28. 幸福
年が明けても、弓花の体調は変わらなかった。良い日もあれば、悪い日もある。その繰り返しだった。それでも体重だけはキープしようと、弓花は頑張って食事を取るようにした。
そのおかげか、弓花のお腹は順調に大きくなっていった。超音波検査でも、その様子が分かるようになった。確かな成長は弓花にとって、少なからず希望になってくれたようだった。
「もうすぐ性別分かるって」
仕事から帰ってくると、弓花は楽しそうな様子で僕に言った。
「どっちだと思う?」
「どっちだろうなあ」
「私。男の子だと思う。何となく」
その日は珍しく弓花がご飯を作っていた。インスタントのお味噌汁。冷凍の塩鮭。納豆。茶碗によそわれて出てきたのは、ツナとしめじの炊き込みご飯だった。
どうしたの、と聞くと「頑張ったんだ」と弓花は誇らしげに言った。
「見てくれだけでも。やっておこうかな。思って」
「塩鮭の冷凍なんてあるんだ」
「他にもいっぱいあったよ。おかず。一週間分くらい。バリエーションが」
いただきます、と朱色の鮭を割って食べる。炊き込みご飯は、甘い出汁の味がした。
「どう?」
美味しいよ、と言うと弓花はホッとした顔をした。ソファを見ると『炊飯ジャーご飯』『火を使わない料理』『レンジで完結、今日の晩ご飯』と書かれた料理本が並んでいた。
「家にいるから。料理してみようかな。と」
「無理しなくて良いのに」
「そうじゃなくて。暇なの」
仕事も休職中でやることがないらしい。映画ばかり見ていると、頭が疲れてくるので、この際だから始めたと弓花は言った。
「これから。変なの。出てくるかもだけど。我慢してね」
「いや楽しみにしてる」
「ノー。期待。ノー」
ブンブンと弓花は首を横に振った。そう言いながらも、自分で作った炊き込みご飯は割と気に入ったらしく、久しぶりにおかわりしていた。確かに良い出来だった。
「自分で作ったから。無駄に吐けない」
「そうじゃなくても。吐くなよ」
「身体が勝手に」
弓花は鼻唄を歌いながら、コップに水をいれた。病院で処方された薬を探していたので「戸棚にあるよ」と言った。
「あれ? 何これ?」
「どうかした?」
「カーくん。これさ」
振り向くと、弓花は正露丸の瓶を持っていた。
「あ。忘れてた。小宮山さんの息子。忘れ物だ」
中身の白いものが何なのかも分からないので、もう捨てちゃっても良いかな、と言うと弓花は「ダメだよ」と声をあげた。
「これ。歯だよ」
「歯?」
「うん。人の歯。前に、初美さんに見せてもらった」
瓶の中をのぞきこみながら弓花は言った。白い欠片は瓶の中でカラカラと乾いた音を立てていた。
「何で、小宮山さんは。そんなもの持ってるんだ」
「お兄さんの形見だって」
「じゃあ。お兄さんの歯?」
「違う。お兄さんの知り合いの歯」
修一さんが持っていた歯は、彼の伯父がシベリアにいた頃のものだった。向こうで亡くなった人の歯で、持ち主の顔も名前も分からないらしい。
そこまで聞いて、おそらく修一さんが言っていた、食糧を盗んだと疑われた人のものなんじゃないかと、僕は思った。黄色く
「持ち主の家族に。返したいって。でも誰か分からんから。ずっとそのままだったんだって」
「大事なやつだ。どうしようか」
「今度、来た時返そう」
弓花は瓶をテーブルの上に置くと、ジッと見ていた。透けた赤茶色のガラスに、彼女の瞳が映る。それはちょうど、火傷跡と似たような色だった。
「この人。どこから来たんだろ。どこに返せば良いのかな」
「どうなんだろ。今まで見つけれられなかったんだろ」
「うん」
「じゃあ。もう分からないかもしれないな」
この歯の持ち主のことを知っている人は、果たして生きているだろうか。瓶の底で小さな歯は、死んだ魚のように沈んでいた。
