第二十一話

「なんでお前がここに居る?」

「君は、俺を知ってるのか」

 名前を呼ばれた方垣が、震える声で呟く。彼が背面で手を離した引き戸が、ぱたりと閉じた。

 知ってるも何も──そうか。こいつは英雄を刺殺しただけで、五樹のことは知らないんだ。方垣と五樹は、今が初対面なのだから。

「お前、なんでここに居るんだよ。嘘ついて瑠璃さんの家に住み着いて、また殺すつもりだったのか?」

 ぐつぐつと、火にかけた鍋が煮立つように、腹の底から感情が湧き上がる。怒りと嫌悪と疑問が頭の中で回って、鼓動が早くなるのを感じた。

 方垣は何故、未だに被害者の顔で生活している?

 一体いつからここで生活をしていた、それで何故周囲の人間にバレていない?

 方垣は何も言わない。状況が理解出来ていないのは彼も一緒なのだろう。

 質問に答えない怒りが膨れ上がり、けれどそれを抑えようとする理性が戦って。

 ダンッ! と、卓に並んだグラスを揺らすほど、強く机を叩いた。

 その音に瑠璃が肩を跳ねさせる。事態を察したらしき哀川が、彼女を支え立って五樹の後方にある窓際まで下がった。

 それを横目に確認し、五樹は再度方垣を睨む。彼は廊下へ続く引き戸の前に立ち尽くしたまま、ごくりと息を呑み、なおも無言で居る。

「なんか言えよおい!」

 糾弾の声をあげ──冷静になれ、感情に身を任せるな。

 感情的に動くのは、カッとなって殺人を犯したこいつと同じ。それだけは嫌だ。

 必死に堪えるように、机を打った手に爪を立てて拳を握る。

「五樹さん、落ち着いて」

 背後から静止の声がかかる。

「瑠璃さん! だってこいつは──」

「脱獄囚、なんでしょう」

「え?」

 信じられないと、目を丸くする。

 何故彼女は方垣の素性を知ってなお、方垣と共に居る?

「知っています。随分前に、本人から聞きました──一度、私の話を聞いてください」

「じゃあ、なんで」

 方垣を鋭く睨んだままに問う。静謐な空間で、瑠璃が小さく溜息を吐くのがやけに大きく聞こえた。

「私は当時ニュースを日常的には見ていなかったので、大解放の事は遅れて知りました。世間で大解放が起きて数日後、私は──この家で、自殺を図っていました」

「え」

「大解放は関係ありません、人生に疲れただけです。けれどそこへ、県外への逃走費用を強盗に来た方垣さんが来て──まさか、押しかけた強盗に命を救われるとは」

 瑠璃が言うと、方垣が居心地悪そうに俯いた。

「当時は、車を盗んでここまで来たんだ。とりあえず、人目の無い山奥に行こうと思って。金が必要だったけど、事態のおかげで出歩いてる人なんて居なかったから、手近なこの家で物を盗もうとした」

 どうせなら都心で金でも握って逃げれば良いものを、わざわざ手間を──否、あの惨状で金の往生などしていれば、一息でぺしゃんこか。こんな奴、むしろそうなれば良かったのに。

「窓を割って入ってきたものだから、最初は通りがかりの親切な人が、見かねて止めてくれたのかと。彼も当初はそう嘘をついてましたし。彼はその後、私が心配だからと数日様子を見て──私がようやく大解放を知った日に、自分が脱獄囚であると明かしました。過去に犯した罪のことも」

「今まで通報されていないのは、俺としても不思議でならない。最初こそ顔を隠していたが……顔を見ても、俺が脱獄囚とはわからないらしい」

 指名手配犯の顔を覚えている人が少ないのと同じで、世間では脱獄囚も一過性の記憶に過ぎないのか。香椎も、当初は斑鳩が脱獄囚と知らなかった。

 五樹はぎりりと歯噛みする。バレなければ、そして罪を認めれば許される訳じゃない。

 方垣は誘拐事件当時も、自主により更生の余地ありと判断され、無期懲役となった。

──身分の偽装は、身体変化の才能において、最も危険視された使用方法だ。

 顔だけでない。身長、性別、体格に年齢。コウが扱った身体を大きくする才能も。顔や性別を変えての殺人は、目撃情報をいくらでもごまかせる。別の誰かを犯人に仕立て上げることだって可能だ。

