第十九話

 心臓が早鐘を打ち、額をつうと冷や汗が流れる。五樹は恐る恐る玄関に鍵を挿して扉を開けた。外の玄関灯がぱっとついて、戸の隙間から電気の消えた廊下を薄ぼんやりと照らす。

 玄関脇の白い靴箱の中に、伊依の黒い厚底靴が揃えて置かれている。間違いない、伊依は既に帰宅している。

「五樹、アタシはここで待ってるわね」

 加賀美は靴を脱がず、神妙な面持ちで上がり框に腰を掛けて足を組んだ。五樹はそれに言葉を返す余裕も無く、軽く頷いて廊下を進む。先にあるリビングの灯りがついていた。

「ただいま」

 グレーのラグが敷かれた木目調の床に、汚れのない白塗りの壁の和モダンな内装の家。伊依は厚手のソファに体育座りをしてスマホを弄り、声をかけると五樹を振り返る。

「おかえり、今日は早かったね。アトリエテラスは?」

 長い袖を無邪気に振り回しながら迎える彼女の側を漂っていたモヤが、きゅうと彼女の身体へ吸い込まれて消える。

──モヤが、その人の希死念慮の証明になる。先程の加賀美の言葉が深く五樹の心臓に刺さった。

 五樹は返す言葉も無く吃りながら、面倒な前置きを無視して意を決する。

「伊依さ、なんであの廃墟にいたの?」

「え? 嗚呼、あれは気がついたら──」

「そんなわけないんだ。あそこに行くには、何にせよ自分の意思が無いと駄目なんだ」

 否定しながら、五樹は伊依の隣に腰掛けて、横目に彼女の様子を窺った。

 考えたらおかしいのだ。あの場所へ行くには、朝霧村を直接訪れて山を登るか、人目の無い暗い場所で呪文を唱える他方法は無い。

 だが何の目的も無く、用向きも無いのに朝霧村の山を私服で登るとは考えられない。となれば最早限られる。

「やったんだな、呪文を。自分の意思で、死にたくて」

「なんで、そんなこと聞くの」

 伊依はスマホの画面を落とし、困惑した様子で露骨に眉を寄せる。けれど半ば冗談と思っているのか、口元は僅かに笑っていた。

「偶然であの場所に居る訳ないって、さっき気づいた。だってお前はいつも笑って──」

「いつも笑顔な私って、ずっと元気な訳ないじゃん」

 五樹の言葉を食い気味に遮る。伊依を見れば、笑っていた。丸くした桃色の目を爛々とさせ、五樹を写した瞳孔は散大し、眉を高く上げ。だが口角は歪にあがる──これは冷笑だろうか。狂気的な表情で見る彼女に、五樹は思わず背を虫が這う心地を覚える。

「悩み事がない訳無い。わからないんだよ何も。自分が何になりたくて、何をして生きたいのかも。大人って何、何したらなれるの? 歳をとったら大人なの? 五樹は私を、何だと思ってたの?」

 淡々と捲し立てて詰め寄る伊依に、五樹は心臓を押されるような圧迫感と動悸を覚えて後退る。

 笑いながらに毒を吐く伊依はあまりにも不気味で、初めて見たその姿が理解できず、得体の知れない恐怖を覚える。

「いつも笑ってて、歌が上手で、人のためにって行動をするすごいやつで」

──すごい奴? 自分で言って、ふと違和感を覚える。すごいなと、五樹はいつも伊依を褒めた。彼女は何と答える?

