13. 炎


 初めて弓花の身体を抱いた時、ひどく緊張したことを覚えている。


 腕も脚も細くて、力を入れるとポキリと折れてしまいそうだった。特に左脚は、どうやって立っているんだろうと不安になるくらいだった。


 僕が彼女の肌に触れようとすると、弓花はおびえたように身体を引いた。


「どうかした」


 僕が聞くと弓花は「何でもない」と呼吸を整えた。この時、おそらく彼女は自分が受けた暴力のことを考えていた。そのことを弓花が話してくれたのは、それからしばらく経ってからだった。


 強張った彼女の身体を抱きしめる。頭をでると、しゃくるような泣き声が聞こえた。


「大丈夫?」


 僕が聞くと弓花は無言でうなずいた。それでも泣き止まなかった。


「無理しなくて良いよ」


「やだ」


 涙まじりの、かすれた声で弓花は言った。


「今、やめられる方が。よっぽど辛い」


 僕は言葉を返すことができなかった。

 涙を流す彼女にキスをして、下着を脱がして、恐る恐る彼女の細い太ももの間に手を伸ばした。熱くなっていく弓花の身体を感じた。肌が濡れてきて、彼女の呼吸が浅くなっていった。


 かすかに反応する弓花の高い声が聞こえた。僕の背中で彼女が立てた爪が痛かった。


 最後まで終えた後、弓花は自分の身体をぼんやりと見つめていた。お腹を撫でながら、ゆっくりと呼吸をしていた。


「ねえ、カーくん」


 弓花は手を伸ばした。


「私、牛タン食べたい」


 それって今、と聞くと「今」と言ったので、僕は服を着て深夜営業のスーパーを走り回った。


「大変だった?」


 寝ぼけ眼で牛タンをかじりながら、弓花は言った。僕も一緒に食べたが、胃もたれしそうだったので2、3口でやめた。


「牛タン探すの。大変だったんじゃない」


「めちゃくちゃ大変だった」


「よく見つけられたね」


「中野まで行った。深夜に牛タン探し回る人って。なかなかいないと思うんだけど」


 僕がため息をつくと、弓花はおかしそうに笑った。


「そうだね。カーくんくらいだね」


 彼女の笑顔でホッとしたのを覚えている。ピンと張っていた糸がゆるんだような感じだった。


「ねえ。カーくん」


 歯を磨いて弓花の横に寝た。小さな布団は薄くて固かった。弓花は僕の手を握った。


「どうして。私と付き合おうと思ったの?」


「どうして。そうだなあ。好きだったから?」


「私のこと。可愛い?」


「そりゃもう」


「変なの」


 そう言いながら嬉しそうに笑った弓花は、僕の胸にクシャクシャと顔をこすりつけてきた。


「なんか運命感じちゃうね」


「運命。そうかもしれない」


 僕と弓花が出会ったのは、本当にたまたまだった。東西線で乗り合わせていなかったら、僕と弓花はこうして隣にいることもなかった。


 弓花は「でもね」と言った。


「私はたまにカーくんのこと。思い出してたよ」


「本当?」


「たまにね」


「そっか」


「カーくんは?」


 私のこと思い出したことある、と弓花は聞いてきた。彼女はまっすぐに僕のことを見つめていた。


「たまにね」 


 うなずくと彼女はまた嬉しそうに微笑んだ。


 それはほとんど嘘みたいなものだった。僕は弓花のことを本当に思い出したことはなかった。彼女の病状について、僕は噂でしか知らなかった。


 僕にとって弓花は、アルバムに挟まった古い写真のように、どこか遠い世界のものになっていた。


 弓花が苦しんでいた時に、僕は何をしていただろう。誇れるようなことは何もなかった。


 そして、その日僕は弓花の夢を見た。


 火事の夢だ。

 実際にあったこととは違って、燃えているのは彼女のアパートではなく、古い小屋だった。それは僕の実家にあった物置に似ていた。


 裏庭にあったそれは木造で、電気も通っていない。昔は農具を入れるのに使っていた。祖父母が亡くなってからは、物置は廃墟になっていた。


 赤とオレンジの炎がゆらゆらと動く。

 音はない。けれど、近くに行くと信じられないくらい熱い。


 弓花の身体を焼いているのは、そんな炎だ。

 姿は見えないけれど、彼女が炎の中にいることを夢の中の僕は知っている。


 想像を絶する痛みが、弓花を襲っているのが分かる。朦朧もうろうとする意識の中で、いつくばりながら手を伸ばしている。

 ひゅうひゅうと声にならない叫びが、弓花の喉を通り抜ける。それなのに僕はどうすることもできない。金縛りにあったみたいに動けない。


 やがて炎が全てをさらっていく。後には彼女の頬にあるような、赤黒いシミみたいなものが地面に残る。


 そこで目が覚める。

 もちろん火事なんて起きていない。弓花は隣で寝ている。あまりに静かな寝息なので、呼吸をしているか不安になって、かすかに上下する胸を確認して安心する。


 僕はひたいの汗をぬぐって、再び枕に頭をゆだねる。眠れるはずがない。


 自分が見たとは思えないくらい、ひどく残酷な夢だった。

 

 炎がまぶたの裏に蘇る。

 僕は弓花がいなくなってしまうのが、たまらなく怖かった。それが確かな予感となって近づいてくるのが、耐え難く辛かった。


 僕は弓花のことが大好きになっていた。佐月先生に言わせるなら、それは強い願望で、弓花がいなくなる夢はその反動だったのかもしれない。


 僕はずっと彼女と繋がっていたかった。

 動かない左半身や、僕の知らない10年間の弓花とも。

 僕は弓花のことをもっと知りたくて、そしていずれ彼女の全てを理解できると思っていた。


 そんな風に考えられるほど僕は子どもで、傲慢ごうまんだった。今になってそう思う。

 

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