 方垣は、誘拐殺人であることや動機の身勝手さ、才能悪用の残虐性を考えれば、或いは死刑もあったのに──そのまま執行されて死ねばよかったのに。

「じゃあお前は、どの面下げて被害者の顔面でのうのうと生きてんだ? 嗚呼その面か、その面だな」

「違う。この顔で居た期間が長すぎて、戻せなくなったんだ。でも俺は確かに反省して──」

「戻そうと思えば戻せたはず。だってお前の才能、顔に強い衝撃を受ければ元に戻るんだろ?」

 被害者のしていた生活への憧れ、それが方垣の犯行動機。結局この男は言い訳をして、変わろうとしていないだけだ。猛省しているならば、机の角に顔を打ち付けるなりして顔を捨てたはず。

 方垣は一瞬言葉を詰まらせると、何も言わずに俯いた。図星だったのだろう。

「五樹さん落ち着いて」

「こいつは、何も反省してなんか居ないッ! 今だってこうして他人の顔のまま……なのにどうして瑠璃さんは──」

「見えませんもの、顔なんて」

 息を呑む──最低な言葉をかけてしまった。ずきりと胸が痛むのを堪えるように、服の上から心臓を押さえる。

「方垣さんと話すのも、通話越しに母と話すのも、私にとっては何も変わらない。顔が見えない相手と話していることに、変わりはありません」

 ちらりと振り返った瑠璃が、布越しに真摯な目を五樹に向ける。

「この人のほうが優しかった。母とは違って、私を助けてくれた。赤の他人なのに、私を気にかけてくれた。だから私にとっては、方垣さんの方が優しい人です。だからこの人と暮らしたい。それは、許されないことなのでしょうか?」

「許されるって──」

 許されるわけがない。許せるわけがない。

 なら仕方ないなと見逃せば、これまで五樹が抱えた苦痛は一体何になる。

「お願いだ、見逃してくれないか。もう一生悪いことはしない、約束する」

 方垣は、五樹がただの一般人と思っているのだろう。方垣の顔を知るだけの赤の他人だと。情に絆せば許されると、考えているに違いない。

 強く唇を噛み、ふぅぅと深呼吸をする。方垣を見れば、未だ俯いて眉を震わせている。

「お前は、自分がなにしたか覚えてんのかよ」

「もちろんだ、忘れたことはない。人を殺して顔を奪った挙げ句、大解放で脱獄した」

「殺しただろ、他にも」

「──嗚呼。英雄を、殺した。逃げるのに必死だったんだ。だけど──」

「英雄は、猪戸コウは、俺の父親だ」

 方垣が息を飲む。しまった、と言いたげな顔だった。

「お前は父さんの背中を何度も刺した。知ってたか? 父さんは、人助けをして瓦礫に足を潰されてたって。子供も庇ってたから抵抗もできなくて、遺体の背中は刺し傷だらけで、足の骨は折れてたって聞いた。俺は直接見てないから、どれだけ酷かったかはわからない。遺体を見ないようにって、管理局の人が俺の目を隠した」

 共に遺体を確認した酒葉が、五樹の目を隠してくれた。目が痛くなるほど強く顔を抑えて、間違えても五樹が見ないよう。

──今になって思う。見なくてよかったと。見ればきっと目に焼き付いて、コウの姿を描こうとするたびに思い起こされただろうから。

「お前にわかるのかよ。急に大切な人を奪われた人間の気持ちが! 忘れたくないのに、声も顔も仕草も忘れてく気持ちが!」

「すまなかった、本当にすまなかった」

「謝ってんじゃねぇよ!」

 激昂して、ガタンと椅子を蹴倒して方垣の元へ走る。身体を机の端に打った拍子に、グラスが落ちて割れレモンティが破片の中に広がった。

 駆け寄り様、方垣の右頬を殴りつける。がんと拳に衝撃が走って、彼は勢いのまま左へふらついて、側の棚にぶつかり膝をがくりと折った。棚を背にずるずると潰れて座った彼の頭に、本や文房具が雨のように降る。

 五樹は左手で方垣の襟首を掴んで棚に押し付けると、その腹に馬乗りになって、手近な場所に落ちた──カッターを引っ手繰る。

 方垣はそれを見て目を見開くと、抵抗するように五樹の左腕を掴む。

「謝るぐらいなら殺すなよ、申し訳ないなら俺の人生返せよ!」

「殺さなきゃ俺が殺されるって思ったんだ、逃げ延びて、自分は一体何をしてしまったんだと──」

「は、なんだよそれ。お前は人を殺した、殺されて当たり前の人間だ。死ねよ、死んでくれよ!」

 こいつを殺せば全部終わる。こいつを殺せば悲願は達成される!

