3. 眠り

 

 肉屋のビニール袋を抱えて帰宅すると、弓花は紺色こんいろのパーカーに着替えて、ソファに寝転んでいた。僕が帰ってくるなり、待ち構えていたかのように起き上がって、ホットプレートで牛脂ぎゅうひを溶かし始めた。


「ハラミっ。ハラミっ」


 白いセラミックの上で焼ける肉を見て、弓花は楽しそうにパンパンとテーブルをたたき始めた。


「行儀が悪いよ」


「お腹すいた。そういえば。カーくん仕事遅かったね」


「悪い。残業。また上司に怒られた」


浅見あさみさん?」


「そう。まだ学生気分が抜けないのかー、と」


 僕が上司のしかめっ面の真似をすると、弓花はおかしそうにケタケタと笑う。


「そんな感じで怒られた。週明け仕事行くのめんどいなあ」


「行かないとか」


「そうもいかないんだ、社会人は」


「じゃあ税金さんで暮らそうよ」


「それも良いなあ」


 焼けてきた肉を弓花に渡す。

 口に入れると「おいしい」と彼女はにんまり微笑んだ。


「でも引っ越したばかりで貯金もないし。ほら、また2人で旅行だって行きたいだろ」


「ん。うん?」


 僕の言葉に弓花が困ったように首を傾げる。通じていない。付き合ってから随分たつのに、たびたび会話のペースを間違えてしまう。


 今度はゆっくりと、さっきの言葉を言い直す。


「貯金がない。また旅行に行きたいからさ」


「ああ、そっかあ。そうだね」


 弓花が納得したように深々とうなずく。


 子どもの頃の事故で脳に障害を負った弓花は、あまり多くの言葉を理解することができない。

 5文節以上の会話になると、言葉の意味が分からなくなってしまうことがある。一時期は生活保護(つまり税金さん)で生活していた。


「私ね、行きたいところがあるの」


「へえ。どこ?」


「ここ。見て」


 彼女がスマホの画面をスワイプする。出てきたのは海面から飛び上がるクジラの写真だった。


「ホエールウォッチング」


「へえ。すごいな。どこ、ここ?」


「北海道だって。見てみたいよね。クジラ」


 目を輝かせて弓花は言った。


「ね」


「じゃあ行こうか。連休取るよ」


「あ。やっぱ、ダメだよ。カーくん」


「どうして?」


「だって私たち子ども産むんよ」


 弓花はポンポンと自分のお腹を叩いた。


「クジラなんて見たら。びっくりしちゃう」


「まだできてないのに」


「それでもダメ。当分の間おあずけ」


 弓花はペロリとハラミを完食した。ホットプレートの油をキッチンペーパーで取って、流しでお皿を洗う。弓花はテーブルをきながら、上機嫌そうに鼻唄を歌っていた。YMOの『君に、胸キュン』。彼女が昔から好きな曲だ。


 僕は弓花にどうしても聞きたいことがあった。


「本当にお医者さん、大丈夫だって?」


 彼女の鼻唄がだんだんと小さくなっていく。いつもより低いトーンの声が返ってきた。


「うん」


「身体のこと、何とも言われなかった?」


「問題なしだって。最近調子良いから」


「子どもが産めるくらいに」


「そうだよ」


 そう言うと、弓花はお皿を洗う僕の後ろに寄ってきた。背中越しに手が伸びてくる。腰の辺りに、彼女が頭をこすり付けてきた。


「本当だよ」


「それなら良いよ」


「疑った?」


「心配しただけ」


 弓花の身体は、お世辞にも丈夫とは言えない。生きているのが奇跡みたいなものだった、付き添いで病院に行った時に、弓花の主治医はそんなことを言っていた。


「私、子ども作りたいの」


 リハビリを終えた今はこうして、皿いっぱいのハラミを完食できるようになっていた。


「だめ?」


「いや。賛成」


「本当?」


「もちろん」


「私、元気だから」


 彼女は腕をほどくと、僕の隣に立って食器をふき始めた。


「名前はカーくんが決めてね」


「決められるかなあ」


「可愛い名前が良いなあ。男の子でも。女の子でも」


 彼女はまた鼻唄を歌い始めた。さっきと同じ曲。その横顔はすごく楽しそうに見える。


 歯を磨いて、新しい包帯を巻いて、布団についた。隣で弓花は大きなあくびをした。


「包帯、大丈夫か?」


「うん」


「痛くない?」


「痛み止め、飲んだ」


 弓花はこくりとうなずきながら、言った。


「じゃあ、おやすみ」


 キスをして、弓花の身体を抱きしめて眠る。腕の中で彼女が丸くなる。具合の良い寝床を見つけた猫みたいに穏やかな顔をする。


 彼女の身体をソッと触る。包帯を巻いてない箇所は温かく、反対に包帯を巻いたばかりの左半分は、嘘みたいに冷たい。

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