30. 朝
風が強く3月にしては気温の高い日だった。帝王切開のための入院が迫っていた。
珍しく弓花が僕よりも早く起きていた。鏡をのぞきこみながら、自分の髪を触っている。
「どうかした」
声をかけると、弓花は鏡に向かって顔をしかめた。手にはハサミを持っていた。
「髪」
後ろ髪を気にしているようだった。
前髪は自分で切ってきたけれど、後ろ髪はほとんど伸ばしっぱなしにしていた。腰にまでかかる髪をつかみながら、弓花はハサミをウロウロさせていた。
「パッサリ」
「自分で。切るの?」
「だめ?」
「帰ってきたら。切るよ」
弓花はコクリとうなずいて、ハサミをおろした。今日は帰りが遅くなりそうだった。週に何回か在宅勤務にしてもらっていたけれど、今日は出社しなければいけなかった。
大きくなったお腹をポンポンと撫でながら、弓花は鼻唄を歌い始めた。沢山話すことはできないけれど、歌なら口ずさむことができる。弓花は『君に、胸キュン』のサビを何回も繰り返していた。調子は悪くなさそうに見えた。
髪を切りたいと弓花が言うのは、今まであまりなかった。「髪の手入れが大変なの」と言ったことはあったけれど、ばっさり切りたいと言うのは初めてだった。
「髪。どうして」
「春だから」
「あつい?」
「ちょっと」
パーカーを脱ぐと、弓花はそれをソファの隅っこに置いた。
冬の間出しておいたカーペットをしまっても良いかもしれない。妊娠のことでいっぱいいっぱいで、衣替えまで頭が回っていなかった。
時間があったので、久しぶりに朝食にホットケーキを焼くことにした。プレートを温めて、丸くなった生地をポンポンと叩いた。お布団だよ、と言うと弓花はおかしそうに笑った。
「おいしー」
まだ熱いホットケーキを彼女は、急ぐようにパクパクと食べ始めた。ご飯が食べられるのは健康な証拠だ。せっせとケーキを口に運ぶ弓花は、幸せそうな顔をしていた。
彼女の口の周りについた蜂蜜をふいた。食後に
「今日、荷造り」
「ああ。服。タンスだ」
「どこ?」
「左奥」
「出す」
入院中に必要になるものをリュックに詰め始めていた。いつも使う小さなカバンも、初美さんのストラップも入っていた。
「ベッド」
病院のベッドが嫌だと弓花は言った。どうして、と聞くと彼女は途切れ途切れの言葉で言った。
「自分が誰か。分からんくなる」
「分からない?」
「ん」
弓花は色々な言葉を使いながら、それがどう言うことかを、僕に説明した。自分が自分で無くなっていくのが怖いと言った。もっと違う言葉で彼女は説明していたけれど、はっきりとは理解できなかった。
「それじゃ。鏡はどう?」
「ん」
「手鏡。持ってくとか」
そう提案すると、弓花は悩んだようにアゴに手を当てて「んー」と言った。
「良いかも」
弓花は親指をたてた。ちょうど良いサイズのものがなかったので、今度買ってくると約束した。
話していると、あっという間に会社に行く時間になってしまった。妊娠中の弓花を一人にするのは、かなり心配だった。今の状態の弓花では、何かあった時に救急車も呼べない。
「何かあったら。すぐに電話」
働かなくても良いくらいにお金があったら、ずっと一緒にいられるのにと思う。それも今の収入では無理な話だった。
「携帯ダメだったら。会社のほう」
「分かった」
「お腹空いたら。冷蔵庫にハラミ」
「やった」
昨日の夜に「焼き肉」と弓花はボソリと言った。最近セックスをしていなかったので、弓花が焼き肉をねだることもなかった。昨日の夜に、ひとりで食べる用にスーパーで小さなパックを買って来た。
弓花は冷蔵庫をのぞき込んで、ガッツポーズをした。
「焼いて食べる」
「ホットプレート。片付け良いから。そのままで」
「うん」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
手を振った弓花は、どこか寂しそうな顔をしていた。玄関まで僕を見送りにきて「カーくん」と僕の名前を呼んだ。どうかした、と聞くとピンと張ったお腹を抱えながら、弓花は言った。
「クジラにも」
彼女が服をあげると、丸くなったお腹があった。
「いってきます。言って」
開いた玄関の扉から、太陽の光が差し込んでいた。弓花はまぶしそうに目を細めた。ここ一ヶ月くらいまともに外に出ていない。日光の下で弓花の姿を見るのは、病院に行く時くらいだった。
「良い天気」
ドアから顔を出しながら、弓花は空を見上げた。
「まぶしい」
「今日は晴れだって」
「散歩したい。お花見」
家を出てすぐの一軒家で、桜の木を植えていた。花は満開で鮮やかなピンクに色づいていた。
「それは落ち着いたらかな」
予定日はもう少し先だった。それまでは安静にしていなければいけない。その頃には、桜はもう散っているかもしれないけれど、葉桜の立てるパサパサと言う音も悪くない。
「私は。花が好き」
弓花は残念そうに肩を落とすと、お腹を太陽に向けた。見ると、弓花はすうと息を吸って目を閉じていた。
「何してるの」
「クジラに。太陽を浴びせてるん」
深く息を吐くと、僕の手を取った。
「ほら。気持ち良いって」
最近、弓花は良く僕の手を握るようになった。抱き合うよりも、一緒にお腹を撫でるのが好きなようだった。
「いってらっしゃい」
手をほどいて、弓花はまた手を振った。なるべく早く帰ってくる、と僕は家を出た。
もっとたくさん話したかったと、歩きながら思う。このところ、ますますゆっくりになった会話は、ちょっとした用事を伝えるのでも、かなりの時間がかかる。出産を終えたら、ちゃんと佐月先生に相談しなきゃいけない。
早く普通の生活に戻れれば良いのに。最近、僕はそんなことを思うようになっていた。
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