 コウのため、伊依のため、殺さなくては。

「五樹くん、止めるんだ五樹くん。五樹ッ!」

 ふと、思う。また、二人を理由にするのか。

『復讐してなんて頼んでない! 人の幸せを、勝手に決めつけて話さないで』

 伊依の言葉が頭に響く。二人のためという理由を抜けば、五樹は梶谷をどう思っているのだろう。

 手が震え、呼吸がひゅうと浅くなる。

──こいつを殺せば、五樹はどうなる?

 きっと爽快な気分になるだろう。こいつと同じ空気を吸わずに暮らせれば、酸素が百倍は美味しくなる。

 殺せば、本当に元の生活に戻れるのか?

 人を殺せば、伊依に軽蔑される。人殺しの感覚を覚え──散々嫌った人殺しと同じになる。

──こいつの命に、自分の人生を賭けるだけの価値はあるのか?

 考えるな、刺せば終わる。なのにこういう時に限って、理性が感情を抑えようと働いて、水をかけたように冷静になる。

 無理だ、殺せない。

 だらりと、襟首を掴んだ手の力を抜いて、放心しながらに、右手に持ったカッターを何処かへ投げやった。

 がしゃんと、地面に落ちた音がする。

「哀川さん。管理局に、通報して、はやく」

 馬乗りのまま、鼓動を落ち着かせるように、服の上から強く胸を押さえる。心臓が痛い、心が悲鳴をあげている。

 方垣が目の前で茫然自失としているのを見て、また怒りが湧き上がりそうなものを、ぐっと堪えた。

「殺さないから。瑠璃さんのことも、外に」

 急かすように、俯いたまま声をかける。少し間があって、哀川が「嗚呼」と頷くのが聞こえた。

「信じるよ──瑠璃さん、僕の手を取って。一緒に外へ行きましょう」

「え、ええ」

 物音、次いで足音がする。びちゃりと水音が聞こえてふと、自分がグラスを割ったことを思いだして。

「瑠璃さん。グラス、割ってごめんなさい」

 引き戸を開いて出ていく彼女に、ぽつりと呟いた。

 玄関の閉まる音がして、室内は異質なほどの静けさに包まれた。

「なんで」と、方垣が震えた声を出す。 

「お前を殺したら、服が汚れる。お気に入りの服だから、嫌だ」

 こいつの命より、お洒落な服の方が価値が高い。

──最期まで誰かを守り続けた、猪戸コウの誇り高き死を、こいつの血で汚したくない。

「お前に才能の話をされて、一つだけ思い出したことがある」

 疲れ果てた五樹の下で、方垣が居心地の悪そうな顔で目を逸らす。

「牢獄から出る時、死体の顔を取り換えた」

 その言葉に驚愕して、五樹は方垣を鋭い眼光で睨んだ。

「誰の顔を、誰に」

「管理局員の死体だ、そいつの名前はわからない。瓦礫に潰されてたのを、脱獄囚の一人と入れ替えた」

「脱獄囚の、誰だ」

「確か──カミガタという男だ」

「カミガタ?」

 聞き覚えの無い名前だ。事件記録にあっただろうかと、ボディバッグからそれを取り出してページを捲る。

 見つけた。『カミガタ』と、ページ上部に記載されている。これが人の名前だと思って居らず、記憶にも残らなかった。

 起こした事件の記載は無い。名前を残して、その下部には別人の──それも、表現者ですらない一般人による通り魔殺人事件が書かれている。報道で聞いた覚えも無い。規制が敷かれたのだろうか。

