第四章 人目のつかぬ夜を征く
第二十話
翌日。五樹は哀川と共に、依頼のため電車に乗って尾梅へ向かう。空席ばかりの車両の隅に並んで腰を掛け、客の少ない車内をぼうっと見つめる。
「哀川さん、今日の依頼って何だっけ?」
「一人暮らししている娘の様子を見に行ってほしい、だそうだよ」
「変な依頼だね」
「怪奇現象ばかり追っている僕らのほうが、傍から見たら変だけれどね」
「正論だ」
今回の依頼は怪奇現象も何も関係ない。都心から離れた尾梅に一人で住む娘の様子を確認してきてほしいと、母親から頼まれたのだ。
──昨日、伊依は結局帰宅しなかった。本当に酒葉の元へ行ったのだろう。
二人で彼の家に遊びに行く事は何度かあったし、衣服も数着あちらに置いているから、何の不安も無いけれど。
今度顔を突き合わせたら、何を喋れば良いのだろう。酒葉とも伊依とも。
揺れに身を預けて目を瞑る。静かな車内は考え事ばかり捗って億劫だ。早く目的地に着けば良いのに。
通り雨でも降ったらしく、野道はつんと雨の匂いがした。跳ねた水に濡れたズボンの裾が冷たい。雨の止んだ厚い雲の、束の間に覗いた薄い青空を見て、五樹は小さくため息を吐く。
駅から数十分程歩いた場所に、依頼先の家はあった。少し古びた平屋だ。平屋にしては狭く、けれど一人暮らしには広い。玄関先の階段には古い家に不似合いな新品の手すりがある。
屋根の端からぽたりと垂れた雨粒が哀川の肩を濡らす。二人は並び立って、哀川が呼び鈴を鳴らした。すると数分程経って、僅かに開いた戸の奥から、女性が恐る恐る顔を覗かせる。
「えっと、どちら様でしょうか?」
顔を覗かせた女性は薄手の黒鉢巻きで目を覆い隠していた。それを見て哀川は一瞬目を見張りながらも、直ぐ様丁寧に頭を下げる。
「はじめまして、哀川仙と申します。私共は、アトリエテラスといって、瑠璃さんのお母様から、瑠璃さんのご様子を伺うように依頼をされまして」
「はじめまして! 猪戸五樹です」
「母? 依頼?」
「お母様から、私共の訪問についてお聞きしていたりは?」
「いえ、なにも」
「それは失礼しました、何か連絡の手違いがあったのかもしれません」
「嗚呼、そうだったんですね。立ち話も何ですしどうぞ中へ」
そういって瑠璃は二人を招き入れると、手すりを掴んで上がり框を超える。五樹はその様子を見てふと違和感を覚えた。
瑠璃は恐らく盲目だろう。けれど五樹達は、瑠璃がそうであると知らされていない。哀川が先程驚いたのもそれが理由だ。
そしてどうやら瑠璃も、五樹達が訪ねてくると知らなかった様子。双方で伝達ミスがあったのだろうか。
五樹は慌てて靴を脱ぎ揃え、瑠璃の身体を支える。ちらりと哀川を見ると、彼は不思議そうな顔で下駄箱を見ていた。
「失礼ですが、目が見えてらっしゃらないんですか?」
彼が肩越しに声をかけると、瑠璃は少し笑って頬に手を当てる。
「嗚呼、そうなんですよ。仕事帰りに階段から転落して──詳しくは言いません。その、お二人に想像させてしまいますし。傷も広いので、こうして布を」
「お一人で生活を? その、ご家族の方は」
「家族は私に無関心なので。でもお手伝いさんも居るので、心配はありませんよ。それにこう見えて元気です!」
瑠璃はそう言って力こぶを作る。五樹はそれに思わずパチパチと拍手をした。彼女は存外お茶目な人らしい。
「そのお手伝いさんは今どちらに?」
「買い物に。数十分もすれば帰ってきますよ」
お手伝いの存在も初耳だ。だから哀川は靴箱を気にしていたのか。
そのお手伝いが依頼についての情報を受け取り、瑠璃さんに言伝していないのだろうか。
いや、ありえない。普通は真っ先に伝えるはず。