「この人。死んでも帰るところが。ないんだ」
弓花は寂しそうに言った。瓶に映った瞳は暗くよどんでいた。なんと声をかけるべきか。先に口を開いたのは弓花だった。
「最近ね」
視線を伏せたまま、彼女は自分のお腹を見ていた。
「お母さんのこと。思い出すんだ」
彼女の母親に関する最後の記憶は、夜寝る前に交わした会話だったと、僕は前に弓花から聞いていた。
「牛乳買い忘れちゃったって。うち、いつも。朝は食パンだったの。トースト。目玉焼き。ソーセージ。フライパンで焼く」
トーストにはマヨネーズをたっぷりかける。母親はコーヒーを飲んで、弓花は牛乳を飲むのがいつもだったらしい。弓花は懐かしそうに言った。
「どうしようって。コンビニで買うと高いんよ。百円違う。今みたいに安くなかったから。ね?」
「うん。そうだった」
「お母さん「麦茶でも良い?」って。でも私、牛乳が良いって。そしたらお母さん。「分かった」って。「仕方ないな」って」
そう言ってくれたの、と弓花は目を閉じた。
「優しいの。寝る前が一番」
深い息を吐き出して、彼女は言った。手のひらに歯を置いて、蛍光灯の光で白くなっているのを、弓花は見ていた。
「もし。私が死んだら。誰もお母さんのこと。考えられなくなっちゃう。お母さんが優しいって。私以外、誰も知らないんだ」
「弓花は死なないよ。大丈夫」
「そうじゃなくてね」
弓花は首を横に振った。
「いずれそうなるんだ。誰でも」
「誰でも?」
「うん。教科書に載ってるような。偉い人でも。誰かが覚えていなければ。忘れちゃう。正露丸の骨の人みたいに。帰る場所がなくなっちゃうんだ」
弓花は歯を指でつまむと、そうっと正露丸の瓶に戻していた。カランと音が鳴った。
「私たちみんな寂しいんだ。良いのか悪いのか。分からんけど」
「それは少し。悲しく思えるけれど」
「悲しいも無くなるんよ。悲しい人がいないから」
「じゃあ。寂しいは?」
「寂しいは残る」
弓花は繰り返し言った。
「寂しいは。ずっと残る」
弓花は泣いているように見えた。最初に彼女の家に行った時と、同じような表情だった気がする。
だからその顔を見て、僕は無性に悲しくなった。見えないくらいはるか遠くに、彼女が行ってしまったみたいだった。
ソファに座って、僕たちは真っ暗なテレビ画面を見ていた。鏡みたいに映る自分たちと目が合った。
「あ」
反射した画面の中で、弓花がハッとした顔をした。
「どうした?」
「動いた」
弓花は僕の服の袖をつかんだ。
「お腹動いたよ」
「うそ」
「本当。動いた」
彼女は目を閉じて、自分のお腹に手をやった。しばらくしてまた、大きな声で言った。
「やっぱり。また動いた」
触ってみて、と彼女は僕の手を握った。彼女のお腹に手を置く。丸まったお腹の真ん中に手を置いてジッと待つ。何分かして、手のひらがかすかな震えを感じた。
「ね。今」
「うん。動いた」
「すごい。すごいでしょ」
「本当、すごいよ」
弓花の手を握った。熱がこもっていた。その時、初めて、僕たちが家族になったんだと言うことを実感した。婚姻届を出した時よりも強くて切実な感情だった。
僕は弓花の唇と、頬の火傷跡にキスをした。彼女が妊娠してから久しぶりにキスを交わした。弓花はくすぐったそうに微笑むと、今度は僕の唇と頬にキスをした。
「すごいね」
弓花は自分のお腹に「君。すごいよ」と言った。その横顔は、今までにないくらい素敵な笑顔だった。
子どもの
それから一ヶ月は妊娠中で、一番幸せな日々だったように思える。弓花の病状が悪化したのは、2月が終わるくらいの頃だった。
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