第一章 君が描いた絵空事

第一話

 絵画教室もとい創生塾そうせいじゅくを後にした五樹は、鼻歌交じりに八桜子はちおうじ駅への道を行く。

 吹き抜ける花風に乗って、街道沿いのそこここに植わった桜木が、薄桃色の花弁を散らしている。

 柔らかな春色を眺めるために視線は思わず上を向いて、自然と視界に写る快晴の眩さに五樹は目を細めた。

 今日の空気は生暖かく、少し厚着だったかもしれない──薄手の白カットソー、朱色の飾りベルトがついた青緑のストラップパーカーと黒スキニー。同じく朱色のビッグシルエットシューズは、最近のお気に入りだ。

 派手にメッシュを入れた頭髪も、今や校則違反ではない。校則に記載された『高校生らしい服装』の規定は数年ほど前に撤廃され、過度な制服の改造以外は自由となった。

 近年、芸術と自由の意識は生活と共存しつつある。

 モダン建築の街並みは都市緑化が進み、どこを撮っても美しい。

 高価な衣服には特別な才能が込められたものも多く、身につけると足跡に花が咲くもの、季節ごとに生地の色味の変わるものもあるらしい。数万はゆうに超える値段がするらしく、滅多に見かけないけれど。

 華やかでおしゃれなもの好きの五樹としては、どれも嬉しい変化ばかり。こうして桜木の染まる季節は、通りがけに花見をする人も多く、その人々の衣服を見るのも楽しいものだ。

 最近の流行りはなんだろうかと、ふと五樹が前を向けば。花の盛りの中で立ち止まり、桜の散るものを静かに眺めている男性を見た。

 整った顔立ちの男性だ。歳は二十代ぐらいだろう。身長は五樹より少し高く百八十そこらか。

 姿勢が良くすらりとした佇まい。銀のダマスク柄の入った、ふたまた裾の黒いロングジャケットを肩にかけ。ベストやネクタイ、チェーン付きの丸眼鏡。ピーコックブルーの裏生地や銀装飾も多く、まるで礼服だ。

