第九話

「ところで五樹さん、その、描き終わりましたか?」

 唇を尖らせた五樹に向かって羽深が問う。彼女は何処かそわそわと浮足立った様子でこちらを伺っていた。完成品を見るのを楽しみにしているらしい。先程までの加賀美への不満が吹き飛んで、五樹は満面の笑みを浮かべる。

「うん、できたよ。加賀美さんも羽深さんも、服装がお洒落で素敵だから描いてて楽しかったや」

「ありがとうございます。身なりにはいっとう気を使え、と昔から言われていたので。実はこのスカート、不思議な仕掛けがあるんですよ」

 そういうと羽深は椅子から立ち上がり、五樹の側まで歩み寄ると、くるりと一度軽く回って見せた。

 その彼女が歩いた道筋。そして彼女が立っている足元を見れば、そこには青い光の花が咲いていた。小さな花畑のように咲くそれは、彼女が動けばぱっと開花し、時間が経つと細かな光の粒になって消える。

「それってまさか」

「えぇ。歩くと足元に花が咲く服です。季節によって花の種類が変わるんですよ」

「すげぇ、実物初めて見た!」

 五樹は羽深の回りをぐるぐる歩いてそれを眺める。才能のかけられた衣服は、一着で数万はする代物だ。まさか本物を拝める日が来るとは。

「俺もこういうのほしいんだよなぁ」

「五樹。アンタって、人との距離感近いのね。人の土地に家建てて引っ越し蕎麦持ってくるレベルよ」

「人の土地に家建ててるのは加賀美さんの方じゃん」

「正論やめてちょうだい、言い返せないから」

「あ、五樹さん。絵を見せて頂いても?」

 言い返された加賀美が何やら小声で「家は建ててないもの。弥の空間だし」と言い訳をしていたが、聞こえないフリをする。

 五樹は弥に大きく頷くと、卓上の書類を束にして隅に追いやり、今度は自分のクロッキー帳を机に広げた。皆が四方から身を乗り出して、五樹の絵を興味深そうに覗き込む。

 加賀美は鋭く切れ長の目や潜めた眉など、特徴が多く描きやすかった。均整のとれた顔立ちの羽深は、大きく開いた二重の吊り目や真っ直ぐな鼻など、細かなパーツを注視することで、顔を似せて描けたと思う。

「素敵ですね」

「よくかけてるじゃない。人体ってかなり難しいわよね」

「嗚呼。筋肉の成り立ちや関節の動き方を考えないと、必ずどこかに違和感が残る。たくさん練習したんだね」

 口々に褒められるのが恥ずかしくて、絵から逃げるように後退り誤魔化し笑いで頭を掻く。

「いつから描き初めたんだい?」

「大解放の後から。でも最近息詰まってんだよね」

 主に酒葉に指摘された顔のパーツについて。クロッキーで少しは改善された気がするが、未だに要領がつかめない。

「そうね、技術も大事だけど考え方を整理するといいわよ。アンタは絵で何を表現したい? 絵を見た人にどう思って欲しい? ただ描いてるだけなら、それは自己表現じゃなくてタスクよ」

「笑顔になってほしい」

「そう、素敵ね。じゃあどうして人物画なの? アンタはまだ若いんだから、人物画に道を限る必要は無いでしょう」

 五樹は一瞬固まって、強く手を握って俯いた。自分が絵を描いたのは、大解放の後から。思い起こそうとすれば、痛烈な記憶が蘇る。

「俺の父さん、写真に写るのが嫌いなタイプの人だったんだよ。家族写真も撮る側ばかりだったから、遺影に使える写真が無かった。父さんを取材したことがある記者の人が、その時の写真を厚意で提供してくれたから、どうにかなりはしたんだけどね」

 撮った写真が少ないと、亡くなってからその人を思い出す機会が減る。その人はどんな笑い方をして、どう動き、姿勢は良かったかどうか。

「生きている間は些細なことでも、亡くなってから思い出したくなることはたくさんある。忘れたくないんだよ、それを」

 大解放があった数日後。父の死を知ってから、五樹は必死に絵を描いた。自分の記憶から父の姿が消えてしまう前に書き残したくて。

 泣いて紙をぐちゃぐちゃにして、慣れない鉛筆の濃さに苦戦した。感情のあまり力を込めすぎて、手が擦れて真っ黒になって。

 毎日時間がある限り描いていたから、手には不格好なペンだこがたくさんできて、段々と手が固くなった。

 父親は筋肉質な身体をしていたが、それを再現できなくて試行錯誤して、自分も同じように鍛えて研究し、筋肉の作りを独学で学んだ。

──少し絵が上手くなった頃にはもう、父の姿はほとんど忘れていた。

「だから思ったんだ。写真に映るのが嫌いな人でも、その人の絵を残せたらって。遺影にはやっぱり写真を入れたいけどさ」

 写真の入っていないアルバムのかわりに、その人でいっぱいのスケッチブックがあれば。きっと死後も彼を懐かしく思えることだろう。

「嫌な話させちゃったわね、ごめんなさい。さすがに気が利かなかったわ」

「ううん、大丈夫」

 加賀美が姿勢を正して深く頭を下げる。事情を察しろというほど五樹も傲慢ではない。いつか話そうと思っていたことだ、良い機会に恵まれた。

「五樹くん、息詰まっているなら人物以外も見てみたらどうだい?」

 沈んだ空気を晴らすように、変わらぬ調子で哀川が言う。

「人物以外?」

「嗚呼、五樹くんの考えを否定してるわけじゃないよ。ただ君の目標を聞いたら、人物だけを描くのは悲しく思えてね。背景も描くのはどうだという提案さ。例えば人の後ろ姿を描くとして、何処をいつ歩いているのか。そんな状況が分かるのも良いんじゃないかなって」

