25. 師走
今年の冬は比較的寒い日が続くと、テレビのニュースでやっていた。冷え込みすぎて、風邪を引いてしまうといけないので、部屋は常に暖房を付けている。家に帰って扉を開けると、熱帯みたいな生温かい空気がぶわっと流れてくる。
弓花はソファに座って映画を見ていた。ボウルいっぱいのヨーグルトとドライフルーツを食べている。
「おかえり」
もぐもぐと口を動かしながら弓花は言った。妊娠は12週目を超えていた。
「何それ。ケーキ?」
僕が持っている紙包みに目をつけると、弓花は嬉しそうに言った。
「やった。でもクリスマス。まだ先じゃない?」
「クリスマスじゃないけど。ただのチョコレートケーキ」
「今、食べて良いん?」
「もちろん」
皿に移して、温かい紅茶と一緒に持ってくる。最近は酸っぱいノンカフェインのレモンティーを好むようになった。近くの洋菓子店のケーキは、スポンジが柔らかくて食べやすい。
弓花は顔をほこばらせながら一口、また一口と食べた。
「美味しい」
「良かった。体調はどう?」
「良くなった。気持ち悪いのも楽になった」
それでね、と弓花は慌てたように、カバンから大きめの封筒を取り出した。
「今日ね。超音波検査してきたんよ」
病院でもらってきた写真だった。弓花は写真の真ん中を指差した。
「これが赤ちゃん」
「うお。すごい。もしや、これが頭?」
「そう。そんでこれが足」
「こんなに小さいんだ」
「カーくん。喜ぶかと思って。もらってきたの」
誇らしげに言うと、弓花は大きく口を開けて、チョコレートケーキを食べた。よほどお腹が空いていたのだろう。急いで食べた口の周りが、クリームで汚れてしまっている。
ティッシュペーパーを差し出すと、弓花は顔を押し付けてきた。口の周りをふいて、照れ臭そうに笑う彼女の身体を抱きしめる。
最近は精神的にも落ち着いてきていて、腕と膝にワセリンを塗ることもなくなった。触れる肌は温かい。
「カーくん?」
胸の中で弓花が顔をあげた。何かあった、と不思議そうに瞳が揺れている。
「あのさ」
喉に貯まった唾をコクリと飲み込む。
「結婚しよう。婚姻届。もらってきたんだ」
婚姻届をテーブルの上に置く。一ヶ月くらい前に区役所の出張所で受け取っていた。取り出すタイミングが見つからず、ずっと長いこと引き出しにしまってあった。
「結婚。そっか」
弓花はポツリと言った。
「私たち。結婚しなきゃいけないんだ」
「いけないって訳じゃないけど。嫌じゃなかったら」
「嫌じゃないよ」
珍しいものを見るみたいに、弓花はおずおずと婚姻届を手に取った。
「そうじゃなくて。信じられなかっただけ」
ボールペン取って、と弓花は言った。インクの調子を確かめて、彼女はサラサラと自分の名前を書き始めた。
「自分が結婚するって。不思議な感じ」
「悪い。もうちょっと演出すれば良かったけど。思い浮かばなくて」
「ううん。嬉しい」
弓花は、指輪とかアクセサリーがあまり好きではない。普段身に付けるものは、ほとんど最低限のものだけだ。
好きなのは、身体のラインが出ないダボっとした緩い服。婚約指輪を買うか悩んだけれど、本当に彼女が喜ぶか自信がなかった。
だから婚約指輪の代わりに
「綺麗」
「駅前で買ってきた」
「杖も。ありがとう。高かったんじゃない?」
「まあまあ」
「良いやつだ」
渡した杖は丈夫なグリップが付いている。前のものはいろんなところにぶつかったりして、ボロになっていた。前から買おうと思っていたけれど、具合の良いやつが見つからなかった。
「ここ押すと。折りたためるよ」
「本当だ」
カチャカチャと杖を折りたたんで、弓花は部屋を歩き始めた。フローリングの床を一歩ずつ、杖を出して歩いていた。
「すごく良い。なんか軽い」
「使えそう?」
「うん。すいすい歩ける」
リビングを一回りしてくると、弓花はソファに座った。
「明日から使おう。これで病院行くんだ」
満足した様子で、弓花は大事そうに杖を抱えた。
「ありがとう」
「気に入ったみたいで。良かった」
「クリスマスプレゼントは。私から渡すね」
カレンダーを見ながら弓花は言った。クリスマスまであと2週間あった。
いつもならケンタッキーのフライドチキンを食べる。今は油っこいものは避けた方が良い。弓花に聞くと「野菜が良い」と言ったので、レンジで作る蒸し野菜にすることにした。
それから僕たちは婚姻届の続きを書いた。一通り埋め終わったところで、保証人の欄で弓花のペンが止まった。
「どうしよ」
弓花は困ったように、僕の服の袖をつかんだ。
「誰に頼もう」
「ひとり決めてる」
「誰?」
「浅見さん。色々とお世話になってるし」
「良いね」
ニッコリとうなずいた。
「あともうひとりだ」
「弓花は誰かいる?」
「いない。連絡とってる友達いないし。小宮山さん死んじゃった」
「そっか」
「うん」
ペンをあごに当てて、弓花はジッと空白を見ていた。思い立ったように、彼女は僕に言った。
「カーくんの家族は」
どうかな、と弓花は首を傾げた。
「お父さんか。お母さん。今度、お正月に帰るんでしょ」
「ああ。帰るけど」
「挨拶ついでに。名前もらう?」
その提案に気が進まないのは確かだった。僕は自分の家族があまり好きではなかった。実家の居心地は良くない。それはおそらく、僕が兄と比べて出来の良い人間とは言えないからだと思う。
「無理する必要はないけど」
弓花が再び僕に言う。
実家には両親と兄夫婦とその子どもがいる。良くできた家庭だった。それで十分だと思った。
弓花との交際を告げた時の顔を思い出す。「もし障害が進んだら介護が必要なるのか」と言われた。そんな話をしに行ったわけではないのに。手放しで喜んでくれなかったことは、ショックだった。
「やめる?」
「考えとく」
「そっか。じゃあ私も考えとく」
弓花は婚姻届を封筒にしまった。
「来年のクリスマスは。3人だね」
膨らみ始めたお腹を撫でながら弓花は微笑んだ。
考えた挙げ句、保証人のもうひとりは佐月先生にお願いすることにした。年内最後の診察の時に、彼は快くその場で書いてくれた。
12月22日。僕たちは正式に夫婦になった。
両親には電話で伝えた。「おめでとう」と言ってくれた。年明けの三ヶ日には帰らなかった。弓花の体調が良くなくて、家から出られそうになかった。そう報告した時の、電話口の声はホッとしているように聞こえた。僕もホッとした。
弓花が体調を取り戻してから、産婦人科へ検診に行った。そこで担当する医師から、帝王切開が必要だと言うことを聞いた。
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