27. 戯画


 僕が引き留めると、修一さんは申し訳なさそうに座り直した。コップのお茶に口をつけると、ポツリと言った。


「弓花さんのことは、母から聞きました。伯父に似ていると。伯父も失語症を患っていたんです」


「その人。シベリアに行っていた方ですか」


 聞くと、修一さんは目を丸くした。


「そうですが。ひょっとすると、あなたにも」


「一言。二言ですけれど。僕はそんなに親しくありませんでしたから」


「私には一度も話したことがありません。母づてにしか聞いたことがありません」


 ぼんやりとした様子で宙に視線を向けながら、修一さんは話し始めた。


「その伯父にもあったことがありません。伯父が亡くなったのは、私が7歳の頃でした」


 本当のところ、小宮山さんの兄の死因は自殺だった。しばらく行方が分からず。当時の国鉄から連絡があり、列車に飛び込んたことを知ったらしい。


「生きていることが申し訳ないと」


 走り書きのような遺言が残されていたと修一さんは言った。


「長い告解でした。抑留よくりゅう生活で腹が減っていた。どうしようもなくなって、伯父は食糧庫のパンを盗んだそうなんです。朝になって、監視していた兵士は伯父ではなく、別の人間を疑いました。どれも同じ顔に見えたんでしょうね」


 食糧の問題は、極寒の地で重要なことだった。食糧を盗んだ多くの人が無残に殺されていた。修一さんの伯父が見たのも、そんな光景だったらしい。


「代わりに疑われた人間の頭がスコップで割られるのを、伯父は黙って見ていたんです。そのことが「申し訳ない」と書かれていました。後になって、母から見せてもらったんです。家の押し入れの奥にありました」


 それを思い出すように、修一さんは目をつむっていた。


「私は今でも忘れられません」


 殴り書きで書かれた紙切れには、黒ずんだ血がにじんでいた。本当に死の間際に書かれたものだったと、修一さんは息を吐いた。


「父が受けたショックは計り知れません。父は伯父を尊敬していましたから。それで父は塞ぎ込みがちになりました。黙り込んだり。唐突に癇癪かんしゃくを起こしたり」


 ふと、修一さんは視線をずらした。テレビの真っ暗な画面を見ていた。


「テレビドラマでやっているにぎやかな食卓があるでしょう。私はあれがうらやましかったんです」


 修一さんの言いたいことは、僕にも分かる気がした。家族はあんな風に幸福なものだと思っていたことがあった。


「早くに家を出ました。息苦しくて。父を身勝手だと思いました。死んだ人間のことをいつまで気にするんだと。そう思った時期もありました」


 そこまで言うと、修一さんは僕に問いかけてきた。


「両親と仲は良いですか」


 いきなり聞かれて言葉に詰まる。

 僕が答えあぐねていると、修一さんはニッコリと笑った。


「私と同じですね」


 なんとなく見透かされているような気がした。僕は修一さんから目をそらして、弓花のいる寝室に目をやった。


「仲悪いの。あまり良くないですよね」


「そんなことないです。家族であっても、所詮他人ですから」


「他人」


「はい。他人です」


 修一さんはコクリとうなずいた。


「人は身勝手ですから。他人の姿を、自分の欲望を通してでしか見ることができないんです。一人の人間ではなく。自分にとって都合の良いものであることを望むんです」


 家族も同じです、と修一さんは言った。


「私にとって父は、都合の良くないものでした。癇癪かんしゃくを起こしたり、黙り込む父が嫌いだった。でも今、考えれば。それも含めて愛することはできたかもしれません」


 修一さんは寂しそうに「今になって孤独を感じているんです」とこぼした。


「すいません。喋り過ぎましたね」


 そんなことないです、と僕は言った。また来てくださいと伝えた。僕でなくて弓花なら、もっといっぱい話すことができるはずだった。


 修一さんはニッコリと笑った。


「ありがとうございます」


 来た時より晴れやかな顔をしているように見えた。修一さんは穏やかな笑顔のままで言った。


「死んだものにも、どこかに救いがあるような気がするんです。そう言うものが、なければいけないと思うんです。私が言えたようなことではないんですが。母の人形を見て、そんなことを思いました」


 修一さんはおもむろに椅子を引いて、立ち上がった。 


「弓花さんに、よろしくお伝えください」


 修一さんが行ってしまってから、僕はテーブルの上に見慣れない小瓶が置かれているのを見つけた。正露丸せいろがんの瓶だった。その中に薬ではない、小さくて白いものがあった。


 手に取って見ると骨のように硬くて乾いたものだった。なくしては悪いので、瓶に戻して戸棚にしまった。そのまま閉まっていたことすら忘れてしまい、その瓶の存在を思い出したのは、一ヶ月後のことだった。


 夜になって弓花が起きてきた。

 ボサボサの寝癖を立てた彼女は、昼よりも具合が良さそうだった。ホットプレートで牛タンを焼くと、美味しそうに食べた。修一さんからもらったフェルトの人形を渡すと、弓花は懐かしそうに目を細めた。


「下手っぴ人形」


「良くできてると思うけど」


「そんなことない。カーくん、嘘つき」


 クスクスと笑いながら、弓花はそれに糸を通してストラップにした。普段良く使うカバンにつけて、試しにぷらぷら揺らしたりしていた。

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