34. 言葉
僕と弓花の家は、学校を中心にしてちょうど反対の場所にあった。校門を出ると、僕は左へ、弓花は右へと向かう。だから僕の通学路で弓花に会うことは、ないはずだった。
「カーくん」
振り返ると、弓花が歩いてきていた。小学五年生の弓花はピンク色のランドセルを背負っていた。彼女の背は、大人になった今と変わらないくらいだった。
「ねえ。カーくん。止まってよ」
僕が立ち止まらないのを見て、弓花は大きな声をあげた。走ってやってくると、僕のすぐ隣を歩き始めた。
当時の彼女は後ろ髪を三つ編みに結わえていた。弓花と話すのは久しぶりだった。学童がなくなって、一年ぶりに僕は弓花と二人きりになった。
「久しぶり」
久しぶり、と返すと弓花はニッコリと笑った。
「元気だった?」
元気だよ、と僕は返した。
「ふうん」
話半分に聞き流したような感じで弓花は言った。視線は僕が持つ体操着カバンに向いていた。車のイラストが描かれた
「どしたの。それ」
「落とした」
弓花はまた「ふうん」と言った。泥水は点々と通学路に落ちていた。
「落とされた?」
聞かれて、僕は逃げ出したい衝動に駆られた。脚も濡れていた。校舎の隅っこにある小さな池の、深い緑の
クラスメイトにカバンを落とされたのは、大した理由じゃなかった。
「ひどいね」
弓花のその言葉は、僕をひどく情けない気持ちにさせた。女子に心配されるなんて惨めだ。早く帰って欲しかった。
どうしてまだ隣にいるんだろう。弓花の家が逆の方向にあることは知っていた。弓花は心配そうに僕のことを見ていた。
「私、先生に言おうか」
そんなことをしたら、もっと惨めな思いをするのは分かっていた。親が呼び出されて、僕はさらに孤独になる。
僕が「大丈夫」と言うと、弓花は首を横に振った。
「私がそう言うの。嫌なんだ」
隣を歩きながら彼女は言った。
「私もそうだったからさ」
弓花は話し始めた。
四年生の頃にいじめにあっていた。クラスの女子から無視をされていた。グループの誰かが彼女のことを「何かあいつ、うざいよね」と言ったのがきっかけだった。家で泣いていたのを、母親が見つけて先生に相談した。
「学年上がったら友達できたん」
弓花は嬉しそうに言った。
「だから、カーくんもさ」
「良いよ。そう言うの」
「どうして。それじゃ解決しないよ」
別に気にしてないから、と言った。それも全部嘘だった。本当は泣きたくて仕方がなかった。僕は意地っ張りで、情けないところを見せるのが嫌な子どもだった。家族に迷惑をかけたくなかった。兄の高校受験でギスギスしていたし、どうせ何も解決しないのは分かっていたからだ。
言うべき言葉を、僕は飲み込んだ。
「別に。良いよ」
僕が言うと、弓花は視線を伏せて「カーくん」と言った。
「嘘ついたらダメなんだよ」
日は落ちて、もうすっかり夕方になっていた。僕たちの通学路は人気のない畑に沿ってできたコンクリートの道だった。太陽を防ぐ建物もなく、辺りは真っ赤に染まっていた。足元にできた影は、ずっと遠くの方まで伸びていた。
「そう言うのって。どんどん大きくなる」
弓花は立ち止まって僕に言った。
「大きくなってね。取り返しがつかないことになるんよ」
彼女は怒っているようだった。顔に影がさして、そう言う風に見えた。
「何が大きくなるの?」
僕は弓花が何を言っているか分からなかった。
「嘘。カーくんのついている嘘」
「嘘なんかついていないよ」
「ついているよ」
弓花は断言していた。
「ダメだよ。それじゃあ本当のことが分からなくなる」
今の僕は、もう自分の気持ちがどこにあるかも分からなくなってしまった。大人の僕は、もう取り返しのつかないところまで進んできていた。
「本当のことって」
「カーくんが思っていること」
「今言った」
「言ってない。もっと素直にならないと」
弓花は僕の体操着袋から落ちる泥水を見ていた。立ち止まって落ちる水滴で、コンクリートの灰色はじんわりと黒く汚れていった。
「本当のことが分からなくなる。本当のことが分からなくなると」
弓花は言葉を詰まらせながら、大きな声で言った。
「ひとりぼっちになっちゃうよ」
その時の僕は、弓花を無視して歩き始めた。彼女の言葉をまともに聞こうとしなかった。
僕は自分の欲望を醜いと思う。
まともな人間になりたいと言うこと。他人が持っている幸せを欲しいと思うこと。そんな欲望を、口に出すことを僕はしてこなかった。どう言う風に話せば良いか、僕には分からない。ちゃんと向き合ってくれば良かった。そう思ってももう遅かった。
始まりは小学五年生のこの時だ。弓花が言った通りで、僕はだんだんと言うべき言葉を忘れていった。それでも生きるには十分だった。幸いにも現実は、自分の欲しいもの以外で、心の隙間を埋めることができるようになっていた。お金や仕事や、セックスや婚姻届は、僕たちをだいぶ満足させてくれる。
それは本当に僕が欲しかったものとは違うようだった。
本当は何が欲しかったんだろうと考えると、単純に寂しかったんだと思う。孤独に耐えきれないし、無条件で愛されたい。
人並みの幸福が欲しかった。僕はそうだった。弓花は違う。
弓花は人並みの幸福なんて欲しくなかった。そんなものは彼女の痛みを和らげてはくれない。ましてや寂しさを消してはくれない。
彼女が欲しかったものが、今は少しだけ分かるような気がした。僕はたまらなく寂しかった。こんなにも寂しいのは、僕には耐えられそうになかった。
何日か経って、弓花との面会が許された。
ベッドの上の弓花は、随分と小さく見えた。まだお腹が張っていて、風船みたいに膨らんでいた。「弓花」と声をかけても、目を閉じたままだった。
僕はひとりになってしまった。肺のあたりを生温かい風が通り抜けていく。彼女をこんなことにしてしまった全てが、僕は憎らしかった。
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