16. 呼吸


 タオルを持って脱衣所に入る。

 弓花は下着を外しているところだった。浴槽はあまり広くない。お湯を入れたことは一度もなかった。僕も弓花もいつもシャワーで済ませている。


「カーくん。今日は楽しかった?」


 頭から水を浴びながら、弓花は言った。


「楽しかったよ」


「どの辺が?」


「浅草、行ったの。久しぶりだったから」


「そうなんだ」


 シャワーのホースをつかむと、弓花は不意に水を僕に向けた。


「うわ」


「冷たい?」


「冷たい。ストップ」


 弓花は熱いお湯が好きじゃない。傷跡に染みると痛くなってしまう。それにしたって冷たい。


 水をき取って目を開けると、浴室の蛍光灯に照らされた弓花の身体が、いつもより一層白く見えた。僕を見上げる彼女の瞳は、大きく開いていた。


「カーくん。あまり言わないから」


 裸の彼女は、何も隠さず僕のことを見ていた。下半身の薄い毛の先っちょから、ポタポタと水滴が垂れていた。


「自分から行きたいところ」


「そうかな」


「うん。どこか行きたいところ。ない?」


 考えてみる。


 学生時代はいろいろなところに行った。海外旅行も何度か。旅行が趣味だと言っていた時期もあった。それが最近はすっかりなくなった。


「ない?」


「残念。思い浮かばない」


「そっか。思い浮かんだら言ってね」


「うん」


 僕が頭を洗おうとすると、弓花が手を伸ばしてきた。


「どした」


「洗ってあげる」


「いや。良いよ」


「座って。ね」


 断ろうとすると、ぺちぺちとあごを叩かれた。大人しく座ると、小さな手が忙しく動き始めた。


「どうかした。急に」


「私、いつも。お世話されてるから。お世話する」


 かしかしと頭を彼女の手が動いている。ぎこちなくて、くすぐったい。


「何か。嫌なことあったか」


 様子がおかしいので聞いてみる。弓花の手が止まった。


「ごめんね」


 申し訳なさそうに弓花は言った。


「浅見さんに。挨拶ちゃんとできくんて。変な女って思われた」


「そんなことないって」


「向こうは。すごくちゃんとしてたのに」


 弓花を見たときの浅見さんたちの表情は、困惑してるように見えた。まず顔の火傷。それから膝と杖。最後に途切れ途切れの喋り方。弓花と初対面の人は、大体同じような反応をする。


 動揺を隠して平静を取りつくろう。そう言う反応は、傍目はためで見ていると良く分かる。


「大丈夫だよ」


 弓花は僕以上に、人の表情に敏感だ。


「人はそんなに他人のこと。気にしてない」


「そうかな」


「そうそう。みんな忙しいから」


「てことは。挨拶は問題なし?」


 それは言おうか迷ったけれど、言うことにした。


「カーくんは。ちょっと恥ずかしい」


「いつも呼んでるから。可愛いし。なんて呼べば良いの?」


「普通に名前で」


「名前」


 弓花は僕の名前を言って、納得いかなそうにうなった。


「なんか変だよ」


「そっちが本当の名前なんだけどな」


「カーくんはカーくんだよ」


 ぬるいお湯で背中を流される。白い泡が排水溝に流れていく。


「あ」


 僕の正面を見て、弓花は声をあげた。


「元気になってる」


 目を合わせると、弓花は頬を赤らめていた。


「なんで」


「悪い」


「謝ることじゃないけど」


 あー、と弓花は思い出したように言った。


「そっか。すっぽんさんだ」


 クスクスと彼女は笑った。


 彼女の乳首が、つんと立っている。そこに触れようと手を伸ばす。弓花はびっくりした様子で、ぺたんとタイルの壁に背中をつけた。


「カーくん。興奮してる」


「すっぽんのせい」


「なんでもすっぽんのせいにして」


 彼女はうなずくと、静かな声でささやいた。


「良いよ。ここでしよ」


 僕の顔を抱きしめて、弓花は自分の方に引き寄せた。首筋に彼女の唇が触れた。僕は彼女の胸に手をおいて、先端をつまんでゆっくり動かした。


「それ。好き」


 息が荒くなっていく。浴室の声は反響する。ぐるりと回って耳の奥に響く。彼女がいつもより近くにいるみたいに聞こえる。


「や」


 濡れた髪が頬にかかる。弓花の髪は塗ったばかりのコンディショナーの匂いがする。いつもより敏感に反応していた。


「なんかさ。弓花、今日」


「うん」


 そうだね、と彼女は深い呼吸を吐き出した。


「すっぽんさんのせいだ」


 シャワーから出る冷たい水にさらされながら、僕たちはセックスをした。床のタイルの表面はすっかり冷えていて、水浸しだった。魚みたいだと、弓花は言った。


おかに上がったお魚みたい」


 床に張った水の上で、僕たちは子作りを始めた。立ち方を知らないみたいに跳ねて、かすかな酸素を求めるように激しく呼吸をした。

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