24. 日々
産婦人科で言われた通り、弓花のつわりは日がたつに連れて、だんだんとひどくなっていった。
下着が血で濡れてしまうこともあった。結構な量だったので、医者に相談してみたが、今のところは問題がないと言われた。もともと貧血気味な弓花は、サプリメントを飲んで栄養を摂取している。
「おかえり。カーくん」
当然、仕事どころではなくなってしまった。家ではソファにいるか、ベッドにいた。
「ただいま。アイス買ってきたよ」
栄養をつけるために、食べられそうなものを色々と試した。
最近の弓花が好きなのは、フルーツ味のアイスの実だった。いつでも食べられるように、冷凍庫にもいくつかストックしてある。
「アイスの実。ぶどう味」
「ありがと」
弓花はアイスを口の中でコロコロと転がしながら、ゆっくりと溶かして食べる。内臓を冷やさないように、一粒一粒たっぷり時間をかける。
妊娠してから、嫌いだったサラダや
口に入れる寸前は顔をしかめるけれど「うにゃむにゃ」と文句を押し殺して噛んでいる。
嘔吐が来そうになったら、背中をさすると楽になるらしい。自分が吐いているところを見られるのを、最初は嫌そうに「あっち行って」と言っていた。段々と余裕がなくなってきたのか、最近は何も言わなくなった。
「辛い。辛い」
弱音を吐き出しまうことはある。
そう言うときは、子どもの名前を考えながら気を紛らわせることにしている。僕が考えた名前を、弓花が良いか悪いかで判断をする。
「
「可愛くない。可愛いのが良い」
「
「悪くないけど。男の子だったら可愛すぎる」
「つむぎ」
「どんな字?」
「糸へんに自由の由」
弓花はぽうっと天井のライトを見上げる。
「
もう一度言って、弓花は小さくうなずく。
「悪くないね」
第一候補だ、とか言ってはしゃぐけれど、次の日にはすっかり忘れてしまうこともある。メモをしていない僕らも悪い。
弓花が頭を抱えながら言う。
「何だっけ。昨日出てた名前」
「えーと。何だっけ」
「つ。が付いていたような気がする」
「あ。分かった。つぐみ」
「そうだっけ」
「違うか」
「違うかもしれない」
次からはちゃんとメモしておこう、と心に決める。けれど良い名前が出てくるのはいつも唐突なことなので、メモできる状態じゃなかったりする。名前が決まるのはまだ先になりそうだった。
弓花の体調が心配なので、できればずっと付き添いたいと思うけれど、僕まで仕事を休むわけにはいかない。
弓花が産休を取れるのはまだ先なので、欠勤するしかない。収入は減ってしまっている。僕の給料で家賃と生活費を稼ぐ必要があった。
「なんか最近、張り切ってんな」
浅見さんには報告する前にバレてしまった。外回りから帰ってきた時に会社のエントランスで
「もしや、できたか」
「あ。いや」
「その顔はできたな」
パチパチと拍手をされた。
「おめでとう」
「すいません」
「何で謝るんだよ。めでたいことだろ」
とりあえず、と言って僕にコーヒーをおごってくれた。いつものセブンイレブンのレギュラーサイズだった。
「何週目?」
「6週目です」
「そっか。辛い時期だな」
つわりで良く吐いていることを言うと、おすすめの食べ物を勧めてくれた。浅見さんはどうですか、と聞くと、残念そうに首を横にふった。
「変わらず続けてる。失敗するのにもうんざりしてきた」
着床しても、すぐに流産してしまうことがあるらしい。妊娠初期ほどその傾向が強いらしく、体調に気をつけた方が良いと浅見さんはやんわりと口にした。
「ずっと辛そうなので。本当は付き添ってあげたいんですけど」
僕が言うと、窓の外を見ながら浅見さんは口を開いた。
「お前の在宅勤務。部長に掛け合ってみるか」
「良いんですか?」
「もちろん。俺の番がきたら、前例あったほうが楽だもんな」
そう言って浅見さんはニヤリと笑った。安易に表情には出さないけれど、最近の浅見さんは疲れているように見えた。それが不妊治療のためだということは、何となく分かった。
「ていうか。まだ籍入れてないのか」
そうなると交渉が面倒だなあ、と浅見さんは困ったように眉を下げた。
戸籍上の夫婦関係でないと、不都合なことがたくさんある。僕たちはどうでも良いけれど、産まれてくる子どもはそうもいかない。弓花のつわりが落ち着いたら、その話を切り出そうと思っていた。
ただ不安要素はつわりだけではなかった。もともと抱えている脳の問題が、ここに来てその影をチラつかせるようになった。
「前回のリハビリの時なんだけどね」
定期検診の日、佐月先生は難しい顔をした。
「読み書きのスコアが珍しく下がっているんだよね」
経過観察のテストは何ヶ月かに一回やっている。減少している読み書きテストのスコアを、佐月先生は心配していた。
「最近はどう?」
変わったことはあった。弓花の喋り方が、前よりもゆっくりになった。要領を得ない言葉も多くなった。
「これ。妊娠と関係があるんですか」
「直接的にはないよ。おそらくストレスだろうね」
弓花が大事そうに抱えるお腹を見ながら、佐月先生は言った。青い顔をしてうつむく彼女に、佐月先生は優しく声をかけた。
「あまり気負わないようにね。きっと大丈夫だよ」
弓花がコクリとうなずく。
彼女は懸命に生きようとしていた。
ご飯をたくさん食べるようにして、出産に関する本を借りてきては読みあさっていた。適度なストレッチと、たまに外の空気を吸うようにしていた。
そんな彼女に対して、僕ができることほんのわずかだった。「辛い。辛い」と言う背中をさすったり、硬いものや壊れやすいものを投げないように、弓花の手の届かないところに避難させるくらいだった。
大事にしていたスノードームを投げて欠けさせてしまった時は、弓花はひどく落ち込んでしまっていた。
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