4. 東西線


 弓花と再会したのは、僕が大学四年生の時で就職活動中のことだった。


 その時はあまり景気が良いとは言えなかった。何度も面接を繰り返していたが、就職先はなかなか決まらなかった。


 留年する余裕はない。

 在学していたのは都内の私立大学で、かかるお金も馬鹿にならない。奨学金の返済もある。仕送りを送ってくれる実家からのプレッシャーをひしひしと感じていた。


 手応えのない面接が終わった後、僕は弓花に出会った。地下鉄東西線の混み合った車内に、彼女は杖をついて入ってきていた。


 僕は最初、その女の子が弓花だと言うことに気がつかなかった。つばの広いハットをかぶった中学生くらいの女の子が入ってきた。そんな印象だった。


 優先席の方を見ると、乗客のほとんどは知らんぷりをしていた。


 寝たふり、スマホ、ガン無視。彼女自身もそれを気にしていないようだった。入り口近くのつり革に捕まるとそこで立とうとしていた。


 それではあんまりだ、と席を譲ろうとすると、


「あの、どうぞ」


 僕より先に、隣にいた女の人が席を立った。


 杖の彼女はお礼を言って僕の横に座った。ピリピリした車内の空気が和らぐ。東京に来てからこう言う場面は何度もあった。まるで誰が席を譲るのか、腹の探り合いをしている様な感じ。


 一番嫌なのは、自分がそんな光景の一つになっていることだったりする。


 ちらりと隣を見ると、杖の彼女はいやに背筋をピンと張って真っ直ぐ前を向いていた。左頬についた赤黒い傷痕きずあとが、あまりに痛々しく見えたので、すぐに目をそらした。


 何駅か行ったところで、彼女はふいに口を開いた。


「カーくん?」


 小学校の時のあだ名だった。思わず彼女のことを見た。杖の彼女も僕のことを見ていた。


「ねえ、カーくん? だよね?」


 今度は確信を得たような感じで言った。ビデオのスロー再生のような、のっそりとした抑揚よくようのない喋り方だった。僕がうなずくと彼女は嬉しそうに笑った。


「わあ。やっぱり。すっごい偶然」


 改めてその子の顔を見る。長く伸びた前髪。白い肌。そこから浮き立つ黒ずんだ皮膚。それに見覚えはない。


 ないけれど、思い出す。


 遠くの方に上がった黒い煙と、サイレンの音はありありと思い出すことができる。


雛沢ひなさわ


「そう。そうだよ。私、雛沢弓花」


「本当に。久しぶりだ」


「ねえ。小学校の時以来? まさか東京で会うなんて。すごいすごいなあ」


 嬉しそうに彼女は言った。見た目の弱々しさからは真逆の明るい笑顔だった。弓花はハッと口をおさえた。


「あ、ごめん。大きい声」


「いや。偶然だな。びっくりした」


「ねー。カーくんがスーツ着てる。お仕事?」


「今は大学生。就活中」


「そっかあ。大学生かあ」


 偉いなあ、と彼女が言う。雛沢は何してるの、と聞こうとする。左顔面についた黒い傷跡を見て、思いとどまる。


「私も。東京に引っ越してきたの」


 彼女は気にせず喋り続けた。


「その前まで福岡にいて。今は落合おちあいの方に住んでる。カーくんは?」


「馬場で乗り換えて、西武新宿線。中井なかいって駅」


「お、中井かあ。近いね。就活大変?」


「かなり。大学時代あんまり何もしてこなかったから、そのツケがきてるのかもしれない」


「ん。うん」


 弓花はあいまいな表情で微笑んだ。

 今考えると僕が喋りすぎたから、弓花は理解できなかったんだと思う。彼女は普段から自分の障害を悟られないように、想像で話を合わせるようにしている。


「私ねえ。実は仕事探しているんだ」


「そうなんだ」


「うん。今は違うところで働いているんだけど。あんまり良くなくて」


「じゃあ、転職活動中だ」


「そうそう。あまり電車は好かんから。移動するの大変だし」


 手に持っているつるりとした杖を、彼女はポンポンと叩いた。


「こんな身体だから」


 困ったように弓花は眉を下げた。


 その時の印象では弓花は明るく、それなりに元気そうに見えた。


「それじゃあね」


 弓花が杖を使って立ち上がる。

 彼女が歩き出すと、通行人は驚いたような顔をして道を空ける。脚を引きずって歩く後ろ姿に目をやりながら、連絡先を聞いておかなかったことを、その時の僕は後悔していた。


 もしかしたら、もう一生会えないのかもしれない。


 そんな不安もあったが、そのすぐ一週間後に僕たちは東西線の車内で再会して、ご飯に行く約束をした。

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