 彼を絵にしたらきっと楽しいだろう。そう思ったままに五樹は、立ち止まった彼に向けて小走りで近づくと、軽く手をあげて声をかける。

「お兄さん! ちょっと良いですか?」

 男性は一瞬目を見開いてあたりを見渡し、ようやく自分が声をかけられていると自覚をしたらしく、人の良さそうな笑みを浮かべる。

「僕に何か御用かな?」

「ちょっと課題でクロッキー出されてて、もしお時間あいてたら、お兄さんのこと描いても良いですか? 五分ぐらいで済むんで」

「嗚呼、そういうことか。構わないよ」

「やった、ありがとうございます! じゃ、あそこのベンチで」

 ロータリー脇のベンチに二人並んで腰掛けると、五樹はボディバッグを開き、クロッキー帳や鉛筆を取り出した。

 その道具をじっと見つめた男性が、興味深そうに首を傾げる。

「課題ということは、君は学生さんかな?」

「そそ、高校生。でもこの課題はさっき塾で出たやつなんだよね。お兄さんがかっこよくて絵になるから、思わず声かけちゃった」

「嬉しいことを言ってくれるね。君の髪型もかっこいいと思うよ。そのカラーは、に憧れてかい?」

 彼に言われて五樹は、髪に一房入れたメッシュに触れた。銀朱色は、『巨人』と謳われた英雄の髪の色と同じだ。

「へへ、そうなんだよね」

 照れくさくなって指で髪を巻く。

 英雄は齢四十過ぎの、元純文学作家の管理局員だ。『いわおせんせい』という作品で賞を受賞し、国語の教科書にも載るほどに著名な作家だった。

 しかし彼はある日、前触れもなく転身し管理局員となった。理由は一般には知られていない。

 五樹も、彼に命を救われたことがある。

 五樹がまだ幼い頃の家族旅行中に起きた鉄道事故。高い崖にかかった鉄橋上で、電車のブレーキ故障による脱線が発生し、車体が大きく崖からはみ出した。

 いつ車両が転落してもおかしくない中、英雄は自ら崖下へ降りると、自身の肉体を巨大化する才能を使用。その手で車体を線路へと戻したのだ。

 その後、巨大化した自身の体を足場として提供するなどして、救助活動に貢献。結果として被害は軽傷者数名で済んだ。

 忘れもしない。百八十はゆうに超える上背に、銀朱の髪をたなびかせていた姿を。言葉数が少なく無愛想なように思えて、柔らかく笑う優しい人だった。

 あの日からずっと、英雄は五樹の憧れだ。

「そういえばこの辺りの学校は確か、今は臨時休校になっているんだったっけ」

「そうなんだよね。休みが伸びたのは嬉しいけど、自習しなさい! って、宿題増やされちゃった」

 春休みは未だに明けることなく、例年であれば始業式をするはずの日はとうに過ぎて、四月も半ばに差し掛かる。

 八桜子市内の学校は現在、一律休校となっている。

 一ヶ月ほど前に市内某所の高校で、生徒・教員計七百名が失踪するという事件があったためだ。

 報道上で【消失事件しょうしつじけん】と呼ばれるそれの全貌は不明。管理局いわく、当時校内に居た人間と自宅に居た欠席者の一部が被害者らしい。

 事件の捜査を行うため、市内の学校に休校の処置がされた。

 それをうけて創生塾も、自習室のみ開放されている──自習室も開くなという苦情はあったらしいが、家庭に居場所がない子供のための処置だという。

「最近は何かと物騒だから、気をつけるんだよ」

「うん、お兄さんも。じゃ、描き始めるね」

「嗚呼、よろしく」

 似せられるように、そして何よりも彼に喜んでもらえるように頑張ろう。

 鉛筆をくるりと回し、改めて彼の顔を見る。注視するほどに整った顔立ちをしていた。

 深海を思わせるような瑠璃紺の髪に、灰みのある淡い空色のインナーカラー。目は吊り目がちに細長く、上向きの睫毛や長い目尻が、透明に近い淡いカナリアイエローの瞳を飾る。

 眉毛は眼窩に沿って緩やかに生え、整った鼻筋は高い。口元は両端が締まっているが、笑みからは気の良さを感じさせる。

 荒い線で形をとりながら、彼の端正な容姿を胸部まで描く。華やかというよりは儚げな面立ちだが、シャツから伸びた首は男性的で、喉仏が出て骨ばっている。上背は高いが肩は張っていない。

 これが眉目秀麗というものかと、五樹は鉛筆を走らせつつ思わず唸り声をあげて眉をひそめた。

 何かが不快な訳では無く、少しのだ。

「改めて思ったけど、お兄さんってかっこいいね」

「おや、嬉しいことを言ってくれるね──もしかして、描きにくいかい?」

 彼の言葉に五樹は思わず目を丸くして、誤魔化すように苦笑いをこぼす。

「あはは、バレた?」

 美人は描きにくい。顔の特徴を捉える難しいから。

 歯が出ていたり眉が太かったり、そばかすがあったりなんていう特徴は、顔を似せるための要素となる。特徴があるとそれを元に描けるため、顔を似せるのが楽になる。

 極端な特徴に限らずとも、左右の目の大きさの違いやニキビなど、人にあって当然の僅かな特徴も、人物を描く上では要素になる。

 しかし美人にはそれが無い。描いていく上で頼りになる要素が無いと、顔を似せるのは難しい。

 そのため美人は絵描き泣かせの顔といわれ、描きにくい顔という言葉は褒め言葉に近い。

「お兄さん詳しいね。もしかして絵とか描いてる人?」

「主に風景画をね。自画像のことは、知識としてある程度だよ」

「じゃあ、お兄さんも才能とか使えるの?」

「嗚呼、見てみるかい?」

 五樹は思わず手を止めて勢いよく顔を上げた。彼はどんな才能を扱うのだろうか、ぜひ見てみたい。そんな期待に目を輝かせると、それを見て男性はくすりと笑い、五樹の前に片手を差し出す。

