第十三話
香椎は歪んだ泣き笑いを浮かべる。涙でぐちゃぐちゃの顔を腕で乱暴に拭うと、パジャマのポケットから、イヤホンを巻いたスマホを取り出す。
どうやら彼女はスマホを所持してここへ来たらしい。管理局はきっと、消失事件被害者の行方を探すために、現在位置を探るだろう。この場所が割れるのは時間の問題だったのかもしれない。
「音楽、好きなの?」
いつの間にか顔を上げていた伊依が、体育座りのまま香椎を見つめていた。さすがの彼女も気が滅入っているのか、普段よりも力ない笑顔をしている。
「うん。聴いてると、落ち着くから」
「そうなんだ。イチ吉ちゃんはどんな音楽が好き?」
「バラードとか、ロック系のJPOPかな。グループだとLINALIAとか、あとは──」
「LINALIA?!」
座っていた椅子から、勢いよく伊依が飛び降りる。がたりと大きな音と共に椅子は倒れ、驚愕の表情で加賀美が振り向く。香椎は驚きのあまり目を瞬かせながら頷いた。
「う、うん。『レコードランド』とか『コントレイル』とか好き」
「そうなんだ」
伊依は相好を崩して香椎に歩み寄ると、彼女の側に椅子を寄せて座る。五樹はその様子を微笑ましく、同時に重く沈んだ空気を晴らしてくれた伊依に感謝しながら見ていた。
彼女はLINALIAの歌唱担当なのだから、直接褒められて心底嬉しいのだろう。
「曲を聴いてる間は、死にたいって思わないの。だから充電がある限り聴いては充電してを、ずっと繰り返してる」
香椎が音楽を流し始める。大音量のその曲は、LINALIAの最新曲である『レコードランド』。
アップテンポなベースのスラップ。四つ打つドラムとメロディアスなクラシックギターが加わった重厚感のあるバンドサウンドで始まる。
伊依は軽く足踏みしてリズムを刻みながら、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、イチ吉ちゃんが元気になれるように、おまじないかけてあげる」
「え?」
「〈──靴紐の結び方も、電車の乗り方も、知らなかったはずなのに〉」
抑えめのAメロ。元音源に被せるようにして、力強く伊依が歌い始める。狭い部屋に響く凛とした声、淀みのない耳心地の良い低音。安定感のあるベースの下支えのもと、伊依は段々と声量をあげていく。
「〈──待って待って繰り返して、なんでなんでこんな結果。だってだって知らないんだ、この先ことも〉」
Bメロ。駆け上がるように打つスネアと、時折泣いたようにしゃくる声。段々とムードを高めるクラップ。
一瞬、音楽が止む。
「〈──世界が終わる瞬間まで、枯れた声で自由を繰り返し叫ぶ〉」
静寂から始まった、ぶつけるようなサビ。疾走感のあるピアノのメロディと掻き鳴らすギターが弾ける。透き通ったミックスボイスの高音、悲しげに震わせる美しいビブラート。
──伊依の感情が流れてくる。
曇天を払うような、闇雲に走り抜ける爽快感。視界を塞ぐ暗闇も、苦しさや胸の痛みも。全て無視してただ叫ぶように歌っていられる喜びが心を満たす。
ぶわりと総毛だって、五樹は思わず「嗚呼」と乾いた嗚咽を漏らす。他を黙らす圧巻の歌声、言葉すら出なくなる絶唱に、香椎が口を開けて伊依を見ていた。
「っと、ご清聴ありがと!」
歌い終わって、伊依が満面の笑みね頭を下げる。香椎は何も言わずただ拍手をしていた。加賀美もぱちぱちと、感嘆した様子で軽い拍手をする。
「五樹、ここは私に任せて」
香椎が絶句している中、伊依が五樹へ笑いかける。
「え、いいの?」
余韻に飲まれていた五樹がハッとして見ると、彼女はこれまで見たことがないほど楽しそうな表情をしていた。
「うん。だって私、五樹みたいに体も強くないし、加賀美さんみたいに怖くないから。足手まといになることはしたくないんだ」
「あら、アタシのこと怖いって思ってたの?」
「ごめんなさい、ちょっとだけ。でもさっきは、目隠ししてくれてありがとう」
「良いわよ、許してあげる。どういたしまして」
「じゃ、五樹は早く問題を解決してきて。イツ吉ちゃんのことは私が見守ってるから」
言いながら、伊依は自身のスマホを取り出して、次の曲のカラオケ音源を探し始める──彼女もスマホは所持していたらしい。
「伊依はすごいな」
「全然すごくなんてないよ。歌うことしかできないからさ。これで幸せになってくれるなら、私は歌っていたいだけ」
その考え方ができるのが、既にすごいというのに。自身を謙遜せず常に誰かのためにと動く姿が、まるで向日葵のように輝いて見える。
「最上階の天文台にいけば、おねーさんが居るはずだよ。遺書を渡せば話してくれると思う──それから先は、わからないけど」
