第三十三話
喰らって直ぐに立ち上がったのか、五樹の身体は兎の穴を落ちるように、果てない暗闇へ落ちていく。やがてぽすんと、鉛の匂いのする粉の山に落ちて、五樹は周囲を見渡した。
虚構生物の腹の中は二畳程度の広さで、けれど外見からすればだいぶ広く思える。壁の質感はごわごわとした、紙の裏地に似ていた。灯りはなく、暗い小さな部屋のような。
そして五樹の向かいに、伊依は体育座りに頭を埋めて居た。水色のポンデリングヘアにチェリーピンクの瞳。白いベレー帽にハイネックパーカーを着て、黒い厚底靴を鉛の粉で汚した、愛らしい少女。
「伊依」
人が落ちてきてなお気づいていなかったらしい伊依に声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせてから顔をもたげ、驚愕に目を見開いて五樹を舐めるように見る。
「なんで、ここに」
「スマホに位置情報入れたでしょ? それがここ示してたから、きちゃった」
「普通、お腹の中まで来る?」
苦笑混じりに言う彼女に、「それな」と五樹も笑い返して。一畳ずつ、体育座りした足の側面を合わせるようにして座る。
気まずくて、五樹からは何も言えなかった。家出沙汰の大喧嘩をした後だ。五分すれば加賀美が腹を裂いて助け出してくれるけれど、それまでの時間が長く感じる。
「私、五樹にたくさん嘘ついてた」
「嘘?」
「うん。前に廃墟で会ったとき、実は自分であそこに行ったの。それでね、斑鳩って人に私の才能のこととか全部話したの。そしたら、『貴方の才能は、私の才能を上回る実力を持っています。私では貴方には叶いません』って言われた」
「そうなんだ、すごいね」
「それでね、協力しないかって言われたの。でも私、考えますって答えたんだ。今日もね、最初は協力しようと思って虚構生物を呼んで合流したの。でも私がまた大解放を起こしたら、人が死ぬんだなぁって思って。自分が死にたくなっちゃって、今ここに居るんだ」
伊依はふにゃりと笑うと、黒い腹の壁に触れた
「こうして真っ暗なとこにいると、思い出すね」
ぽつりと伊依が言う。
「なにを?」
「私がお父さんの車の鍵を盗んで、車の後部座席に二人で隠れたこと」
「嗚呼、あれか」
七歳のとき。秘密基地が欲しくて勝手に伊従の家の車に入った。家族用の車は快適で、お菓子を持ち込んでゲームをして遊んだ。中から施錠をしてしまって、外に出る方法が分からず二人で泣き喚いたのを覚えている。
思い出し笑いをすると、膝を伝って伊依も笑いを堪えている振動が伝わる。
「ねぇ、五樹。ごめんね、怒鳴ったりして。酷い事もたくさん言った。あの時の私、最低だった。本当にごめん。ごめんなさい」
小声を震わせて彼女が小さく頭を下げる。五樹もつられて頭を下げた。
「いいよ。いや、俺もごめん──ごめんなさい。すぐカッとなったりして、子供だった」
「大丈夫。探しにきてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「伊依、言ってたよな。復讐なんて頼んでないって。恨んでなかったの?脱獄囚のことも、フリークスのことも」
問えば彼女は弱々しく首を振り、懐かしむように遠い目をする。
「ううん、最初はものすごく恨んでたよ。お父さんとお母さんを返してって──でも、五樹のおかげなんだよ」
「俺の?」
「うん。五樹のせいで笑ってた。泣きたくても苦しくても笑ってた。どんなに辛いときでも、五樹が笑顔にさせてくれてたの。だから私は、復讐なんて考えなかった。苦しかったけど、五樹の才能は私の心の支えでもあったんだよ」
彼女は星のように明るくはにかんだ。その言葉がぽうっと火を灯したように、五樹の心を温める。
彼女を苦しめただけじゃなかった。心の支えにもなれていた。どちらの割合が大きいかはわからないけれど、その事実だけで才能を得てよかったと思えた。
「あはは、これじゃあ駄目かな。親の仇を見逃すようなこと言って」
「ううん、きっと駄目なんかじゃない。正解なんてないんだ、きっと。間違えるのが当たり前なんだ。間違えて、間違いを認めて、それからどうやって生きていくのかが大事なんだ」
沢山の人間を見てた。自分を正しいと信じて疑わない五樹。自分の間違いを責める人。間違いに囚われて前に進めない人。間違いを自覚してそのまま歩む人。変わろうと努力してまた迷う人。間違いに気づいて変わろうとした人。
全部違っていた。きっとどれが正しいなんて正解は無い。
「どういう道を選ぶかなんだよ。変わろうと思えば、人は変われるから」
五樹は、変わりたい。けれど人の為という考えは、きっと一生捨てられない。
