第二十二話

 濡れた道草は触れるごとに雫を垂らし、雨の止んだ今でさえ、葉桜から雨粒が溢れて肩を濡らす。

 二人は瑠璃の家から無言のまま駅へ向かい、人気のない車内で穂の垂れた稲のように揺られて、花杜駅に帰り着いた。

 涙が伝って乾いた頬をそのままに、五樹は重い足を引きずりアトリエテラスまでの道を行く。下ろしたての靴に泥汚れがつくのも、今は気にならない。腕時計を見ればようやく昼過ぎを回った頃なのに、疲労困憊で今すぐ寝たい。

 心臓が取れた気分だ。身体の重要な部品を一気にいくつも失ったように、どうしようもない虚無感に苛まれる。

「五樹くんは、どうして通報しようと思ったんだい?」

 前を歩く哀川がふと、沈黙を切り裂いて口を開く。けれども振り返ることはなく、五樹は彼の瑠璃紺の毛先が揺れるのを見つめ、大きな嘆息を零す。

「だって方垣は人殺しだよ。悔い改めましたで済むなんて、虫のいい話あるわけないじゃん」

「ごめんね、聞き方を間違えたよ。君はどうして、殺さなかったんだい? ずっと言っていたじゃないか、殺したいと」

 ちくりと、表皮を細針で刺された気になる。できればそれは聞かれたく無かった。今日、方垣と会ったことすら忘れたい。

「止めた身で言うのもあれだが、君の執念は凄まじかった。あのまま刺殺してしまうのではというぐらいに──ねぇ、五樹くん。もしも僕が君を止めなかったら、君はあいつを殺したかい?」

 なおも背を向ける彼を見て、五樹は居心地悪さを隠すように腕を抱いて苦笑いを浮かべ、目を逸らす。

 木の根の薄紫のスミレが綺麗だなんて、くだらないことを考えて、言いづらそうに口を開く。

「昨日さ、伊依と喧嘩したんだよ。私を復讐の理由にしないでって言われた。それで、刺そうとした瞬間に、急に冷静になったんだよ。これ振りおろしたら、俺はどうなるんだろって。刺したら血が出るなって思った」

 きっと返り血で服が汚れ、帰宅するまでにすれ違う人に不思議そうに見られる。瑠璃の家を皆で大掃除する羽目になる。洗濯をしても血が落ちなかったらどうしよう。

 思いついたのは、そんな馬鹿げたことばかりで。同時に五樹の中での方垣の死は、それらより下なのだと思った。

 口では憎悪だ復讐だと言って、頭は冷静で。

「俺は多分、感情で復讐を考えていたんじゃない。復讐は『すべきこと』で正義だから、殺そうとしたんだ」

 人を殺したやつは死んで当然。それが正義であると。他の誰かの不幸を、あからさまな理由にしただけで。

「俺って、薄情な人間みたい。伊依と父さんっていう理由を無くしたら、俺はフリークスと脱獄囚をどう思うのかも考えて──やっぱり死んでほしいと思った」

 五樹は怖い思いをした。隣で人が死んで、街が焼けていた。紅葉が焼けるあの日の光景は、今でも秋が来る度に夢に見る。あれから生活が大きく変わり、まだ思春期らしい会話もしてないのに、家族と暮らせなくなった。

──そのぐらいだった。死ねと思うには充分な理由はあったが、殺す理由までには至らなかった。

「感情と理性が戦って、理性が勝った。俺の手を汚すほど、あいつの命に価値はない。死んでくれればなんでも良いんだ、はは」

 乾いた笑いを零す五樹に、哀川は何も答えない。沈黙に耐えられなくて、また渋々口を開く。

「──正義って何なんだろね。瑠璃さんは良い人で、方垣は人殺しの悪い人。瑠璃さんの母親は、暴力を振るう酷い人。じゃあ、人殺しの方垣を庇った瑠璃さんも悪人? それなら、悪人の瑠璃さんを殴った母親が正義?」

