14. 皮膚


 定期検診を終えて何週間か経った。弓花は高い熱を出して、寝込んでしまった。


「医者は信用ならんなあ」


 僕が言うと、ベッドに横になった弓花はうっすらと笑った。


小宮山こみやまさんのマネだ」


「似てる?」


「小宮山さん。もっとムスッと言うよ」


 そう言うと、弓花はコホコホと乾いた咳を鳴らした。


 弓花の風邪は長引くことが多い。ひどい時は40度近くになる。火照った身体は、隣に座っていてもその熱さを感じる。


 弓花自身は慣れたもので、鼻水をすすりながら、借りてきた漫画をパラパラとめくっている。


「熱あるのに。頭使うの。良くないと思うんだけど」


「暇だから。風邪の日に。何にもせんのはもったいない」


「だから治らないんだよ」 


「うるさいなあ」


 弓花は膨れっ面で寝返りをうった。


「少年漫画だし。頭使わないし。ハッピーエンドで終わるから良いんだ」


「何読んでんだ」


「ダイの大冒険」


 ハッピーエンドで終わらない少年漫画もある。言おうと思ったが、不機嫌になりそうだったのでやめた。


「ほどほどにしなよ」


 本当は家で看病したかったが、有給も限られている。今日は外せない会議もあった。僕はスーツに着替えて、新しい冷えピタを彼女の枕元に置いた。


「じゃあ仕事行ってくる。レトルトの雑炊ぞうすいあるから食べてな」


「はあい。早く帰ってきてね」


「帰る時、連絡する」


「待ってる」


 弓花はベッドに寝転んだままでうなずいた。放っておくと、何日も食べない時がある。出会った頃の弓花は、僕の体重の半分くらいしかなかった。


 連休前で、仕事が立て込んでいて忙しかった。ちょうど新規の案件がまとまるかどうかのタイミング。浅見さんの眉間のシワが、どんどん深くなっていく。会社を出た時間は8時をすっかり超えてきた。


 弓花からの連絡は午前中で止まっていた。借りてきた漫画は10巻まで読み終わったらしい。


 今から帰る、と連絡してみたが既読がつかなかった。


 電話も繋がらない。


 会社から家に帰るまでの30分間。気が気でならなかった。弓花からの返信がない。寝ているだけなら良い。万が一のことが頭を過ぎる。


 帰ると部屋は真っ暗だった。リビングは家を出た時のままで、テーブルの上の雑炊もそのままだった。寝室の扉を開けて電気を点ける。


 ぐしゃぐしゃになった毛布の下に、弓花がいた。


「弓花」


 呼びかけると、彼女の身体がかすかに動いた。


「カーくん」


 弓花は蛍光灯の光にまぶしそうに目を細めた。ベッド脇に積み上がった漫画本をポンポンと叩いた。


「見て。全部読み終わったよ」


 ふふ、と誇らしげに弓花は笑った。安心すると同時に、さっきまでの焦りの気持ちが暗くよどんでいく。


「そうじゃなくて」


 気がつけば大きな声を出していた。


「どうして何も連絡しないんだよ。雑炊だって食べてないし」


「だって」


「だって、じゃなくて。心配するだろ。漫画読んでる暇があるなら、連絡くらいしてくれよ。ご飯も食べないと。辛くなるのは弓花なんだから」


 全部言い終わってから、まずいことをしたと思った。丸く見開いた瞳が、凍りついたように動かない。


「ごめん言いすぎた」


「分からん」


 震える声で、弓花は涙をこぼした。大きな涙が頬を伝ってポロポロと毛布に落ちていた。


「カーくんが。何言ってるか分からん」


 弓花は大声で泣き始めた。


「分からん」


「ごめん」


「ばか。カーくんのばかあっ」


 ぽかんと漫画本が飛んでくる。

 弓花はタオルケットで顔を隠して泣いた。


 抱き寄せて、泣きじゃくる彼女の背中をさする。ボロボロになった包帯が、タオルケットの間からのぞいていた。


 包帯を破って引っいてしまっている。皮膚が破けて真っ赤に変色している。水色のシーツが血でにじんでいた。弓花は申し訳なさそうに言った。


「ごめん。怒って。カーくん悪くないのに」


「こっちが悪いよ。痛む?」


「うん」


「包帯変えよう」


「うん」


 うなずく彼女の服を脱がして、傷痕きずあとにワセリンを塗った。薬が皮膚に触れると、弓花は痛そうに顔を歪めた。


「ごめん。泣かして」


「泣いてない」


 彼女はムキになったように言って、僕の腕を軽くつねってきた。そんな仕草は小さな子どもみたいだった。


「寝てたの?」


「寝られなかった。痛すぎて。眠剤飲んだ。飲みすぎた」


「ご飯は?」


「食べる気にならなくて」


「今から食べよう。風邪の薬も飲まなきゃ」


「雑炊、あんま好きじゃない」


「嘘つけよ。この前むしゃむしゃ食べてただろ」


「今は好きじゃない」


「風邪が治ったら。好きなもの食べて良いから」


 ワセリンを塗った傷口にガーゼをまいていく。汗だらけの額をハンカチでぬぐう。


「すっぽん」


 弓花はボソリと言った。


「すっぽん食べに行こう」


「良いけど。どうして」


「食べたことないから」


 真っ白な包帯で、彼女の細い腕をまいていく。傷跡が隠れて、弓花は安心したように息を吐いた。


「すっぽん」


「良いよ。その前に雑炊と薬」


「うん」


 素直にうなずいた弓花はよろよろと立ち上がった。僕の身体を支えにして、一緒にリビングまで歩いた。レンジで雑炊のパックを温める。

 

 ぐったりとした顔でソファにもたれる弓花に、雑炊を食べさせる。小さな口の周りについたご飯粒を、ティッシュで拭き取る。


 薬を飲むと、弓花はソファの上で静かな寝息を立て始めた。


 弓花の風邪が治ったのは1週間後だった。最近は順調に太り始めたように見えた弓花の体重は、この期間ですっかり落ちてしまっていた。


 それを言うと、弓花は自分の腕をまじまじと見て、いつもよりご飯を多めによそって食べていた。

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