伊依の為の復讐は間違っていたけれど、誰かの為に行動すること自体は、きっと間違えていないから。
コウは羽深たちに言った。人助けをしろと。彼らはそれを、罪を償えという意味で受け取ったらしい。、
けれど、きっとコウの本意は違う。それだけは断言できる。
人助けという行動自体を嫌いになってほしくなかったのだろう。誰かのために身を削る行為を強制された三人が、誰かのために動くことを嫌わないように。
人助けをして、感謝を貰う。感謝されて喜ぶ感情を、知ってほしかったのだろう。
──けれど彼らは依頼が終わればいつも、幻で姿を消してしまう。きっとまだ、感謝を貰っていない。だから五樹が送らなければ。
「間違いを認めて、変わろうとする。そっか、そんな簡単なことだったんだ。気づかなかったや」
噛みしめるように呟いて、彼女はその両手を五樹へ差し出した。握手かと思って、それに答えようとして、彼女の手を見る。
「ごめん、五樹。私、多分もう長くないや」
「い、より」
彼女の両手は黒くなっていた。
まるで鉛筆の芯のように、光沢のある鈍い黒だ。腹の中が暗くて見えていなかった。よく見れば彼女の靴下の下に見える足も、パーカーで悪れた首元も。彼女の首より下を侵食するように、その身体が鉛になっている。彼女か蹲っていたのは、それを隠すためなのか。
はっと、自分が踏みつけにしている鉛の粉の山を見る。これは全て、人であった残骸か。消化器官の代わりのように、徐々に人の身体を鉛にして、最期は粉々になって終わる。
それが希死念慮に抱かれた人間の末路。
「今気づいたよ。やっぱり私、死にたくなかったんだ。家に帰ってご飯をたべて、暖かい布団に包まって。そういう生活がしたいだけ。仲間が作った歌を楽しく歌っていられたら、私は幸せだったんだ」
「いより?」
「死にたいんじゃないんだ。あまりにも苦しくて寂しいから、心が死にたいって勘違いしてただけだったんだ──幸せになりたい。それだけだった。でも、気づくのが遅すぎたや」
──周りが変わろうと努力しても、本人にその意思が無ければ意味が無い。
羽深に吐いた言葉が鋭利な刃物のように、五樹の心臓に深く刺さる。
五樹が変わっても、伊依にその意思が無ければ意味がない。
その意思が芽生えても、手遅れなことがある。
「今すぐ治療すれば、きっと」
「ううん、もういいの」
彼女の腕を強く掴むと、僅かにぱらぱらと粉が落ちて、五樹は咄嗟に手を離す。触れれば彼女の身体が崩れると理解するには充分で。
弱々しく首を振った伊依が、希望に満ちた目を瞬かせて五樹の顔を窺う。
「ねぇ五樹。私、歌ってもいいかな?」
悪戯っぽく言う彼女に、「歌う?」と問い返す。
「私と同じ思いの人も、きっとたくさんいるんだ。だから私は、その人たちのために歌いたい。その人達が、気がつけるように。私の声が届く全ての人を、救うために」
元より彼女に歌ってもらうつもりだった。けれどこんな、今生の別れのようだとは微塵も思っていなくて。嫌だ、と五樹は首を振る。
けれど伊依はそれを聞かず、興奮冷めやらぬ顔でそわそわと浮足立って言う。
「私、歌うのは苦しくないよ。負の感情を込めなかったんじゃない。歌ってるときは、苦しいこと何も思いつかないの」
彼女の歌からは、一切の負の感情を感じない。伝達してしまうから、込めていないのだと思っていた。
けれど違う。彼女は歌うのが心底楽しいのだ。
「あはは、なんで五樹が泣いてるの? 私が泣くならまだしも」
言われて、自身の頬を撫でる。今更気づいた。五樹は涙を流していた。
自覚した瞬間にそれは勢いよく溢れ出し、ぼたぼたと膝に垂れて濡らす。荒々しく服の袖で拭うと、つんと服から鉛の匂いがした。
伊依はけらけらと楽しそうに笑い膝立ちになると。
「五樹、よく見て。あたしは今どこにいる?」
五樹の頬を挟んで、彼女の方へ無理矢理向かせる。鉛化は伊依の首から這うように侵食して、ついには彼女の耳元まで黒く変色していた。
「どこって、ここに」
「そう、ここにいる。貴方の目の前にいる。だからどうか後ろを向かないで。私は貴方に復讐なんて望んでない。だからどうか、私の亡霊に囚われないで。未来のことだけ考えて」
まるで遺言だ。
嫌だ、死んでほしくなんてない。一人になりたくない。
「悲しまないでってことじゃないよ? 忘れられるのは嫌だから」
寂しそうに笑って頬を掻く。鉛の指で触れた頬が黒く汚れてしまっていた。
彼女は死ぬのだ。突きつけられて、涙が溢れて嗚咽を漏らす。死んでほしくない。けれどそう言ったところで何か変わるのか。