そもそもお手伝いが居るのなら、二人がこうして確認しに来る意味はあるのか。お手伝い越しに瑠璃の様子を逐次確認するのと、五樹づてに様子を聞くのとで大差は無いはずだ。
五樹は眉を寄せた。この依頼、どうにも何かが様子がおかしい。
リビングには机や棚や椅子という、比較的簡素な物だけがおかれていた。足をぶつけた時のためにか、棚や机の足にはカバーがつけられている。お手伝いの人も同居しているのか、ソファに男物らしき服が畳んで置かれている。
「あら、お客様にはお茶を入れないと! えっとコップはっと」
「嗚呼、僕がやりましょう。瑠璃さんはどうか座っていてください」
楽しげにキッチンへ向かおうとする瑠璃を、小走りに入室した哀川が優しく制する。
「ではお言葉に甘えて。何が何処にあるかは棚に付箋を貼って覚えてる、とお手伝いさんが言っていたので、それを頼りにしてください」
彼女は元来そそっかしく感情豊かなようで、人にお茶を淹れてもらうのが嬉しいのか、口で「ワクワク」と言っている。五樹は瑠璃に連れられて、リビングの椅子で瑠璃の正面に腰掛けた。
「あの、瑠璃さんのお母さんはこうやって、代理を立てて様子を見に来ることがあったの?」
「いいえ、知らない人が来たのは初めてです。これまでは数ヶ月に一度、渋々といった様子で顔だけ見て帰っていました。稼ぎ口が減ったのが気に入らないんでしょうね。窓から覗くだけして帰ったこともある、ってお手伝いさんが」
嗚呼、と声を漏らしそうになる。ユカの時に懸念していた家庭状況だ。彼女の視力は関係なく、母親は体の良い厄介払いとして一人暮らしをさせている。
連絡事項がおざなりなのもそれが理由か。やるせなさにぎりりと歯噛みをした。
「冷たいレモンティです。美波さんもどうぞ」
グラスを載せたトレイをかたかたと揺らして、哀川が歩いてくる。彼は卓上に三つそれを並べると、五樹の隣席に腰を下ろした。置かれたグラスは僅かに汗をかいて、柑橘系の香りがする。
五樹は薄い金のレモンティの、表面が揺れるのをぼうっと眺めた。雨のせいか、やるせない気持ちが晴れない。木椅子の足を軋ませながら、ふぅと嘆息する。
「もう外は暖かくなったんですね。そろそろ桜が終わった頃ですか?」
向かいに座った瑠璃が、レモンティをちびちびと呑みながらに言う。
「うん。もう立派な葉桜になり始めて綺麗ですよ。そういえば、そろそろ薔薇が咲き始める頃かな」
五樹ははにかむと、窓の外を眺めながらに返した。遠くに見える山もすっかり夏の色で、もう春とは呼び難い。
「それは良いですね。薔薇は特に匂いが甘いくて私も大好きです。あとは秋桜とか──」
その時、玄関からガチャリと鍵の回る音が鳴る。次いで「ただいま。あれ、誰か来てるのか?」と低い男性的な声がした。
「あ、お手伝いさんが帰ってきたみたいです」
呑気な声で瑠璃が言う。五樹と哀川は来客の立場もあって、礼儀として席を立って玄関口の方を見た。
玄関へ続く廊下の引き戸が開かれて、奥から温厚そうな面持ちの青年が顔を出す。黒髪に黒目の平均的な顔立ちではあるが、彼は人当たりの良さそうな笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「はじめまして。えっと、瑠璃さんのご家族の方で──」
「方垣律生」
ぽつりと。茫然自失の五樹が呟くと、男は柔和な表情を引きつらせた。
嗚呼、なぜこんなところに。五樹の脳味噌が警鐘を鳴らす。
こいつだ、この男だ。猪戸コウを刺殺したのは。
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