地にだってなれる。どういう世界観を作りたいかを考えるのが、表現者なんじゃないの?」

 ふと室内を見渡す。小洒落た木材質の、観葉植物や雑貨の置かれた部屋。リビングの大窓の向こうには、鏡写しの湖と、昼なのに煌めく無数の星々。部屋にある壁の白扉の先には、ネモフィラの花畑があるだろう。

 表現者が持つ世界観を、そのまま世界として反映させる力。活かすも殺すも殺すも羽深次第、そこに誰の介入も無い。

「私が、どうしたいか……」

 彼女がそう呟いた瞬間。

 リリリリリリ──

 聞き慣れた着信音が鳴り、ボディバッグの入れたスマホが震える。それを取り出して見ると、液晶には『酒葉さん』と表示されており、五樹はその場でイヤホンをつけて電話に出る。

「もしもし」

『五樹、今どこにいる?』

 はぁ、と荒い呼吸音の混じった低音の声は、焦燥感を漂わせて早口に言う。

「え、どこって──ちょっと出かけてるけど」

『今すぐ家帰れ! じゃなきゃ、どっか安全なとこ避難しろ!』

 大声をあげて、きぃんと金属音が鳴る。痛む耳を押さえて「え、なんで?」と問えば彼は、

『お前、知らないのか?!──今すぐ動画サイトか何かでニュース見ろ、そうすりゃわかる』

 話が分からず、五樹は一瞬通話をミュートにして、テレビの前に腰掛けている加賀美を向く。

「ごめん加賀美さん、大至急でニュースつけて」

 彼がつけたテレビのに、いの一番に映し出されたのは上空映像。画面の右上には『速報 白昼堂々の犯行、人の居なくなった深宿区』とサイドテロップが表示されている。

《こちら、深宿区上空より中継です。ご覧ください、普段は人通りも多い駅周辺には、人の姿が一切見られません。事件当時現場に居た方の取材によると、「十代後半と見られる少女の周辺で人が消えた。少女は虚構生物を従えていた」とのこと。またSNSでは、虚構生物を生成している女が居た、刃物を持って歩いてる男が居る、など様々な情報が飛び交っています》

 アナウンサーの声と共に流される駅周辺映像。駅前の百貨店や駅から伸びる商店街を含めて、歩行者の姿が見られない。明らかに平日昼頃の風景には見えず、ただ事ではない。

──映像の所々に、虚構生物の姿があった。目視で三十体はくだらない数がいる。白い肌に黒字で文章の刻まれた肢体。

 間違いない、斑鳩かがりのキルケゴールだ。

《創生管理局によると、少女は消失事件の犯人とみて調査中とのこと。現在、深宿駅を中心に避難勧告が出されており、犯人の拘束次第、管理局による救助が行われる見込みです》

「これ、ほんとにおきてんのかよ」

 目撃情報は香椎で間違いないのだろう。事件後の進展は聞いていなかったが、彼女は管理局が保護すると言っていた。

 そして斑鳩も逮捕されたはず。何故キルケゴールが居る?

『とにかく、伊依と二人でどっかに避難して、安全が確認できたらまた連絡しろ』

 呆然としていると、辛抱ならない酒葉が荒々しい声をだす。その言葉に五樹は「え」と声を漏らし、ミュートを外した。

「伊依、そっちの家に居るんじゃないの?」

『は? 俺は今家にゃ居ねぇよ。ここ数日、仕事の関係で遠出してる。おい、何の話してんだ?』

 思考が凍る。伊依は酒葉の家に行くと言って、昨日は帰宅しなかった。

 じゃあ、彼女はどこにいる?

『おい五樹、どうした?』

「大丈夫。とりあえず、急ぐから切るね」

 言うが早いか通話を切って、その手で即座に伊依に電話をかける。

 ルルルル、とコール音。それが数度鳴っても彼女は出ない。

 一度切って、再度かける。それでも出ない。

 ルルルルルルルと、無機質に続く機械音を聞きながら、五樹は力無くぼとりとスマホを机に取り落とした。

 一体、何が起きている?

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