 それを傍観していた哀川、方垣への暴力に走った五樹も悪人か。ならば暴力を振るわれた方垣は正しいのか。

 五樹はずっと、自分が正しいと心底思っていた。けれど違う。結局は暴力を用いるし、人の幸せを推し量る人間だ。

 なら、あの場では誰が正しかったのだろう。

 五樹はこれから、何を選択すれば良いのだろう。

 道の脇にできた水溜りを、ぽんと飛び越えて、一つ大きく伸びをした。冷たく澄んだ山の空気を吸うと、頭が少し冷静に鳴る。

 話すと少し気分が楽になる。哀川が口を開かないのは、五樹に愚痴を言う時間をくれたのかも。そう思うと、彼の沈黙も苦ではない。でも何故こんなに、胸が苦しいのだろう。

 木々の青臭さと混じる雨の匂いに鼻を鳴らし、五樹は少し前を歩く哀川の彼の背を見ながら、それを追って再び足を踏み出した。

「確かに殺しはしなかった。けれど形はどうあれ、君の悲願は達成された。奴はしかるべき処分を受けるんだ」

 ふと哀川が、木漏れ日の差す木陰に足を止めて、五樹を振り返った。

 彼に、普段の落ち着きは無かった。悲壮に曇った苦笑いをして、哀れな者を見るように、淡い黄色の目を揺らす。

「なのに君は、どうしてそんなに苦しそうなんだい?」

 絞り出すような、掠れ震えた声だった。泣いてはいないが、今にも泣き出してしまいそうな。

「え?」

 言われてスマホを取り出し、内カメラで自分の顔を見る。

 酷い顔だ。充血した目元を腫らして眉を寄せ、涙と雨粒に濡れた髪が頬に張り付いたまま。強く噛んだ唇から出た血が固まっている。

「人を殺した人間は、逮捕されて当然。きっとそれは正しい考えだ。君は胸を張っていいはずなのに、どうして悲しい顔をしているんだい?」

 父を殺した人間をようやく発見した。復讐はどうあれ、喜ぶべきなはずなのに。どうして五樹はこんなにも後悔しているのだろう。

 逮捕されて嬉しい、喜んでいる。なのに心が苦しくて、底無し沼に落ちたように気分が晴れない。

「瑠璃さんが殴られているのを見て、俺、すごく申し訳なくなった。だって、瑠璃さんに、不幸になってほしかったわけじゃ、ないから」

 つうと、頬を冷たいものが伝う。触れてみれば、涙だ。拭って、流れて、また拭う。押さえ込むようにパーカーの袖で目元を覆って、しゃくり声をあげた。

「ごめんって思った。瑠璃さんは何も悪くないのに──ううん、悪いんだ。方垣を匿ったから。でもわかんない、俺、なんで泣いてるんだ」

「彼女の母は、瑠璃さんを嫌っていたようだね。それこそ、僕らなんかにわざわざ依頼するほど。自分で言うのもあれだけど、僕らは怪しい集団だよ。そんなものに依頼する程、彼女と会うのが嫌だったらしい」

