第二章 少年少女塵芥

第七話

 翌日。花曇りの空は薄く白み、昨夜の肌寒さを引きずった風が、時折びゅうと強く吹く。

 通りがけに大通りの桜を見てみれば、その多くが葉桜になり始めており、既に散った花弁が風に吹かれて、並木の根本で小さな山を作っていた。

 昨日の桜花爛漫はやはり哀川の幻だったらしい。良いものを見たなと小さな幸福感を噛み締めながら、風から逃げるように上着のファスナーを閉めて、足早に創生塾へ駆け込んだ。

 消失事件で塾を閉めているせいか、塾内は受付と自習室のみの点灯で、普段より薄暗いが、人気はそこそこあった。ここは防音室もあるため、伊依のような音楽関係の人には良い練習環境なのだろう。

 酒葉は居るだろうかと、僅かに開いた戸口から絵画自習室を覗き込むと、そこでは彼ではない人がホウキで床を掃いていた。黒髪短髪と、どこか見慣れた横顔。

「あ、梶谷かじやさんじゃん!」

 勢いよく扉を開け放つ。その音に驚いた梶谷が小さく跳ねたのを見て、少し罪悪感が湧いた。

「嗚呼、君か」と振り返った梶谷は、ホウキの柄を握ってぎこちなく笑みを浮かべた。

 彼は元々父の部下だった人だ。夜警に所属していた訳では無く、諸雑務でコウの補佐を行っていたらしい。過去に数回五樹の家へ来たこともあり、五樹とはそこそこ面識がある。

 コウが死んだ際も、彼は酒葉と共に家へ来た。

「なんでここに? 酒葉さんは?」

 一般事務を行う酒葉に対して梶谷は、才能犯罪者の直接の対応が主な仕事と聞いたことがある。だからコウの死後も、数度しか顔を合わせた記憶はない。

「諸事情で、来られないらしくてな。一瞬で良いからと頼まれて、代理で来た」

「そうなんだ。でもなんで掃除してんの?」

「なんとなくだ。手持ち無沙汰だったからな」

 彼はそう言うと塵取りに集めたホコリを捨てて、部屋の隅の水道で手を洗う。掃除用具を片すその背を見ながら、五樹は少し暗い気持ちになった。

 大解放の前、彼はもっとよく笑う明るい性格だった。丁寧で真面目なのは変わりないが、コウの死後からは人が変わったように、感情の起伏のない静かな人になってしまった。彼を見ていると、あの日から現実は変わったのだと心が苦しくなる。

「絵を見れば良いのか?」

 ハンカチで手を拭きながらこちらを見た梶谷に、五樹は笑って頷くと、近くの椅子を引いて腰掛ける。

 彼に五樹の才能を使ったら、笑顔にしてあげられるのだろうか。だが思えば、才能の使い方がわからない。後で哀川に聞いてみよう。

 五樹はクロッキー帳を取り出すと、酒葉に出された課題のページを開いて机に広げる。昨日描いた哀川と、ここへ来る際に声をかけた、ランニング中の男性と散歩中のおじいさん。

 哀川の際の反省を生かして、骨格だけでなく顔のパーツの位置を意識して形を取った。目や鼻を分けて考えるのではなく、全体のバランスを意識しつつ、それぞれ大きさを比較して調整できたと思う。

「この人たちは、君の知り合いか?」

「違うよ。見知らぬ人に声かけて描け、って課題で描いてきたの」

「そうか──よく描けていると思う。年齢の幅を、顔の彫りの深さやシワで描き分けられているな。だがそもそも、描く対象の性別の偏りはよくない。女性は街頭の声掛けを拒否することが多いから話しかけづらいと思うが──」

 梶谷が一枚ページを戻る。彼は開かれたものを見ると、息を呑んでこちらを見た。

「これは?」

有浦伊依ありうらいより。俺の幼馴染だよ」

 そこに見開きで描かれたのは、様々な角度から描かれた伊依の姿。通常、クロッキー帳はページの片方のみに絵を描くもの。何故なら裏面にまで絵を描くと、絵同士が擦れて黒くなってしまうから。

 けれど五樹は練習できれば良いと思っており、乱雑にページを開いては絵を描く悪癖がある。最初のページに描いたと思いきや、次は数十ページ先に描いてあったり。

 直すべき癖とは思っているけれど、一日前に描いた絵を見ながら新しい絵を描くというのがむず痒い。今見ている絵も半年前の物だ。

「笑顔ばかりだな」

 言われて少し恥ずかしさを覚える。こうやって見返して見ると、確かに伊依の顔は笑顔しばかりだ。

 鍋を焦がして駄目にした苦笑い。恋愛映画を見て枕に顔を埋めて恥ずかしがる笑顔。そしていつも通りの笑顔。

 鉛筆の黒が擦れて見づらいけれど、時間をかけて描いたのか、どれも筆跡が濃いのがわかる。

「彼女の笑顔が好きなんだな、とても輝いて見える」

「伊依には笑顔が似合うからさ。だからずっと笑っててほしくて」

 思えば人を描き始めた時に、頻繁に練習したのも伊依の笑顔だった。すぐ側に居るから、練習相手として最適なのだろう。

「そうか、それは良いな。女性も描けているのなら心配はなさそうだ」

「そっか。そういえば梶谷さんって、どんな絵描く人だっけ?」

「いや、絵は描かない。知識はあるが、才能の起点は詩文だ」

「そうだっけ」

「すまない。お前も本当は、絵画専攻の人間に見てもらいたいだろうが、消失事件の調査が慌ただしくてな。出払っている者が多いんだ」

「消失事件って、やっぱ大変なんだ」

「嗚呼。俺がここに寄ったのも、その関係だ」

 へぇ、と相槌を打つ。五樹にとっては近くの高校で起きた学級崩壊ぐらいの認識だ。脱獄囚とは関わりの無い事件だから、あまり気には留めていない。

 脱獄囚に消失の才能を扱う者は居ない──だからといって犯罪は見過ごせないが、五樹が何かできる問題ではない。管理局の仕事は管理局に任せるのが正しい。

「五樹は今日も自習をしていくのか? 仕事があるから側についてはやれないのだが」

 これから花杜駅で加賀美と待ち合わせしている。アトリエテラスに行く道案内のためだ。ふと壁掛け時計を見上げる。現在時刻は十五時過ぎ。待ち合わせの時間まであと三十分程度しかない。

 朝は掃除や洗濯に手一杯だったから、一日がやけに早く感じる。慌ててクロッキー帳を鞄に仕舞って立ち上がる。

「いや、今日はもう帰るよ」

「そうか──その、少し時間良いか」

 五樹が首を傾げると、梶谷は部屋の隅に置かれた資源ゴミの紙袋から古紙を一枚取り、その裏に胸元に差したボールペンで何かを描く。

「俺の描く絵はこのぐらいだ」

 彼が掲げたその絵は小さくて、五樹は思わず目を凝らしながら近づいた。

 それは子供がクレヨンで描くような棒の身体と、顔面をぐしゃぐしゃと執拗に塗りつぶしてある棒人間の絵だった。これも何かの絵画ジャンルの一つなのだろうか。五樹には理解ができなくて頭を捻る。

「すご、なんか不気味な世界観だね」

「笑わないのか」

「え、だってこれもアートの一種でしょ?」

「いや、絵が下手なだけだ」

 彼の言葉に思わず吹き出してしまい、手の甲で口を拭う。

「なんだよそれ、自分で言う?」

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