12. 夢


「佐月先生。こんにちは」


 弓花の主治医は彫りの深い顔立ちをした、50代くらいの男の先生だ。僕たちが診察室に入ると、顔を上げて微笑んだ。


「こんにちは。今日は旦那さんも一緒だね」


「旦那さんじゃないよ。カーくんは彼氏」


「ああ、そうだった。つい」


 あはは、と佐月先生は声をあげて笑った。


 物腰のやわらかい気さくな性格で、僕はすぐに顔を覚えられた。佐月先生は脳神経科の担当だ。


 弓花の身体には2つの問題がある。


 ひとつは腕と膝の外傷。

 深い火傷を負って、成長阻害せいちょうそがいとひきつれを起こしていた。成長期を終えたのと、何度かの移植手術でそれは徐々に改善していた。たまに手術跡を引っ掻いてしまうのは、精神的な問題だと言われた。


 もうひとつは脳の問題。

 火事から目を覚ました後、その直前の記憶と言語機能におぼつかないところが見られた。もう10年以上経っているにも関わらず、改善は見られない。


「今日は検査の日だね」


 弓花のカルテを見て、佐月先生は僕たちに向き直った。


「日常生活に不都合はないかい?」


「問題ないよね。カーくん」


「はい。問題ないと思います」


 もう治ったんじゃないかな、と言う弓花に佐月先生は「そうかもねえ」とニッコリと笑った。


「じゃあ。血液検査からしようか」


 看護師に支えられて弓花が立ち上がる。診察室を出て、検査室へと歩いていく。僕は椅子に腰掛けたまま、弓花に「待合室で待っているから」と言った。


「うん。終わったら。ご飯食べに行こうね」


 弓花を見送る。僕は振り返り、パソコンを操作する佐月先生に声をかけた。


「ちょっと良いですか?」


「ん?」


「少し聞きたいことが」


 佐月先生は手を止めると、僕のことを見た。


「患者抜きで話すのって良くないんだけどね。良いよ。君とも長い付き合いだ。何かな?」


「弓花が子ども産みたいって言っていて」


 僕の言葉に彼はコクリとうなずいた。


「聞かれたよ」


「本当なんですか。間違いなく大丈夫だって」


「彼女がそう言ったのかい」


「はい」


 弓花はたまに嘘をつく。


 体調が悪い時に隠そうとする。一度や二度ではない。心配させまいと元気なふりをする。おかげで入院寸前まで自分を追い込んでしまう。悪いくせだ。


 佐月先生は、珍しく難しい顔をして言った。


「私は産婦人科じゃないから、確かなことは言えない。出産は当然リスクがあるよ。すごく体力を使う。身体に負担はかかるし。脳だって身体の一部だ」


「そのリスクの中に、言語障害が進むってことはあるんですか」


「分からない」


 佐月先生は首を横に振った。


「断定はできない。絶対に無いとは言えない」


 その言葉に息が詰まる思いがした。佐月先生はさとすような口調で「絶対に大丈夫なんてあり得ないよ」と言った。


「健康な人だって、完璧に安全とは言えない。妊娠は身体に負担をかける。そう考えると、彼女が抱えるリスクは、普通の成人女性とそこまで変わりはない」


「でもリスクはゼロではないってことですよね」


「もちろん。彼女にもちゃんと説明した。リスクはある。ただ女性器に問題があるわけではない。出産しようと思えばできるはずだよ」


 佐月先生の言うことは間違っていない。この人を責めたところで仕方がない。不安が晴れるわけでもない。


 椅子のひじ置きにもたれかかりながら、佐月先生は僕に言った。


「子どもを産むのはひとりじゃできない。人生の大事な選択だ。心配事があるなら吐き出した方が良い」


 穏やかな口調に、釣られるように言葉が出てくる。


「最近良く夢を見るんです」


「夢ね」


「彼女がいなくなる夢です。朝起きて目が覚めると、弓花がいなくなっている。ぽっかりと消えてしまっているんです。まるで最初からいなかったみたいに」


 夢の中で僕はひどくうろたえる。辺りを探す。クローゼットを開ける。外に飛び出して探し回る。


 彼女はどこにもいない。もう二度と僕の前に現れることはないのだと、そこで気がつく。ひとりぼっちになって僕は途方に暮れる。


 大体の場合はそこで目を覚ます。僕は隣で寝ている現実の弓花を見て安堵あんどする。


「何かの暗示みたいで。すごく嫌なんです」


 あり得ないことは知っている。でも似たようなことは起こるかもしれないんじゃないかと思う。弓花の傷跡を見ていると、そう感じる。


「これ以上、弓花に辛い思いをさせたくないんです。彼女はいろんなものを諦めてきたから」 


 子作りを始めた日から、不安が胸の奥で引っかかっていた。本当に大丈夫なんだろうか。弓花はまた無理をしているんじゃないだろうか。僕は弓花の気持ちの、本当のところを知りたかった。


 僕の言葉に、佐月先生は深々とうなずいて返答した。


「分かった。精一杯フォローするよ」


 経過観察をしっかりしていこう、と佐月先生は言った。絶対に大丈夫とは言わなかった。それが佐月先生の答えで、それ以上望むことができるはずもなかった。


 診察室を出ようとした僕に、佐月先生は思い出したように声をかけてきた。


「そうだ。さっきの君の夢。私も別に心理学に詳しいわけじゃないけれど。いわゆる夢判断は知っているかい」


 知らないです、と言う。


「夢というのは無意識の強い願望が、ゆがんで現れた形だと」


「歪んで?」 


「普段の生活では抑えている強い望みだよ。君が夢に見ているのはそういう願望の反動なのかもしれない」


 佐月先生はそう言った。


「君は彼女を失うことを、すごく恐れているんだね」


 そうかもしれないです、とうなずく。

 僕は佐月先生にお礼を言って、診察室を出た。


 願望の反動。

 言われて、思い返すことがあった。


 弓花と初めてセックスした時のこと。あの夜も、同じような夢を見た。


 弓花と炎の夢だ。思い出すだけで最悪な、ひどく恐ろしい夢を僕は見たことがあった。

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