 五樹が通報しなければ、彼女と方垣のことは誰も知らずに居ただろう。いつかはバレる日が来るとしても、今日にはならなかった。

 二人は互いを拠り所とし、支え合って生きていた。方垣は瑠璃を守っていた。もしかすれば、恋仲に近かったのかも。

 二人は幸せだった。なのに五樹は、それを壊した。

 瑠璃はこれから母親と暮らす。その生活が幸福に溢れているとは到底思えない。彼女はまた自殺を図るかも。

 瑠璃の人生は、五樹の選択で大きく変わったのだ。

 五樹は自分の目的を果たすため、彼女の人生を犠牲にした。その罪悪感で心臓が潰れそうだ。

──あの場所に居たのが、方垣でなければ、五樹はどうしたのだろう。

「五樹くんは、方垣は改心したと思うかい?」

「全然。むしろする訳無いって思ってる」

 今になって、昨日の加賀美との会話を思い出す。あのとき五樹は、過去に悪いことをしても変われると言った。けれど今は思わない。

 否、思っては居る。方垣に対しては、変われると──変わったと思いたくない。あの男は人を、父を殺した悪人。ただの犯罪者のはずなのに。

 加賀美に、過去の自分に胸を晴れと言ったけれど、方垣が胸を張ってたら、五樹は気持ち悪くて吐いていただろう。

「さっき気がついたんだ。俺は多分、悪人のことを人間だと思ってなかった。化け物とか、理解できない存在だと思ってた」

 あの男にも人生と心がある。そんな可能性は今まで一度も考えてこなかった。脱獄囚とフリークスが反省しているなんて、思いもしなかった。

 全員が斑鳩のように、今もなお悪事を働き生きている。そう思っていたからこそ、五樹はフリークスと脱獄囚を捕まえたいと願ったのに。

 けれど今、脱獄囚は手の届く距離に居る人間になった。今も思考は理解できないが、人間であると知ってしまった。

 五樹はこれから、どうすれば良いのだろう。

「父さんは、このために事件記録を残してたのかな」

 何度考えてもあれは、小説のメモなのだと思う。

 前までは、事件の残虐性を忘れないよう、後世に形として残すためにメモを残し、いつか執筆する気だったのだと考えていた。

 今は違う。父は多分、残虐さだけでなく被害者や犯人の人物像を含めた、事件の背景全てを残すつもりだったのだ。

 犯人の産まれ育った環境、被害者との関係、犯行動機と方法。目に見えることが全てでは無い。事実は過去の積み重ね。

 事実は一つでも、真実は人の数ほどある。

──それを小説にして世に出せば、世間はどんな反応をしただろう。被害者はどんな気持ちになるだろう。それでも父はメモを遺した。批判の嵐やもしれないのに。

 五樹の中で猪戸コウという英雄の認識が変わっていく。父は生きている間、何を考えていたのだろう。

 けれど死んだ人間を理解する術は無い。生者は勝手に推し量り、押し付けることしかできない。

 五樹がずずと鼻をすすって顔をあげると、哀川は罰が悪そうに目を逸らし、遠く森の向こうを見る。

「今日もしも、僕だけであの場所へ行ったとしたら。僕はこの真実を誰にも話さず、通報もせず、ただ依頼完了の旨をご家族に伝えていたと思う」

 そうなれば、五樹は今も復讐に囚われて、こうして善悪に悩むこともなく、方垣を探していただろう。そして瑠璃は変わらず幸せに過ごすはず。

「なんで、そうすると思ったの?」

「辛い思いばかりの瑠璃さんに、幸せに生きてほしい。僕はその気持ちが、勝ってしまった。ごめん」

「謝らないでよ」

 珍しく萎縮した彼に、五樹は呆れて笑いを溢す。

「人生って、そういうものなのかもね。誰かが幸せになるための方法で、誰かが不幸になる」

 五樹の悲願が達成された代わりに、瑠璃が不幸になって。瑠璃が幸福であるには、五樹が涙を飲まなければいけない。結局は、誰が不幸になるかを選ぶだけ。

 誰も不幸にならない幸せな結末なんて、存在しないのだから。

「──でも、やはりか」

「何が?」

「景から聞いたよ、伊依ちゃんとの口論のこと。君の才能についても」

 あんなに怒鳴りあっていれば、玄関に居た彼の耳に届くのも当たり前か。

 加賀美にはあの後すぐに帰宅してもらった。彼と会話する気力も無く、半ば追い返す形にはなった罪悪感はあるが、彼は帰り際まで五樹を気にかけてくれた。

「五樹くん、君に復讐心はあるよ」

「え?」

「薄々勘づいているとは思うけれど、『行動の強制』。それが君の正しい才能だ。君の復讐は、君が君自身に命令したことだよ。脱獄囚を殺せ、とね」

「どういうこと?」

 訳が分からず目を瞬かせる。彼は顎に手を当てて唸ると、また口を開いた。

「君は、どうして復讐したいのだろうと考えたことは?」

「──ある」最近は特にその回数が多かった気がする。

「君の力は、思考を無視して勝手に肉体を動かす才能だ。考える間もなく身体が動いた、もしくは操り人形と例えるとわかりやすいかな」

 伊依には笑顔を強制した。それと同じで五樹は自分に、殺すという行為を命令したのか。

「でも俺、方垣を殺さなかったよ」

「嗚呼、君は理性で己を律し、自分に打ち勝った。前みたく車で例えると──君は憎悪という素材と燃料で車を動かしていた。けれど君の車は優秀で、スピードが出すぎて暴走寸前。君は危険だと無意識に思い、理性というブレーキを作りそれを止めた。だから刺さずに済んだんだ」

