23. 夢の無い
妊娠は、当然僕たちにとって初めてのことで、分からないことばかりだった。つわりの具合は人によって変わるらしい。彼女の場合は特に吐き気が辛いようだった。
「多分。これからもっとひどくなる」
電気ポットでいれたカモミールティーを飲みながら、弓花は言った。
「ピーク。8週目くらいから。って言われた」
「じゃあ後一ヶ月くらいか」
「仕事無理かも」
弓花の顔色は良くなかった。原因がつわりだと分かって安心はしたが、体調が戻るわけではない。
「どうしよ」
「休めば良いよ。健康第一」
「うん」
弓花は小さくうなずいた。空っぽになったプリンとゼリーのカップを見ている。
「先生に言われた。もうちょっと体重増やしなさいって。でも。食欲ない」
近くに炊いたご飯があるだけで、ムカムカしてしまうらしい。
ネットで調べて食べられそうなものをリストアップした。
吐きやすい人は、とりあえず塩分と水分だけでも取った方が良いと書いてあったので、レトルトの野菜スープを買ってきた。お湯に注ぐだけで作ることができるので、弓花がひとりの時でも食べることができる。
「なんか。信じられない」
ベッドに寝転んだ弓花は、自分の身体を見ていた。「ここにいるんだ」と夢心地な様子で言っている。
「無事に産めるかな」
「きっと大丈夫だよ」
「うん」
それでも弓花は不安そうにしていた。寝返りをうった弓花は、僕の手を握った。
「カーくんの。お父さんとお母さんには。いつ報告する?」
僕は彼女の手を握り返した。
「その内報告する」
「反対、しないかな」
「しないよ」
僕の両親は、弓花との同棲は賛成という感じではなかった。一度、弓花と挨拶に行った日は、弓花の具合が悪くなって、途中で帰ってきてしまっていた。弓花が妊娠したと知ったら喜ぶだろうか。
「そんなことより。今度、脳の定期検診。行かなきゃいけないな」
「そうだった。そろそろだったね」
「今日、佐月先生に会ったよ」
「佐月先生に?」
弓花は目を丸くした。
「どこで会ったの」
「病院の喫茶店前」
「あそこ。偶然だね」
「話がしたくて」
「話?」
「弓花の。昔の話」
弓花の表情が固まったのが分かった。視線を伏せた弓花は、僕の腕をギュッとつねってきた。
「何話したの」
「昔の話だよ。色々聞きたかったんだ。ごめん」
「色々って」
暗がりの中でも分かるくらい、弓花の顔は怒っていた。
「どうして。そんなこと。聞いたの」
「気になった。小宮山さんのお兄さんの話。聞いてから」
「シベリアの人?」
「そう。シベリア。弓花がどんな娘だったのか。知りたくて」
「何聞いたの」
僕は少し考えて、本当のことを言った。
「弓花と佐月先生のこと」
「もしかして。待ち伏せしてたこと?」
「聞いた」
「あのさ。今は全然好きじゃないよ」
弓花はムキになったように言った。ギュッと唇を噛んでいた。
「あの時は。なんかダメになってて。気の迷いだよ」
「知ってるよ」
「嫌な気持ちになった?」
「そんなことない」
「本当?」
弓花は僕を見上げて聞いてきた。
「嘘。ちょっと嫌な気持ちになった」
「それで?」
「それだけ」
弓花は「それだけなの」と不思議そうな顔をした。
「カーくんは嫌な気持ちになるために。佐月先生と話したかったの?」
「そう。かもしれない」
「変だね。変だよ」
「知らなきゃいけない気がしたから」
僕は彼女の髪で隠れている火傷の跡のことを思った。それから左脚と左脚のことも。今、この瞬間も彼女を襲っている痛みのことを考えた。
僕が知りたかったのは、弓花がどんな風に苦しんできたかだった。そうすれば、小宮山さんが言った「弓花が抱える荒涼とした景色」が少しでも見られるような気がしたからだ。
そう説明しても、弓花には良く分からないようだった。納得いかないと言う風に弓花は言った。
「それにどうして。このこと。カーくん、私に言ったの?」
「このことって」
「佐月先生と話したこと」
黙ってれば良かったのに、と弓花は困惑したように言った。
「このタイミングで言うなんて。なんか気まずくなるじゃん」
「どうしてだろう。幸せだったから?」
「へ?」
弓花はぽかんと口を開けた。
「子どもができたって聞いて。すごく幸せな気分になった。それで他のことが。どうでも良くなったから」
嬉しい気持ちがずっと胸に残っている。それで全部が満たされていた。
「隠し事してるのも。おかしいかなって」
そう言うと、弓花はきょとんとした顔をした。僕のパジャマをギュッと強い力で握りながら、身体を寄せてきた。
「変なの。カーくん。変だよ」
「そうかなあ」
「絶対、変」
そう言って、弓花は吹き出すように笑った。
「変なの」
口をおさえながら笑った弓花は、僕の腕の中で丸くなった。しばらくすると静かな寝息を立て始めた。
その晩、僕は夢の無い眠りについた。深い眠りだった。疲れていたのかもしれない。
朝になって起きた時。カーテンから漏れる日差しを見た時。昨日の幸福がまだ胸に残っているのが、僕は嬉しかった。
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