香椎の言葉に、五樹は机の上に広がった遺書を見た。香椎の話を聞きながら書いたそれには、稚拙な文章で取ってつけたような自殺願望が書いてある。
自身の中に無い希死念慮を文字にするのは難しかった。香椎の言葉が本当であれば、斑鳩はこれを嘘だと見抜くのだろう。
どうせ話し合いでの解決は不可能なのだと、それを三つ折りにしながら、ふと香椎を見る。そういえば彼女は涙で濡れたままの薄着で居た。この悪環境では風邪を引きかねない。
「香椎、その格好だと寒いだろうし、これ着てて。気遣い遅くてごめん」
パーカーを脱いでその肩に軽くかけてやる。服を一枚脱いで気づいたけれど、ほぼ吹き抜けの室内はだいぶ肌寒い。
「じゃあ、もう一曲!───」
伊依の高まった声を背に、五樹と加賀美は部屋を後にした。
「加賀美さん。消す、ってのも自己表現なの?」
「白抜きっていう、消す技法はあるわよ。絵にハイライトを入れるのに使うの。例えば鉄の球体を鉛筆で描くとして、球体には蛍光灯とかの光が当たってるでしょ? その光を消しゴムで消すことで表現するの。描き込むのは足し算、消すのは引き算みたいなものよ」
そういえば五樹も、人物画で髪に光を入れる時に消しゴムを使用する。あれは白抜きというのか。
「でも、あの子の場合は、白抜きとはちょっと違うような気もするわね。こういうのに詳しい弥に聞いてみないとわからないわ」
「そういえば、哀川さんとは連絡とれた?」
「もう来てるし、アンタの横に居るわよ」
「嗚呼。話も歌も聞いていたよ」
不意に声がして振り向くと、何もない場所から霧のように哀川の姿が浮かぶ。見た限り彼は息を切らしている様子もない。話も聞いていたということは、数十分は前からここに来ていたのだろう。
「いくらなんでも早すぎない? 韋駄天かよ」
「朝霧駅と花杜駅は電車で直ぐだし、徒歩は根性で乗り越えたよ。僕って意外と体力あるんだね。それにどうやら君が見破れるのは、容姿に関する幻だけらしい。姿を消したら訳ないね」
「ほんとにすごいね、その力」
「けれど万能ではないよ。あくまでも幻、視覚的な要素を書き換えるだけだ。音や匂いは消せないからね。耳が良ければ足音で、鼻が良ければ柔軟剤の匂いでバレる」
確かに足音が聞こえれば、静かな空間では不思議に思うだろう。先程の部屋で足音は聞こえなかった──否、香椎の話と伊依の歌に集中していて気づかなかったのか。
「そういえば俺、加賀美さんなら、『若いんだから元気だせ!』って香椎に言うと思ってたや」
「景は無神経に見えて、意外と人の気持ちを汲める人間だよ」
「無神経と意外は余計よ。アタシだってそりゃ気ぃ使ったりするわよ。生きてれば辛いことはたくさんあるなんて、苦難を乗り越えた大人だから言えるの。子供にはまだわからないのよ。目の前にある壁が人生最大の壁で、未来なんて見えないの。無責任に大丈夫って言われても、はいそうですかなんて言えるわけがない」
かつかつと階段を登る。加賀美が呟くように言った諦観めいた言葉に、五樹は口を噤んだ。
「悩んでる子達はもちろん助けてあげたいわよ。でも、外野が口を挟むべきじゃないときもある。子供の問題は子供が寄り添ってあげることでしか、消化されない時もあるから。アタシは何にも口を出さないわ」
「斑鳩かがりを止めたところで、人の悩みが消える訳ではないからね。やるせない話だよ、全く」
溜息混じりに哀川が言う。加賀美はよく考えた上で閉口を選んだ。伊依は香椎のために歌を歌った。
五樹は、彼女のために何ができただろうか。正しい言葉をかけることも、心の闇を晴らすこともできなかった。
──嗚呼、五樹の才能で、笑わせることができたのかもしれないのか。自分の才能に対する自覚が無く、咄嗟に使うという考えに至れなかった。
だがそれも全て、伊依は当然のようにやってのけた。似たような才能を手に入れても、伊依には遠く及ばない。
「伊依はすごいな、やっぱ」
「嗚呼そういえば、伊依って子のこと置いてきてよかったの?」
「大丈夫だと思うよ。伊依の歌なら、きっと香椎のことも引き止められる」
少なくとも香椎が伊依に夢中になっている間は、妙な気を起こすことも無いだろう。憎悪と喪失感に飲まれての自殺行為であれば、伊依の歌で喜びを伝達していれば、完全にでないが抑えられる。
「そ。アンタが言うなら大丈夫なのかしらね──とりあえず、これからはどうするの?」
「あ、俺に一つ提案が──前提として、殴り合いに発展する考えならあるんだけど」
「自殺教唆と遺体の放置してる女に、話し合いが通じるとは端から思ってないわ。言ってみなさい」
「じゃ、説明するね。まず哀川さんの幻で──」
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