10. 寂しさ

 

 会社で月末までに作らなければいけない書類と格闘していると、浅見さんが僕の肩を叩いた。


「飯、行くか?」


 時計を見ると、お昼をだいぶ過ぎていた。仕事は終わりそうにないけれど、お腹も空いている。たぶん今日も残業だ。相変わらず血色の悪い浅見さんと一緒に、近くの定食屋まで歩いていく。


 浅見さんは豚汁定食、僕はコロッケ定食を頼んだ。


「珍しいですね」


「ん?」


「浅見さん。いつも弁当じゃないですか」


「ああ」


 頬をカリカリとかいて、彼は気まずそうに言った。


「嫁と喧嘩した」


「何かあったんですか」


「タバコ吸ってるのがばれた」


 中坊みたいだよな、と浅見さんは薄笑いを浮かべた。


「もう40過ぎだぜ。タバコ吸ってて怒られるとか」


「でもこの前、家では吸わないって」


「深夜にどうしても吸いたくなって、コンビニ行ったんだ。帰ってきてバレた」


「奥さんなんて言ってたんですか」


「何て言われたかも覚えてない。罵詈雑言ばりぞうごん。言い返すのもあれだし、そのまま寝たら、向こうは早々に仕事行ってた」


 たくわんをボリボリとかじりながら、浅見さんはこぼした。


「この前言ってた不妊治療だよ。出来たら万事解決なんだけどな。でも上手くいかない。ストレス溜まる。吸いたくなる。八方ふさがり」


「もう正直に言うしか無いんじゃないですかね。タバコ吸いたいって奥さんに」


「許してくれると思うか? 無理だよ。また言い争いになる」


 諦めたように浅見さんは言った。豚汁に口をつけると「あちい」と舌打ちした。仕事以外の浅見さんは、少しうっかりしたような所がある。


「ちょっと変なこと聞いても良いですか」


「なに」


「どうして子ども作りたいんですか」


「そりゃあ。欲しいからだろ」


 ふうふうと豚汁を冷ましながら、浅見さんは僕の顔を見た。


「何? もっとちゃんとした答え?」


「他に答えがあるなら、聞きたいです」


「そうだなあ。どうしてだろうなあ。子どもが可愛いからとか。いや違うな」


 自分で言いながら、浅見さんはううむと首を傾げた。


「何だろう。寂しいからかな」


「寂しいんですか」


「今寂しいとかじゃなくて。ほら、俺ひとりだったら、俺が死んだらそれで終わりだろ」


 後には何も残らないと、浅見さんは言った。


「でも子どもがいたら、子どもは残る。家族は残る。何もないよりはマシだ」


「そうすると寂しくないんですか」


「嫁もそうだろ。できるだけ寂しくないように。心細くないように家族を増やすんだよ。いやまあ。改めて考えたことも無かったけれど」


 お前、本当に変なこと聞くなあ、と今度は慎重に豚汁に口をつけた。


 同じ質問を何度か弓花にしたことがある。彼女は「どうしてだろう。作れるから?」と答えになっていない答えを返す。


 弓花のことがたまに分からなくなる。


 そう言う時に僕は、彼女の殺風景な部屋と「いついなくなっても良いようにしているから」という言葉を思い出す。あの時の不安は、胸の隅でくすぶり続けている。


 弓花が子どもを作りたいと言うのは、前向きなことで、きっと喜んで良いことなんだろう。そう信じたいと思う。僕はコロッケを箸で割って口に運んだ。


「お前の方はどうなんだ。もう子ども考えてんのか。いや、その前に結婚が先か」


「実は。子ども欲しいな、と」


「へえ。すげえな」


 驚いたように浅見さんは目を見開いた。


「じゃあ結婚するのか」


「それは分からないです」


「は?」


「向こうが結婚はあまり乗り気じゃないみたいで」


 弓花にそれとなく、結婚をほのめかしたことがある。彼女は「どうだろうね」とか「別に良いかなあ」とあいまいな返答をする。


「結婚しなくても良いって思ってるみたいで。まあ良いかなと」


「結婚しないで、子どもを産む?」


「彼女がそう望むなら」


「なあ。お前ってさ」


 どこかあきれたように、浅見さんは言った。


「変なやつだよな」


「そうですかね」


「そうだよ。子ども産むなら結婚しといた方が楽だぞ。役所の手続きとか、家買うときとかも」


 僕もそう思う。弓花はそう思っていない。


「無理強いすることでもないので」


「何だろうなあ。いやこっちが新しい常識か。俺も古い人間だからなあ」


 肩をすくめると、浅見さんは白米をもそもそと食べた。


 それから仕事の話になって、作らなければいけない書類のことを浅見さんに報告する。「げ」とした顔になって眉間にシワが寄る。


「ゆとりだなあ」


 仕事はなかなか終わらず、結局その日は残業して帰りが遅くなってしまった。


 弓花はご飯を炊いて待っていてくれた。サバの缶詰とインスタントの味噌汁。浅見さんとの会話を弓花に報告すると、


「寂しくないようにかあ。それもそうかもね」


 一理ある、とうなずいた。


「今、寂しいの?」


 僕は弓花に聞いた。彼女は首を横に振った。


「ううん。今は寂しくないよ」


「じゃあ。どうして」


「寂しさってなくなるものじゃないよ」


 じゃあ何だろう、と彼女に聞く。


「影みたいなものだよ」


 ずっとそこにあるの、と弓花は言った。気がついた時に現れる。ただ寂しさに気がつかなかっただけ。それは前に弓花が自分で言った、痛みについてのことに似ていた。


 気がつかなかっただけ。

 ずっとそこにあるもの。


「ね?」


「分かるようで。分からない」


「じゃあ。分からなくても良いことだよ」


 ご飯にしよう、と弓花はお茶碗を持ってきた。水の配分を間違えてしまったのか、白米は少し固かった。

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