22. 愛情


「こう言う仕事をやっていると、患者から好意を向けられることは少なくないんだ」


 弓花は頻繁に病院に来るようになった。診察が終わったのに、なかなか帰ろうとしないこともあった。待ち伏せのようなこともしていた。弁解するように佐月先生は言葉を足した。


「ほんの一時的なものだ。5歳の少女から70歳のお婆ちゃんまで。好意を向けられたことは多々あるよ」


「弓花の好意を受けたんですか」


「バカ言え。妻がいるし、子どもだって3人いる」


 そう言う時の対処だって知っている、と佐月先生は言った。


「そう言う時の対処って」


「やんわりと無視をする」


「それだけですか」


「そうだよ。それが一番良い。彼女のそれも数ヶ月で終わった」


 佐月先生は僕と目を合わせると、真剣な顔で言った。


「何もないよ。君が想像しているようなことは何も。私は医者で、彼女は患者だ」


 佐月先生は困った顔で僕に言った。


「孤独な人間は、目先の頼れるものに依存しがちだ」


 僕は自分のカップに視線を落とした。コーヒーはとっくに冷めていて、黒い水面に僕の顔が映った。随分とひどい顔をしている。


「なあ。どうして、そんなことを知りたいんだ」


「知りたいんです。知らなかったから」


 僕の言葉に佐月先生はため息を吐いた。


「君がどう思うにせよ。もう終わったことだ。今の彼女は、随分と幸せそうに私には見える。君と一緒になってからだよ。彼氏ができたと嬉しそうに自慢していた」


 僕もそう思いたかった。


 そう思い切ることができないのは、いくら弓花が幸せに見えようが、僕の知らないところできっと弓花が傷ついていることが分かるからだ。


 そうでないと、血が出るまで火傷の跡を引っくことはないはずだ。今でも何かが彼女を傷つけているから、彼女は自分を傷つけている。


 その何かを僕は知りたいと思う。口をついて出たのは小宮山さんの言葉だった。


「シベリア見えますか」


「シベリア?」


「小宮山さんって言う人が言っていたんです。弓花の古い知り合いで。この前亡くなったんですけど」


 僕は佐月先生に小宮山さんの兄の話をした。


「シベリアね」


 佐月先生は興味深げに話を聞いて、それからおもむろに口を開いた。


「君はそれを聞いて、どんな光景を想像した?」


「暗くて寂しい場所です」 


「そうだね。他人は自分を映す鏡だ」


 小宮山さんはそこに自分の姿を重ね合わせていたんじゃないかな、と佐月先生は言った。


「だから小宮山さんという人には見えて、君には見えなかった」


 佐月先生の言うことは理にかなっているように思えた。弓花はシベリアなんて行ったことがない。シベリアと弓花を結びつけられるのは、小宮山さんしかいない。


「小宮山さんは、見えない方が良い、とも言っていました」


「私も同じ風に思うよ。見えない方が良いこともある」


「気にするなってことですか」


「そういうことじゃない」


 佐月先生は首を横に振った。


「見えないものは諦めるしかない。この世界には、どう合っても理解できないことがある」


 それから佐月先生が話したのは、弓花とは別の症例の言語障害のことだった。その患者は、全く意味の通じない言葉を話すそうだ。


 日本語でも、どんな国の言葉でもない。

 そう言う時に「この人は自分と違うものを見ているんじゃないか」と思うことがある。佐月先生はその話をし終わると、腕時計に目をやった。


「ああ。もうこんな時間だ」


 また機会があったら話そう、と佐月先生は席を立った。窓越しに彼が病院への路地を曲がるのを見送って、僕は店を出た。


 予定を終えて帰るときには、真っ暗になっていた。


 地下鉄に降りていくと、帰る人で車内はごった返していた。


 つり革をつかむ自分の顔を見ていると、感情が暗くなっていくのが分かった。相手が佐月先生にせよ、何の関係もなかったとしても、弓花が僕以外の誰かに対して好意を向けていたのは、嫌な気持ちがした。


 今更知ったところでどうなる。それもそうかもしれない。僕は知らなくても良いことを掘り下げている。


 コンビニで冷凍のピラフを買った。弓花に連絡してみたが、返信はなかった。まだ調子が悪いのかもしれない。レトルトのおかゆを買った。念のため食べやすいゼリーも買っておいた。


 家の近くまで歩いて行くと、部屋の電気が消えているのが見えた。寝ているんだろうと思って玄関に入ると、リビングへと続く廊下のところで、弓花が背中を向けてぺたんと座っていた。


「弓花」


 呼びかけると、弓花は我にかえったように肩を震わせた。


 杖が床に落ちている。カバンの中身が散らばっている。どこか外に行ってきた帰りみたいだった。


 弓花は声もなく、僕を見ていた。口を半開きにして、肩で息をしている。


「どうかした。転んだ?」


 近くに行って彼女の身体を確認する。怪我をしている様子はない。


「体調悪い?」


「違う。あの」


 弓花は僕のスーツのそでをつかんだ。ようやく口を開いた弓花は、すごく大きな声で言った。興奮したみたいに、耳の先まで真っ赤だった。


「できた」


 弓花はお腹をおさえていた。


「子ども、できた」 


 頭の奥でパチンと音がしたみたいだった。


「できた。できた」


 弓花は僕の手を握って、また大きな声で言った。途切れ途切れの言葉で、どもりながら彼女は話し始めた。


「最近体調が悪かったから。もしかしたら。つわり、かなって思って。産婦人科に行ってきた」


 弓花は自分のお腹を大事そうにでた。


「5週目だって」


 そこまで言うと、弓花はすごく幸せそうな顔で微笑んだ。


 その言葉を理解するまでに時間がかかった。彼女の報告は今までの世界をガラリと変えてしまうくらい、信じられないものだった。


「すごい」


 最初にポツリとそんな言葉が出てきた。


 ここに僕たちの子供がいる。それがたまらなく嬉しくて、さっきまでのことなんてどうでも良くなってしまった。


「すごいよ」


 こんなに幸せな気持ちになったのはいつ振りだろう。もっとこの感情を言い表す言葉があれば良いのに、僕は思った。


「男の子かな。女の子かな」


 弓花は僕の手を強く握って言った。


「いつ分かるんだろう」


「多分、まだ先だよ」


「ちゃんと調べなきゃだね」


「うん」


 僕がうなずくと、弓花は更に強く手を握った。


「名前も決めなきゃいけないね」


「そうだね。一緒に決めよ」


 弓花は喜びを抑えきれないような感じだった。

 嬉しい、とはしゃぎながら、僕を押し倒して抱きついてきた。今朝まで具合が悪かったのが嘘みたいに、弓花は強い力で僕を抱きしめた。「これからは安静にしなきゃいけないよ」と言うと、弓花はハッとしたように固まった。


「そうだ。そうだった」


 僕の胸に弓花は顔をこすりつけた。

 彼女の顔が当たったシャツの胸のところが、濡れていた。見ると僕に馬乗りになって弓花は泣いていた。涙を流しながら、それでいてニコニコ笑っていた。


 つられて僕も泣いてしまった。笑いながら泣いて、泣き疲れた後に、買ってきた晩ご飯を食べた。食欲が無いと言いながら、弓花は買ってきたゼリーとプリンを3パック食べた。

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