29. 手段


 弓花の言語障害は、改善することこそないものの、あまり長く悪化することはなかった。大体5分節以上の会話は、彼女にとってはただのノイズで、発話はゆっくりとしかできない。


 今まで、その境界線が変わることはなかった。

 

 言葉を理解できないと言うことが、どんな感覚なのか、弓花が僕に話したことがある。


「言葉が、頭の中で。わんわんって反響するん。聞こうとしても。ぼやけていて。低い音にしか聞こえん」


 暗い洞窟どうくつみたいだと弓花は言った。深い洞窟の、どこか遠いところで誰かが喋っている。何かを言っているのは聞こえる。でもそれは弓花までたどり着く頃には、輪郭りんかくがぼやけて、意味を失ってしまっている。


「なんか怖いんよ。お化けみたいで」


 お化け自体はそんな怖くないんだけど、と弓花は付け足した。


 その彼女に通じる言葉の範囲が、急激に狭まったのは2月の終わりのことだった。


 妊娠して6ヶ月が経っていた。お腹の膨らみもはっきりしていて、胎動も頻繁になっていた。まだ子どもの名前は決まっていなくて「動いたね、きみ」と弓花はまだ名無しで呼びかけている。超音波検査で、子どもは男の子だと言うことが分かっていた。


 徐々に重くなっていくお腹は、弓花にとって少なからず負担になっていた。

 もともと歩くのが上手ではない弓花は、どこに行くにも一苦労だった。転ばないようにゆっくりと杖をついて歩くけれど、ただでさえバランスの悪い彼女の身体は、横で支えていないと倒れてしまいそうだった。


 弓花の口数が少ないのは、そのせいだと思っていた。疲れているのだろうと。僕が喋っても、弓花は目を合わせてニッコリと微笑むだけだった。


 頬の横に小さなニキビができているのが目に入った。ピンク色だった唇もカサカサになって、顔は青白く、幽霊のように薄くなっているように感じた。


「ごめん。今日遅くなって。残業でさ」


 喋らないんじゃなくて、喋ることができないのかもしれない。不安が確信に変わったのは、普段のたわいもない会話だった。


「シュークリーム買ってきた。好きだろ。これ」


 帰宅途中に買ってきたケーキ屋の包みを出すと、キッチンに立っていた弓花は嬉しそうに微笑んだ。


「ケーキだ」


「いや。シュークリームだよ」


「シュークリーム」


 嬉しい、と弓花は笑った。その瞳がかすかに動いた。困惑しているように、僕には見えた。


「弓花?」


「ん?」


「分かる? 今何を言っているか。今日残業で遅くなったから。ケーキ買ってきた」


 いつもなら理解できる程度の会話だった。


「シュークリーム」


 弓花が返した言葉は、期待とは真逆のものだった。僕の顔を見ると、弓花は怯えたようにビクンと肩を震わせた。


「最近、なんかさ」


 そう声をかけると、弓花は顔を引きつらせて後退りした。


「違うよ。違うんだから」


「責めているんじゃなくて」


「本当に。違う」


「いつから?」


 僕の言葉に口をつくんだ彼女は、パッとその場でうずくまった。


 絞り出すような嗚咽おえつが聞こえた。弓花は泣いてしまっていた。床にしゃがみこんで涙を流していた。


「ごめん。気がつかなくて」


 僕が謝ると、弓花はポツポツと言葉をこぼし始めた。一週間前かららしい。言葉がどんどんと遠ざかっていく。洞窟の奥の、さらに奥。原因は分からない。弓花はもうほとんどの言葉を失ってしまっていた。


「今度、病院」


 僕が言うと弓花は首を横に振った。


「良くならん」


「なるよ」


「分かる」


 吐き出すように言った。


「分かる」


 そんなことない、と言っても彼女は聞かなかった。


「ごめんね」


 うつむいて丸まっていた。


「ごめんね」


 彼女はまた謝った。


「寂しい」


 それからまた、しゃくりあげるように泣き始めた。


「寂しい」


 繰り返し、その言葉だけをこぼした。ただ「寂しい」とだけ弓花は言った。頬を伝う涙は熱かった。火傷の跡を伝って、僕の腕にこぼれた。


「寂しくないよ」


 膝をつく。キッチンの床は冷たかった。


「大丈夫」


 彼女の身体を抱きしめる。その身体はもっと冷たかった。


「カーくん」


 顔を上げて僕を見て、弓花は大きな涙をこぼした。


「私。寂しい」


 僕は弓花を抱きしめて、彼女は僕を抱きしめた。


 寂しくないよ、と言っても寂しさが消えるわけじゃない。ただ僕にはそれ以上の手段がなかった。


 弓花は伝える言葉を持たなかった。僕もその気持ちを全部理解することができなかった。身体は近くにあっても、手を繋いで抱きしめあっても、僕は彼女のことを知らないままだった。


 しばらくすると弓花は落ち着いて「もう良いよ」と言う風に、僕の背中をポンポンと叩いた。


 真っ赤な瞳で、弓花は口を開いた。


「名前」


「ん」


「決めた」


 家の天井の、どこか一点を弓花は見ていた。かさかさの唇を震わせながら言葉を探していた。ひゅうと乾いた呼吸の音が聞こえた。


 弓花は僕の耳元で囁いた。


くじら


「鯨って。あの?」


「うん」


 弓花はうなずいた。


「鯨は」


 僕の身体をつかむ手に、力が入るのが分かった。


「大きくて強い」 


 そうだね、と言う。弓花もコクリとうなずいだ。


「鯨は。強い生き物」


「そうだね。からすより強い」


「烏は」


 弓花は僕のシャツの胸のところで、涙を拭いた。顔あげた彼女は、もう泣いていなかった。


「頭が良い」


「そうかな」


「うん。だから烏も。強い」


 弓花は、身体の底から出てくるような大きなため息を吐いた。震えはおさまっていた。


「名前。クジラにしよう。良い名前だと思う」


「うん」


 弓花はスルスルと服をあげた。僕の手をつかんで、彼女はおへそくらいのところに置いた。


「クジラ」


 お腹を撫でながら、弓花は言った。


 それに合図をするように、お腹がぽこんと震えるのが分かった。僕たちは微笑み合って、互いの頬にキスをした。


 クジラは僕たちの幸福だった。言葉以外のもので、唯一僕たちをつないでくれた。まだ顔も見たことのないクジラは、本当にすごい子だったんだと思う。


 週明けに病院に行った。「ストレスなのかもしれないね」と佐月先生は言った。薬をもらった。精神安定剤だった。妊娠中なので、できる処方は限られている。


「ほら」


 帰り際に弓花はボソリとこぼした。


「良くならん」


 帰ろう、と薬が入ったグレーのつるつるしたビニール袋だけ持って、僕たちは歩き始めた。


 ストレス、たった四文字で表せる言葉が弓花を傷つけている。たったそれだけのものが、弓花をこんな目に合わせているなんて、僕には到底信じることができなかった。


 そんなちっぽけなものじゃない。弓花はもっと酷い目に合っている。


 また夢を見た。


 そうだ。炎だ。


 ごうごうと音を立てて、ありとあらゆるものを焼いてしまう。弓花の母親や、小宮山さんや、そのお兄さん。全てのものを形をちりや空気にしてしまう。


 弓花を傷つけているのは、そんな炎のような、人の手にはどうしようもない邪悪なものだ。僕は最悪な気持ちで目が覚めて、死んだみたいに静かな寝室で、耳をすませる。


 僕の鼓動の音より小さい、弓花の呼吸の音を聞いて、そこでようやく安堵あんどする。


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