どうすれば良いかわからない、五樹はどうするのが正しいのか──違う。
──これは、理論なんかじゃ決まらない。
五樹はどうしたい、伊依はどうしたい。
彼女は、歌いたいと言っている。心底楽しそうに、無邪気に。
彼女が歌いたいと、願うなら──
「折角なら、もっと、沢山の人に聞いてもらおうよ。スマホ、出して」
不格好な涙声で鼻をすすりながら言うと、彼女は少し驚いた顔をしながら、胸ポケットからスマホを取り出す。
「全世界に、配信しちゃおうぜ」
言葉の意図がわかったのか、彼女は幼心溢れる悪戯な笑みで、「LINALIAのアカウント、勝手に使ったら怒られちゃうね」と、全く悪びれずに言って、スマホを五樹へ手渡す。
そこには有名動画投稿サイトの、LINALIAの公式ページがあって。黒背景に文字も無い、『歌います』という配信タイトルだけが書かれた画面がある。
赤いボタンを押せば配信が始まる。これまでずっと活動のルールを守ってきたのに、これが最初で最期のルール違反。きっと怒られるけれど、そこまでが悪戯の醍醐味だ。
同時に五樹は自分のスマホで加賀美に通話をかける。繋がって、けれど相手はミュートに気づいていないのか、無言のままの通話だ。
「私、歌えるよ。今ね、不思議と何も怖くないの。ずっと不安だった将来のことも、未来のことも、何も考えないでいいからかな。綺麗事じゃなく、誰かを元気づけるために、そして自分が楽しむために、歌うんだ。だから、私に任せてよ」
二つに結った髪を揺らし、上目遣いで五樹を見る。頼もしいなと思って、これが彼女を見る最期の瞬間になると思い、目に焼き付けるように見つめ続けた。
彼女の声を遮らないように、勢いよく鼻をすすって涙を拭って。
「伊依、歌っていいよ」
「うん。皆が──五樹が笑顔になれるように、おまじないかけてあげる」
配信開始ボタンを、押す。
『靴紐の結び方も電車の乗り方も 知らなかったはずなのに 世界が冷たくなったんじゃない 冷たい大人になっただけだ』
声を押し殺す。低音の柔らかなアカペラの声が、子守唄のように耳に入る。
彼女の感情が伝わる。歌うのが楽しい。
『待って待って繰り返して なんでなんでこんな結果 だってだって知らないんだ この先ことも』
バンドチックじゃない。まるでオルゴールのようにローテンポで、彼女は歌う。ビブラートじゃない、泣いているんだ。命を、別れを惜しむように。
彼女の感情が伝わる。不安の雲を振り払って、舞い踊りたい喜び。
『世界が終わる瞬間まで 枯れた声で自由を繰り返し叫ぶ 私はここだって答えてって泣いて 変わりもしない今日を歌うんだ 優しい夢を見ていたかった 大人になんてなりたくなかった それでもまた明日、なんて』
あと一節。彼女は歌わない。嗚咽が配信に乗らないように、強く唇を噛んで瞑目して。
けれど五樹は、鉛で汚れた頬の涙を拭って、優しくその瞳を開いてやった。
『嘘で割って終わって仕舞ってよ』
泣きじゃくる声を堪えた歌詞は、音程も不揃いの涙声で。
呟いて、五樹の手にそっと触れて。
彼女の身体も洋服も、砂のお城のようにぼろぼろと崩れて。
ぼとりと、白いベレー帽だけが黒く汚れながら、鉛の粉の山におちる。
──彼女の感情が伝わる。遊び疲れて眠る子供の、楽しかったという満足感。次は何をしようか、待ちきれない期待。
それを見届けて、五樹は通話と配信を切って。
残されたベレー帽と彼女のスマホを抱き抱え、声を殺すように膝に顔を押し付けた。
「う、ぅぐ、っ、ぅぁ」
抑えきれない声が漏れる。
伊依の正の感情が消えて、とめどない不安が押し寄せる。
明日からはどうやって生きようか。洗濯物も料理も一人分になるから、生活は少し楽になる。でも家に帰っても、ただいまもお帰りも無い。寂しい、辛い。
駄目だ、今はまだ泣いてはいけない。やることがあるから。
「任せて、俺、ちゃんと生きるから。お前がこんなにも、元気づけてくれたんだから」
涙を飲み込んで、鉛の山へ笑いかける。
ふっと、全身の力が抜けた。
前を向けるのに、心の何処かはぽっかりと穴があいたような。
誰も不幸にならない、幸せな結末は存在しない。
──今回はその不幸が、五樹と伊依だっただけで。
「つらいなぁ」
産まれて初めて、将来が不安になって。ベレー帽とスマホを抱えて、
逃げるように、蹲った。
「五樹ッ!」
誰かの呼ぶ声がして。真っ暗な空間の上部に一文字の切れ込みと、ナイフの刃先が見えた直後。
五樹の身体は、明るい世界へ引きずり出された。
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