『すごくなんてないよ』

 嗚呼。表し難い悔悟に襲われる。

 言葉通りだったのか。

「人の悪意を上書きできるからって、悪意を向けられて何も思わないわけじゃないよ」

 伊依は自虐的に吐き捨てる。

 考えてみれば当たり前だ、万人に好かれる人は存在しない。

 伊依の歌は正の感情を届ける。けれど全ての人に好かれる訳じゃない。怒り、妬み、暗い感情の矛先になることもあったろう。

 けれど五樹は、彼女の活動について深く考えたことが無かった。彼女の報告を受けて、歌を聞いて。ファンと同じ面しか見ていないから。

 彼女は元気だ、歌う際も喜びの感情を乗せる。負の感情の伝達は一度も無かった。

──違う、乗せられないんだ。

 彼女の感情は人に伝達されて感化してしまうから。彼女が怒れば誰かも怒り、彼女が死にたいと思えば誰かも思ってしまう。

 だから、楽しいと思いながら歌うしかないんだ。

「笑いたくて笑ってたんじゃない、五樹がそうさせたんだよ」

「俺、が?」

 ふと思う。五樹の才能は、人を笑顔にする才能。人を愉快にさせる才能だと思っていた。

──才能は、解除すると考えれば解除できる。

「──解除」

 呟くと同時に、伊依の口角がだらりと下がる。

 憎悪を抱きあがった眉で口を一文字に結び、開いた瞳孔で伊依が五樹を見る。

 嗚呼、やってしまった。

「俺は、違う」

 人を笑顔にする才能なんかじゃない。

 笑顔を、

 五樹はずっと伊依の笑顔を描いていた。大解放後から彼女が笑わなくなって、笑ってほしくて。

──思えば伊依は、どうやって両親の死から立ち直ったのだろう。

 探し人を作るのは、強い思いの積み重ね。

 希死念慮と、死んだ人への渇望と。

 彼女は何も乗り越えていない。五樹が塞ぎ込ませただけだ。

「違う、俺はただお前に笑ってほしくて。お前の笑顔が見たくて、父さんを殺した奴が許せなくて。だから俺は! お前の為に脱獄囚を──」

「復讐してなんて頼んでない! イチ吉ちゃんの時もそう。人の幸せを、勝手に決めつけて話さないで」

 伊依が慟哭をあげる。その剣幕に怖気づいて、五樹は彼女に伸ばした指をびくりと震わせた。

「私に五樹の行動を制限する権利はない。復讐しようがしまいがなんでもいい──でも人殺しをするなら、私は五樹を軽蔑する。誰かのために殺すなら正しいの? 結局は、ただの人殺しじゃん」

「そんなこと、思ってたのかよ」

 五樹は狼狽えながら掠れた声を絞り出す。

 彼女が恨んでいたのは脱獄囚じゃない、自分だ。

 伊依は一瞬目を見開くと、「もう知らない、家にも帰らない」と、荒々しく吐き捨てて立ち上がると、コートハンガーにのせた白ベレーを引っ手繰る。

「じゃあどうするつもりだよ」

「酒葉センセのところ行く」

 家出するにもスマホしか持たず、彼女は乱暴な音を立てて廊下への引き戸を開けると、返事も待たずに行ってしまう。

 バタン、と玄関の扉がした瞬間に、身体の力が抜けて、ソファの上に四肢を放り出して転がった。

 気が重い。足が動かず追いかける気にならない。

 そもそも追ったところで何ができる? 説得も、今は自己弁護の言い訳にしかならないのに。

 震える手でボディバッグを開いて、クロッキー帳を取り出し、伊依の笑顔のページを開く。

 ずっと依香の顔を見ていたのに、五樹は何を見ていたのだろう。

 理想の表情だけを描いて、彼女の本心を考えようとせず。

 何が、外面を捉えるのが優秀だ。何が目が良いだ。外側だけを見て、中身を知った気になって。

「全部めちゃくちゃだ、何なんだよ」

 開いたバッグの口から、事件記録手帳が滑り落ちる。反動で、幾度も見て折れた跡のついたページが開かれた。


方垣律生かたがきりつき

 人間の顔を骨の形状から肉付きまで作り変える、【肉を捏ねる】才能を扱う。顔面に強い衝撃を受けた際は、顔が割れて元に戻るという。

 ゲームを通して知り合った被害者と会い、誘拐。一週間、貸倉庫に閉じ込めるなどして被害者を監禁していたが、口論の末に殺害。

 遺体の顔を自身の顔に作り替え、自身は被害者の顔を奪う。その後遺体は方垣自身の身分証明書などと共に山に遺棄した。

 一年後、山の清掃ボランティアが服を着た状態で白骨化した遺体を発見。

 持ち物から当時行方不明とされていた方垣律生の遺体であると判断されるが、DNA型は一致せず。

 警察が調査を進める中で、遺体発見の報道を見た容疑者が「自分が方垣律生だ」と出頭。被害者を殺害し成り代わったと証言した。

「彼の生活が羨ましくて、少しの間彼として生活したかった。口論になって殺害してしまい、怖くなって自分の死を偽装した。顔の交換後は、血液型の違い等でバレないよう、病院などには行かなかった」と離す。

 事件の残虐性に対し、容疑者に更生の余地があるとされて、無期懲役判決となる。

 出頭に関しては「遺体が見つかった時、逃げられないぞと言われてる気分になって出頭した」と語った。


 父の死後、何度も見たページ。他でも無い猪戸コウを殺した脱獄囚だ。

 こいつのページを見るたび憎悪に駆り立てられる。確かに五樹は、父を殺したこいつを恨んでいる。

 人を殺した人間は殺されても文句は言えない。

 脱獄囚を殺すことは正しい。そう思っていた。

──けれどその考えは、伊依の言う通り身勝手なのだろうか。

「俺の才能って、なんなんだよ」

 鈍痛のする頭を抱えて、思考から逃げるように、五樹は蹲って声を殺し泣いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る