──なんでも良い。少し、考えるのが疲れた。

 身体が重く、項垂れると後ろ髪が垂れて、視界に一房銀朱色のメッシュが写る。

 今ならば、父が何故事件記録手帳を残したのか、わかる気がした。



 数十分後。哀川は「脱獄囚を見つけた」と通報したらしく、事態の深刻さを告げるように、サイレンを鳴らした管理局員と警察の車が数台、焦るようにやって来て、方垣は無抵抗のまま連行された。

 五樹と哀川は幻で姿を変えながら、不安そうな瑠璃の側について、共に警察の事情聴取をうけた。

 拘束される際の方垣の「自分がお手伝いだと詐称し、瑠璃さんを騙していた」との証言。彼の才能が身体に関する物で、瑠璃が盲目であることから、確定ではないが、瑠璃は隠避罪には問われず済みそうだ。

 更に一時間後。警察からの連絡を受けた、依頼者である瑠璃の母親が、車に乗って駆けつけた。母親は警察に頭を下げてから瑠璃に近寄ると、瑠璃の頬を勢いよく叩いた。

「この役立たず! 人様に迷惑かけるだけじゃ飽き足らず、脱獄囚を庇って暮らしてただって? 私を馬鹿にしてそんなに楽しいか!」

「お母さん、落ち着いてください」

 再度右手を振りかぶる母親の前に、哀川が割り入る。五樹は瑠璃を数歩下がらせて庇い立った。

「貴方達は、確か何でも屋の」

 そうして哀川は母親に、瑠璃が方垣に騙されていたこと、罪には問われないだろうこと、方垣は既に逮捕されたことを伝えた。

「そうですか、娘の様子を見に行ってくださってありがとうございました。まさかこの子が犯罪者を庇って暮らしてるだなんて、思いもしませんでした」

 母親はハンカチで口元を覆って目を伏せた。その仕草と発言に、五樹は違和感を覚える。娘を心配するよりも、まるで犯罪者と蔑んでいるような。

「ここからは家族の問題ですので、帰っていただいて結構です。こちらは依頼料です、不足は無いと思うのでどうぞ──今回のことはどうか他言無用で」

 鞄から取り出して哀川に手渡されたのは、だいぶ分厚く見える紙封筒。アトリエテラスの料金が如何ほどか知らないが、普通の探偵で考えても、一日の依頼なら三万程度だろう。

 だが渡されたそれは、十万は優に超える金額が入っているように見える──他言無用、つまり口止め料か。

「あの。俺、方垣と揉み合った時にグラス割っちゃって。家具もたくさん傷つけただろうし……お金は、それの修理に当ててください」

 警察を待つ間に哀川に進言し、相談して決定した。机を叩き椅子を蹴倒しグラスを破壊し、棚から物という物を落とした挙げ句にカッターをぶん投げた。立派な器物破損だ。

 だから誠意として依頼料は受け取らず、本来哀川が受け取る金額は五樹の自己負担で──

「結構です、もうここには誰も住みませんので。家具のこともお気になさらず」

「どういうこと、ですか」

「当たり前でしょう。いくら罪に問われないとはいえ、脱獄囚を庇っていたんですから。もう一人暮らしなんてさせることはできません。目を離していたら、また何をしでかすかわからない」

 理解した。この母親は何処までも、瑠璃を侮辱している。実の娘であるかは知らないが、まるで人間のように扱っていない。

「そんな言い方──!」

 食い下がろる五樹を哀川が手で制すと、彼は封筒から一万円札を二枚だけ抜いて、残りを母親の胸に押し返し。

「では、予定分のみありがたく受け取らせていただきます。また何かありましたらご連絡を。行くよ五樹くん」

 と、普段と変わらない笑みで言って、五樹の手を引いて足早に歩き始めた。

──すれ違う際に彼が一瞬、母親を鋭く睨んだのが見えて、五樹はその表情が恐ろしくて言葉を失う。冷たい氷を脳味噌に当てられた心地がした。

 ばんっ、と音がして、哀川に連れられながらも振り向けば、母親が札束の入った紙封筒で瑠璃の頬を打っているのが見えて、五樹は血が滲むほど唇を噛んだ。

 釈然としない怒りと、瑠璃に対する罪悪感が湧いて、不意に涙が湧いてくる。

 本当にこれで、良かったのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る