35. 耳鳴り
しばらく会社を休むことを連絡した。おそらく近いうちに辞めることになる。浅見さんから連絡がきた。お見舞いに行くと言われたけれど、断った。
「いつか容体が安定したら連絡します」
その「いつか」が来る保証はなかった。
胎盤の
両親が面会に来た。
ベッドに横たわる弓花の身体を見て、息を詰まらせていた。かわいそうに、と言った。白々しいと僕は思った。一緒に帰るように誘われたけれど、僕は病院に残ることにした。
弓花と向き合って僕は昔の話をした。今まで話してこなかったことを話した。
池に落とされた体操着袋は、家族に気がつかれないように風呂場で洗った。僕は嫌いな人間からは距離を取るようにしていた。逃げることは、手っ取り早く生きやすくさせてくれる。そんな会話も結局、弓花との空白を埋めることはできなかった。話してますます虚しい気分になった。
ノックの音が聞こえた。
佐月先生だった。歩いてくると僕のすぐ隣に立った。
「申し訳ない」
何に謝っているんだろうと不思議に思った。
「良いんです」
誰かと話す気分ではなかった。僕は弓花と話したかった。
佐月先生は彼女の病状についてポツポツと話していた。容態が安定しない。後遺症が残るかもしれない。
「夢の話なんですけど」
僕は佐月先生の言葉を
「もう見なくなりました」
多分、願望が無くなったからだと思いますと僕は言った。僕はいろいろなものを諦めるようになった。
一度、家に帰った方が良い、佐月先生は言った。
僕はその言葉通りにして病院を出た。タクシーで送ると言われたが、断った。誰とも話したくなかった。
途中で帰ることに疲れた。弓花のいない家に帰って、意味があるとは思えなかった。通りかかった公園で寝ることにした。ちょうど良いベンチがあったので、そこで身体を横たえた。
弓花が倒れてから、ずっと同じスーツを着ていた。ベットリと湿って、身体に張り付いたみたいだった。身体に
深夜過ぎに大学生くらいの集団がやってきて、近くで酒を飲み始めた。合コンの帰りらしい。誰かの文句を言いながら騒いでいた。
なかなか帰る様子はなかった。会話が不快でしかたなかった。他人を
眠れないのと、腹が立ったので「うるさい」と言ったら、向こうは笑い声をあげた。もう一度言うと、今度は血走った目で敵意を向けてきた。髪をつかまれて、背の高い男に腹と顔を蹴られた。殴り返すと、はがいじめにされて拳で顔を殴られた。誰かがポケットから財布を盗んでいった。
しばらく痛みで動けなかった。水が飲みたいと口を開けたら、折れた奥歯が出てきた。それでますます痛くなって、動くこともやめた。朝になって、警察の人が起こしてくれた。病院に寄ったら鼻の骨が折れていた。
盗まれた財布は見つからなかった。家まで着いて扉を開けると、キッチンの床に血が染みついていた。弓花の血だ。もう乾いてしまっている。
血で汚れた服のまま僕はベッドに寝転んだ。窓際に置いてあったポインセチアは枯れて、葉もすっかり落ちていた。何度かインターホンが鳴った。反応しないでいたら鳴らなくなった。
ひとりになりたかった。耳の奥で鳴る
ついこの間まで部屋を包んでいたレモンの香りは、すっかり消えていた。代わりに、胸糞悪い匂いが部屋に充満していた。
多分、冷蔵庫で腐ったハラミの匂いだ。僕はそのまま寝ることにした。
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