「憎悪の燃料はあるけど、ブレーキをかけたから止まっただけってこと?」

「嗚呼。今後復讐を続行するかどうか、車を再発車させるかは君次第さ」

 言われて、自分の手を見つめる。人に行動を強制する力をどう扱うかは、全て今後の自分次第。

 脱獄囚とフリークスを探すことを、諦めるか否か。五樹はどうすれば良いのだろうか。

「じゃあなんで自分の強制は自分で解けたのに、伊依の笑顔は解除するまで解けなかったのかな」


「君はどうやら複数人へ同時に強制をかけられるらしい。複数台の暴走車のうち一つにはブレーキが付いた、という感じかな」

 伊依の笑顔を願わない日は無い。待っていてもきっと、ブレーキは付かなかっただろう。

──ふと思う。笑顔にしたいという考えは、果たして負の感情なのだろうか。否、誰かの幸せを願うのが、負の感情であるものか。

 すっと、胸に何かが落ちる感覚がした。ここ数日喉に引っかかっていた小骨が、ようやく取れたような。

「才能って、負の感情じゃなくて願いから産まれるんじゃないかな」

「というと?」

「『笑顔にしたい』って感情が、負の感情とは思えなくて。これって、『笑顔になってほしい』って願いじゃないかな。香椎は消したい、加賀美さんは才能が欲しい。願いと才能の内容が、一致してる気がして」

 消したいから消した、才能が欲しいから、誰の才能でも使えるようになった。伊依が笑うのは不可能と思ったから、無理矢理操って笑わせた。

──思えば少し皮肉だけれど。

 哀川はぶつぶつと「願い、か」と反芻すると、嬉しそうに顔を綻ばせる。

「願いを元に車を作り、ナビとハンドルで走らせる。夢があるね」

 言葉にされると夢見がちのようで、恥じらいを隠すように頬を掻き、ふと思い出す。

「あ、才能で思いだした。方垣が大解放のときに、脱獄囚と管理局員の死体の顔を入れ替えたって言ってた」

 哀川はすっと笑みを引いて目を細め、真剣そうな面持ちをする。

「それは、一体誰と」

「カミガタ、だって。俺も知らない奴」

「嗚呼、洗脳の表現者か。彼も斑鳩のような間接正犯だよ。洗脳の才能で一般人を操り、通り魔殺人を起こさせた」

 わざわざ洗脳という言葉を用い、五樹の強制と区別するのは、能力の詳細が違うからだろうか。とすればカミガタが操るのは思考かもしれない。

 思えば事件記録のカミガタの名の下にあったのは、一般人による通り魔殺人の記載だった。カミガタがそれを引き起こしたから、彼の欄にその次元の記載があったのか。

──考えて、思考が止まる。

 

「そうか、彼が局員と入れ替えるのは危ういね。管理局にカミガタが紛れ込んでるとすると、早急に対応しないと──早くアトリエテラスに戻って、景たちにもそれを共有しよう」

「なんで、カミガタのこと知ってんの」

 足早に山道を進み始めた彼の背に、ぽつりと呟く。

 五樹すら、カミガタの詳細を知らない。今ようやく事件記録の記載が結び付けられたのに。

 哀川は五樹振り向くと、面食らったような顔で顎に手を当てる。見上げる彼の表情は逆光で仄暗く曇って見えて、五樹の額を緊張の汗が冷たく伝った。

「そうか。あれは、報道規制がされていたのか」

「哀川さん、一体何者なの」

 ずっと違和感があった。アトリエテラスが山奥の廃ガレージで生活することに。人気の無い場所で暮らすにしても、家ぐらい建てれば良いものを。

 何故人の寄らない廃墟を住まいにし、管理局を避けているのか。

「何者って?」

 心外と言いたげに、哀川が五樹を見下ろす。彼は笑っていなかった。美人の真顔は恐ろしいと初対面で思異はしたが、彼を見ているだけで底冷えするような悪寒が全身を走る。

「アトリエテラスは、一体なんなの?」

 しんと、静寂が走った。五樹の心臓が早鐘を打って、耳元で爆音の鼓動がする。強く握った手に汗をかいて、ごくりと唾を飲む。


「五樹くん。あの日、監獄を解放したのは僕だ」


 哀川が、淡々と言った。さも日常会話の一部のように。

「は?」

「君の探しているフリークスは、僕達アトリエテラスなんだよ」

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