「なるほど」

「まぁ、ただの提案さ。新しい何かに触れるのは良い刺激になる──弥、前に君が描いていた風景画と人物画があったよね」

「嗚呼、それなら確か倉庫に置いてありますよ」

 羽深が紐を横に引くような動作をすると。ロッキングチェアの側に置かれた二つの本棚の合間に黒い木戸が産み出される。加賀美がそそくさと立ち上がってその戸口を開いた。

 その瞬間、油絵特有の鼻をつく匂いがその部屋から溢れ出す。咽返るような湿度の油臭さに慣れていない五樹は、咄嗟に鼻を摘んだ。嗅いでいるだけで頭痛がしそうだ。

 匂いに耐えつつ部屋の中を見れば、奥行きのある部屋の両側を囲うように背の高い棚がいくつも置かれている。キャンバスやスケッチブックなど、様々な画材の作品が立てて収納してあるようだ。

 奥まで入った加賀美はがさがさと音をたてて何かを探すと、キャンバスと一冊のスケッチブックを両脇に抱えて外に出すと入り口側のイーゼル抱え、足で扉を蹴り閉めた。

 そのまま扉の前にイーゼルを立てて絵を並べると、一仕事終えたと言いたげに大きく伸びをして、泥のようにレザーソファに身体を沈める。

「五樹くんは油絵に興味は?」

「少しだけ。絵描くならやっといて損は無いって聞いたことある。経験した前後で、色の塗り方とか影の付け方が変わるって」

「そこは個人差だね。確かに人によっては、世界を見る目が変わると思うよ。油絵の混色は独特だからね。赤と青を混ぜても綺麗な紫にはならないし、肌色を作る方法はたくさんある」

「肌色を作る方法? 肌色は肌色の絵の具じゃないの?」

「嗚呼。桃色混じりなもの、血の気の引いていて靑っぽいものとかね。自分で色を混ぜて作るんだよ」

「へぇ、難しいんだね」

 五樹は絵に近寄るとそれをゆっくりと眺める。確かにそれぞれの絵柄や個性が出ているように思えた。

 羽深の絵は良い意味で絵画的だ。遠い青空と地平線の先まで続く花畑を、奥行きのある縦構図で描いている。地面で咲く花々の群と舞い上がる花弁。絵画だからできる静と動の対比がある。

「これって、何処かの風景なの?」

「そこの扉開けてみなさい、びっくりするから」

 だらけた加賀美が指をさすのは、リビングの奥にある白い扉。言われるままにおずおずと扉を押し上げると、ギイと軋む音と共に視界がひらける。

 それはあまりにも荘厳な風景だった。戸口の木枠の先から広がる薄青の草原。淀みなく澄んだ青空から差す白光。緩やかな丘陵の上に聳える大木の脇から一筋の小川が流れている。

 びゅうと一際強い風が吹いて花弁が舞い上がる。それを見て五樹は静かに扉を閉めた。

「え、なにこれ」

「弥の空間だもの、扉の先が部屋とは限らないわ。万里の長城とかも作れるわよ」

「桁の違いを思い知らされた、って感じ」

 ここは神の棲まうところと言われても納得できる。自由が効くとは聞いていたけれど想像を超えていた。

 羽深のスケッチブックを手に取る。適当に開いたページには、色鉛筆で彩色がされた男性の絵が描かれていた。

 くすんだ緑青色の髪をひとつ結びにして、前髪は邪魔そうにオールバックにしている。紺青色の目を輝かせて、豪快に笑う男性の表情は何かが弾けたように明るい。

「うっま」

 単純な画力だけではない、その人がどのような人柄なのかが人目でわかる絵だ。きっと普段から笑顔の絶えない人なのだろう。

「その人は私の師匠なんですよ」

「そうなんだ。この人も表現者?」

「えぇ。童話を作る表現者で、教える才能の持ち主です」

「教える?」

 伊依の感情共有のようなものだろうか。

「昔から伝わる童話の中には、教訓が込められたものが多い、というのはご存知でしょうか?」

「うん、聞いたことある」

『赤ずきん』や『金の斧と銀の斧』は特に有名だ。赤ずきんは、親の言いつけは守りなさいという話。金の斧と銀の斧は、正直者であることが一番大切だという話らしい。

「師匠の作る童話も、教訓を含めたものでして。自身が作った作品を人に話すことで、人に優しくしなさいだとか、自分らしくありなさいだとか、人生において大切なことを伝える才能でした」

「その師匠さんはアトリエテラスにいないの? 俺も会ってみたい」

「残念ながら、アトリエテラスは私達三人だけです。でもきっといつか会えますよ」

 口元に手を当てて笑む彼女は、これまで見た中で一番楽しそうな顔をしていた。

 羽深の師匠か、一体どんな人なのだろう。

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