21. 佐月先生
小宮山さんの葬儀以来、弓花の体調の良くない日が続いている。
ご飯もあまり食べなくなってしまった。いつも好きだった無印のカレーも今日はほとんど口をつけずに残している。
「気持ち悪い」
一口食べるなり、弓花はスプーンを置いてしまった。だるそうにソファにもたれかかっている。ミネラルウォーターを持っていくと、ちびちびと飲み始めた。
「最近、全然食べてないけど」
「食欲ない。カーくん食べて良いよ」
「具合悪い?」
「ちょっと熱っぽい」
おでこに触ってみると、確かに熱くなっていた。
「明日、お医者さん行ってみる」
「そうした方が良いと思う」
寝る前になって、弓花の包帯を変えようとすると、傷跡がむくれて
冬が近づいているからだろうか。季節の変わり目は弓花の調子は決まって悪くなる。インフルエンザの予防接種は前に打った。けれど、万が一ということもある。
今日もポツポツと冷たい雨が降っていた。じんわりと濡れたコートを脱いで、小さな喫茶店の窓際の席に腰掛ける。営業終わりで、午後の予定まで時間があった。
コーヒーを飲みながら、外の光景に目をやった。病院の看板が見える。路地に入って歩いていくと、弓花がいつも定期検診に行っている病院がある。
しばらく座っていると、パリッとしたシャツを着た男性が店に入ってきたのが目に入った。
「佐月先生」
「ああ」
弓花の主治医は、僕の姿を見ると「奇遇だね」と微笑んだ。コーヒーのカップ持った佐月先生は、僕の隣に腰掛けた。
「珍しいね。こんなところで」
「外回りです」
佐月先生は穏やかな顔で、コーヒーを飲み始めた。ソーサーにカップを置くと、佐月先生は僕のことを見た。
「どうだい。彼女の調子は」
「あんまり良くないです」
「季節の変わり目だからかもね。言葉の方は、何か困っていることはないかい」
「変わらずです」
「そうか」
佐月先生は言語障害に関する研究会に行っていたらしい。言語障害は、人によって様々な症状がある。左脳に問題があったり、右半身に
「脳の言語
「普通は改善するんですか?」
「改善することもあるし、改善しないこともある。一概には言えない」
佐月先生は、前にそんなことを難しい顔をして言っていた。改善どころか、弓花の症状は日によっては悪化することもある。
「聞いてみたいことがあるんですが。良いですか」
僕は佐月先生と話がしたかった。
実は以前、佐月先生をこの店で見かけたことがあった。出会ったのは偶然ではなく、僕は二人きりに慣れるチャンスをうかがっていた。
良いよ、と佐月先生はうなずいた。
「弓花。どんな子でした」
そう言うと、佐月先生は少し驚いたようだった。
「それはまた。本人に聞くのはダメなのかい」
「あまり言いたがらないので」
「しかし医者には守秘義務があってね」
「話せる範囲で良いですから」
佐月先生は悩ましげな顔でカップに口をつけた。コクリと飲み込むと話し始めた。
「初めて会ったのは、彼女が16。いや17の頃だったかな」
それは弓花が、ちょうど福岡から東京に引っ越してきたくらいの頃だ。
「知り合いの言語聴覚士の紹介でね。診てもらいたい女の子がいると。彼女、最初はあまり喋らなかった。警戒していたんだろうね。私は男だったから」
佐月先生は時間をかけて、弓花の症状を観察していった。彼女の症状は言語の発話に関係している。他人の言っていることが分からない。すると自分が言っていることも伝わっていないように思える。
「誰にも理解されないと言うのは、辛い孤独だ」
弓花が徐々に喋り始めるようになったのは、治療が始まって半年くらい経ってからだった。すると今度は精神的に乱れる場面が増えてきた。
そんな姿は、今でもたまに見せることはあるけれど、頻度は多くない。当時の彼女の精神状態があまり良くはなかったことは、小宮山さんから聞いた通りだ。
「それから」
佐月先生は何か言おうとして口をつぐんだ。
「どうしたんですか。何か」
「いや。あまり君に言うべきことではなかった」
「構いません。知りたいんです」
佐月先生は僕を横目に見ると、すぐに視線をそらした。
「次は好意だ。怒りや拒絶がくるりと一転した」
それを聞いて、僕は唐突に喉の乾きを感じた。砂っぽくて痛い。喉がひび割れたみたいだった。
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