「とんと払った朧月、とうとうと雲の所無く。人の世とは斯くあれかしと。才能開示さいのうかいじ【ウラノメトリア】」

 彼が言葉を紡ぐと同時に、その手のひらからぽつぽつと泡が湧いてでる。一つまた一つと現れた小さなそれらは、身を寄せるように集まって、次第に青い水泡へと変わる。

 水泡はまた溶けるように形を変えて、彼の手の上で大きな一輪の花になった。瑞々しく煌めく花は、まるで自分を見ろとでも言いたげに、多層の花弁を目一杯に広げている。

「さぁどうぞ」

 差し出されて、五樹はそれを受け取ろうと手を伸ばした。指先がつうとそれに──触れなかった。

 花は水に見えるが、冷たさも無い。いくら手を動かしても、まるでホログラムのようにそこにあるだけ。触れられない。

「幻?」

 呆気にとられ、ぽつりと呟く。

「正解。僕は、写実的しゃじつてきな絵を描く表現者でね」

「写実的って、写真のような絵ってやつだよね」

「嗚呼。人は自らの作品に由来する才能を持つ。まるで実際にそこにあるような、極限まで突き詰めた現実味リアリティ。それが僕の幻の根源さ」

 彼がぎゅっと手を握ると、青い水の花は音もなく消えた。

「と、この通りだよ。芸としては良いけれど、日常で何か役に立つこともないから、せいぜい子供だましな才能だけれどね」

「ううん、すごい綺麗だった」

 まるで植物のタイムラプスを見ている気分だった。壮大では無いけれど、先が気になって思わず注視してしまうような。

「楽しんでくれたのなら嬉しいよ、ありがとう」

「こっちこそありがとう。あ、これ描き終わったよ」

 思い出したかのように、彼にクロッキー帳を渡して見せる。既に三分は過ぎた頃だろう、クロッキーをするには充分だ。

 出来はまぁまぁ。線の粗さはあるが、しゅっとした骨格や唇の厚みは捉えられている。

 しかし、懸念していた通りに顔が似ていない。丸眼鏡越しに見える切れ長の目や、幅の狭い鼻の形など、彼の顔と比べると何処か丸みを帯びてしまっている。

 全身クロッキーはともかく、顔のみのクロッキーは、短時間で特徴を捉えることを目的とする。その目的の上で見ると、今回のクロッキーは良くも悪くも無い。

 酒葉に指摘された箇所が改善できていないと考えると、練習としては不出来かもしれない。見せるのが少し恥ずかしく思えた。

「おや、僕はこう見えているのかい?──いや、なんでもない。ありがとう、こうして描いてくれて嬉しいよ」

 彼が笑って誤魔化した言葉を、五樹は聞き逃さなかった。ちくりと、胸に刺さった心地がする。

「素敵な絵を見せてくれたお礼、といってはあれだけど。僕は何でも屋をしていてね。困り事の際はいつでも連絡してほしい。お安くするよ」

 ポケットから小さな入れ物を出して、彼は一枚の紙を五樹の手のひらに乗せる。

 それはクラシカルなデザインの黒い名刺だった。花を模した柄が施され、銀の印字で装飾されており、彼の身なりと同じく気品がある。

 そこには彼の名前らしき哀川仙あいかわぜんの並びと、会社名かと思わしき【アトリエテラス】の文字が。

「アトリエテラスの、アイカワ、ゼンさん?」

「嗚呼、それが僕の名前だよ。アトリエテラスは、僕の所属している集まりのようなものさ」

「ってか、お礼じゃなくて宣伝じゃん」

「あはは、バレちゃったか」

 お安くする、ということは本来はそこそこ高いのだろうか。元の値段を想像して身震いする。

「まぁ、何かあったら電話するよ。ありがと、哀川さん」

「嗚呼。それじゃあ、またどこかで」

 哀川はとんと五樹の肩を叩くと、柔らかな笑みと共に軽く手を振って、駅への道を去っていく。

 びゅうと強い風が吹いて、桜の花弁が一斉に散り乱れ、幕のように彼の姿を覆い隠した。

 立ち竦んでその背を眺める五樹の頭の中に、彼が先程発した言葉が巡る。

──僕はこう見えているのかい?

「失敗したなぁ」

 彼を描こうと息巻いていた割に、思うように描くことが出来なくて。恥ずかしさと後悔がじくじくと腹の中に湧く。

 哀川の披露した美しい花の幻が、目を閉じれば鮮明に思い起こされる。

 自身の才能を巧みに操り、五樹を魅力したあの才能が、心から羨ましかった。あのように才能を扱ってみたい。

 哀川のように魅力的で、英雄のように強い才能を、いつか手にすることはできるのだろうか。

 何もかも上手くいかないことばかりだ。虚しさで思わず溜息をこぼした。

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