26. 訪問
帝王切開が必要なのは、弓花が抱えている脳の損傷によるものだと言うことだった。
「強い負担がかかった時に、症状が進む可能性がないとは言い切れません」
弓花の身体は普通の人の身体よりもずっと
その日は血液検査の結果も出た。弓花がかなりの貧血であることを、医者は問題視しているようだった。
「鉄分がかなり不足しています。薬は出しますけれど、なるべく食事で栄養を取るようにしてくださいね」
弓花は青白い顔でコクリとうなずいた。細い腕はだらんと下がっていた。
最近、体調の良い悪いが激しい。調子の良い日は買い物にも行ける。悪い日になると、つわりの時と変わらない。ベッドから動けなくて、食べたものを吐いてしまう。
「お腹。気持ち悪い」
もらってきたサプリメントの錠剤を水で飲みながら、弓花は目を閉じていた。
「薬飲んで寝る」
「夜ご飯どうする? 何か食べたいものあるか」
「牛タン」
弓花はだるそうにベッドに横になった。
「吐くけど」
その日は結局、夜まで寝ていた。膨らみつつあるお腹とは対照的に、弓花の身体は日に日に弱っていった。さらに体重は落ちていて、精神的にもかなり参っていた。
佐月先生が心配した通り、言語障害はより顕著になっているようだった。弓花はしゃべること自体が少なくなった。ひとつふたつの単語をポツポツとしか話さなくなった。
心療内科に行った方が良いかもしれない。近所の医者を探しておいたけれど、弓花が嫌がりそうだった。
「あのオルゴールの音。嫌い」
昔行っていた心療内科の待合室で、オルゴールのBGMがかかっていたらしい。その音が気に
「行っても意味ないし。治らないし」
実際治ってないし、と弓花は言っていた。それもそうだ、と僕は同意するしかなかった。
心の傷は見えにくい。ワセリンで塗って塞がるくらい単純だったら良いのに、と良く思う。
ネットで妊娠中に良いと書いてあったので、アロマディフューザーを買ってきた。蛇口から垂れる水滴みたいな形をしている。
スイッチを入れると先端から、ポンポンと言う音と共に、レモンの匂いのする蒸気が出てきた。主張し過ぎない良い匂いだった。これは悪くないと思う。
ディフューザーの調子を確かめたところで、僕は辺りを見回した。すっかり殺風景になったリビングに気がついた。弓花が手当たり次第に物を投げてしまうので、本や雑貨類は押し入れに避難させていた。
それで、昔の弓花の部屋を思い出して、無性に寂しくなった。
彼女が落ち着いたら、もっと
午後に来客があった。
スーツを着た壮年の男性だった。中肉中背でメガネをかけた真面目そうな人。どこかで会った気がする。彼の名前を聞いて、僕は思い出した。
「小宮山です」
葬式で会った小宮山さんの息子だった。小宮山
「父の遺品です。郵便で送ろうかと思ったんですが、それではあまりにも
突然の訪問を謝りながら、修一さんは言った。弓花が寝ていることを告げると、そのまま帰ろうとした。聞くとわざわざ
僕は修一さんを家にあげた。いれた紅茶を一口飲みながら、彼はテーブルの上の包装紙に目をやった。
「父の数少ない持ち物だったんです」
開けてみると、フェルトでできた小さな人形がでてきた。白髪のおばあさんだ。不格好だが、笑みを浮かべているように見えた。
「一緒にお棺に入れようかと思ったんですが。本人に返して欲しいと言われまして」
「これ、弓花が作ったんですね」
「そう言っていました。母がまだ生きている時に。結婚記念日の贈り物だとメッセージが添えられていました」
初美さんへ、と弓花の字が書いてある。メモ帳くらいの大きさの紙に「また編み物を教えてください」と丁寧な字が書いてあった。
「お礼を言いたかったんです。弓花さんは、私の代わりに父と話してくれていたので」
視線を伏せながら修一さんは言った。
「私はあまり家族に対して、誠実ではありませんでしたから」
年はおそらく僕の父と変わらないくらい。修一さんは白髪が多く、ひどく疲れていて弱々しく見えた。紅茶にもほとんど手をつけなかった。時計をみると、残念そうに彼は立ち上がった。
「そろそろ失礼します」
「あの。弓花、もうちょっとで起きてくると思いますけれど」
「いえ。無理はなさらず。私の妻の出産も一大事でした。逆子で、産まれてくるまでは気が気ではありませんでした」
また来ます、と言って、彼は僕が持っている人形に目をやった。ちょっと迷ったように、修一さんは改めて口を開いた。
「今日来たのは、父について知りたかったんです」
手を組んで、彼は僕に言った。
「弓花さんなら。ひょっとすると、私の知らない父の姿を知っているんじゃないかと思いまして」
そう言った修一さんの瞳にはどこか覚えがあった。どこで見たんだろう。後で思い返すと、それは鏡に映った僕自身の瞳だった。
修一さんもまた、大切な人のことを知りにきたのだと思った。
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