15. すっぽん


 弓花の風邪が治ったので、約束通りすっぽんを食べることになった。


 調べてみると、すっぽん料理の店は思っていたより値段が高かった。悩んだあげくに夕方の4時から予約した浅草の店は、ネットの評判がなかなか良かった。


「すっぽんっ。すっぽんっ」


 地下鉄銀座線の車内で、弓花は楽しそうに脚をぶらぶらさせていた。秋めいた今日は水色のロングスカートと、白のジャンパーを羽織はおっていた。


「すっぽんって。大きい声で言わないほうが良い」


「どうして?」


 不思議そうに弓花は首を傾げた。精力増加の意味があると言うと、彼女は驚いたようだった。


「そうなんだ」


「むしろ知らないで。誘ったんだ」


「うん。ただすっぽんが食べたかった。本で見たから」


 電車がホームに到着する。かび臭い地下の匂いがする。弓花は僕の手を握った。


「精力増加。どんな感じなんだろう」


「元気になる」


「ポカポカする?」


「多分」


 杖をついて歩く彼女とエレベーターまで向かう。降りた場所からちょっと遠い。転ばないように、弓花の横にくっついて歩く。休日だったので人は多かった。


 店に着くと、想像していたより高そうな店だった。のれんをくぐって中に入ると、着物をきた女の人が案内してくれた。畳敷きの個室だった。窓の外からは小さな日本庭園が見えた。


「わあ。わあ」


 弓花は緊張してコチコチに固まってしまっていた。膝が痛くなってしまうので、彼女は小さな椅子に座っている。


「高級店だ」


「すっぽんフルコース頼んだ」


「良いんかなあ。こんなぜいたく」


「たまの外食だからさ」


 冬も近いし体力つけないと、と言うと弓花はこくりとうなずいた。


「子作りするもんね」


 季節の変わり目を抜けると、弓花の体調は比較的良くなる。もう少ししたらインフルエンザの予防接種もしないといけない。


 さっきの女性がやってきて、飲み物を聞いてきたので烏龍茶を頼んだ。


「いきちはどうなされますか?」


「いきち?」


「すっぽんの血です。日本酒かりんごジュースで割って飲まれる方が多いですよ」


 理解できなかったのか、弓花は困ったように僕の膝を蹴った。


「なんて?」


「すっぽんの血を。ジュースに混ぜて飲む」


「怖い」


 僕は日本酒に、弓花はりんごジュースにした。女性が頭を下げて出ていく。


 弓花の障害は膝だけだと思われがちだ。言葉を全く理解できないわけではないので、尚更気がつかれにくい。からかっているのかと、誤解されることも多い。


 生き血がグラスに注がれて出てくる。赤黒くて生々しかった。弓花は恐る恐る手に取った。


「めっちゃ怖い」


「一気に」


「うん」


 クッと口につけて、弓花は生き血を飲み干した。 


「お」


「どう?」


「意外と普通」


 お腹がポカポカしてきたかも、と弓花は言った。日本酒割りも飲んでみたが、確かに見た目の割にはあっさりとしていた。


 そのほか、天ぷらやお吸い物を食べた。鍋のスープは生姜の風味が強くて美味しかった。隅っこにカメの甲羅こうらが乗っている。これは少し生々しい。


 弓花はすっぽんよりも、最後に出てきた果物のメロンが気に入ったらしく「食べる?」と聞くと、嬉しそうに僕の分も平らげた。


「ごちそうさまでした」


 満足そうに弓花はフォークを置いた。


 すっぽん鍋のカセットコンロの火は、幸い気にならなかったようだった。弓花はあまり火を見るのが好きではない。家でもガスコンロは使わない。 


「美味しかったねえ。ポカポカしてきた」


「そうかなあ」


「うん。元気になったよ」


 頬がほんのりと赤い。元気になった。そんな気がしないでもない。時間は6時になりそうだった。雷門でも見て帰ろうか、と誘って店から出る。


「あれ」


 ちょうど店の入り口で、見覚えのある風態が入ってきた。


「浅見さん」


 向こうもこっちに気がついた。二人連れだった。ベージュのハットをかぶっている人は奥さんだろう。驚いたように浅見さんは眉間にシワを寄せた。


「何してんだ。こんなところで」


「すっぽんを食べに」


「そりゃそうだな」


 むうっと口をとがらせた浅見さんは、弓花に視線を落とした。弓花は慌てたようにお辞儀をした。


「あの。カーくんがいつもお世話になっています」


「いえ。こちらこそ。カーくん?」


「すいません。あだ名です」


「カーくん。あー、そっか。名前、からすだからカーくんか。なるほどな」


 くっ、とおかしそうに浅見さんは笑った。

 僕も浅見さんの奥さんに挨拶をした。ハキハキとした声の人だった。仕事ができそうな雰囲気がする。


「あの人が浅見さんだ」


 浅見さんと別れた後、弓花はきゅっと眉間にシワを寄せて彼の真似をした。


「ようやく見られた」


「びびった。こんなところで会うとは思わなかった」


「あの人。怒ってた?」


「いや。いつもあんなもん。気まずそうだったけれど」


 勃たないとか、そんな話を聞いたばかりだ。単純にすっぽんが好きなだけな可能性もあるけれど。こっちだって気まずい。


「うまくいくと良いね」


 弓花は「すっぽんさんよろしく」と手を合わせた。浅見さんもすっぽんも、手を合わせられているとは思っていないだろう。


 店を出て雷門と浅草寺を見物した。

 お賽銭さいせんをやって、家内安全のお守りと雷おこしを買った。花屋敷の方をぐるっと回って、隅田川まで戻ってくると、辺りは暗くなっていた。来た時と同じ地下鉄に乗って家まで帰った。


「たくさん。お散歩した」


 弓花は靴下を脱ぐと、スルスルと包帯をほどき始めた。上機嫌そうに鼻唄を歌っている。スカートを丁寧に畳むと、弓花は脱衣所の扉を開けた。


「カーくん。一緒にお風呂。入る?」


 思い直したように振り返って、弓花は言った。

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