8. 裸の彼女


 初めて弓花の家に行ったのは、再会してから三ヶ月くらいたった夏のことだった。


 その頃には僕の就職も決まり、弓花も転職先で働き始めていた。お祝いをしようか、と僕は彼女をデートに誘った。何を食べたいと聞いたら「回転寿司」と弓花は言った。


「私はアナゴが一番好き。カーくんは?」


 タッチパネルのメニュー表を見ながら弓花は言った。


「サーモン」


「あー。そんな感じがする」


「次点でガリ」


「それは意外だねえ」


 その時の彼女は、緑色のロングスカートと淡いピンクのシャツを着ていた。左顔面の火傷の跡には、白いガーゼが貼り付けてあった。


「カーくん、生姜焼き嫌いだったのに」


「いやあ。そんなことないけど」


「給食の時に良く残してたよね」


「そうだったかな」


「だった」


 弓花は小学生の時のことを、まるで昨日のような感覚で話す。運動会の徒競走で誰が転んだとか、3年の時の担任がギターが上手だったとか。僕がもう忘れてしまったようなことを事細かに話す。


「将来の夢。学童のみんなで書いたん。覚えてる?」


「えっと。2年の時だっけ」


「ううん。3年の時。八丈はちじょうくんが。海賊王って書いてきて。先生に怒られたやつ」


「ちょっと覚えてる」


「カーくんは漫画家だった」


「そうだっけ」


「うん。私。覚えてるよ」


「漫画好きだったからな」


 多分、真面目に考えていなかったんだろう。


 僕がつい最近までなりたかったのはカメラマンだった。それが本気だったかと言うと、今考えるとそうでもない。


 幾つかのコンクールに出して箸にも棒にも引っ掛からなくて、その内やめてしまった。自分には特別な才能はないのだと。そして、そこまでして目指す熱意みたいなものも無かった。


「弓花は?」


「ん?」


「弓花は何て書いたんだっけ?」


「私はねえ」


 運ばれてきたアナゴを、弓花はパクリと口に入れた。


「看護師さん」


「へえ、そうだったんだ」


「うん、それは嘘だった。恥ずかしくて」


「恥ずかしい?」


「本当はバトミントンの選手になりたかった」


「書けばよかったのに」


「ううん。私よりみさきちゃんの方が上手だったから。だから、書けなかった」


 そういえば、そんな同級生もいたなと弓花の言葉で思い出す。背が高くて運動神経が良かった。今何をしているだろう。小学生の頃の友達なんて全然連絡を取っていない。弓花に聞くと、同じように首を横に振った。


「分からん」


「そっか」


「成人式行かなかったし」


「だよな。面倒くさいから行かなかった」


「カーくんもなんだ」


 弓花は口をおさえて笑った。


 しばらく彼女が楽しそうに話す姿を見ていた。最初は会話のペースに戸惑ったけれど、慣れてくると何とも思わなかった。むしろ他の人との会話が、早すぎるような気さえした。


 この頃、僕は弓花のことが好きになっていた。一緒にいて楽しかった。女の子として、弓花を魅力的だと思うようになっていた。


 僕は彼女を家まで送ることにした。杖をつく彼女のペースに合わせてゆっくりと歩いた。歩きながらまた色んな話をした。辺りはもうすっかり夜で、街灯がポツポツと明かりをこぼしていた。


「今日はありがとう」


 弓花が住んでいたのは、落合駅から10分ほど歩いたところにあるアパートだった。白い外壁の小綺麗な建物だった。オートロックもある。カバンから猫のキーホルダーがついた鍵を取り出すと、エントランスのドアを開けた。


「良かったら、あがっていく?」


 誘ったのは弓花だった。

 僕は彼女の後に続いて家に入った。3階だった。エレベーターに乗っている間、僕たちは何もしゃべらなかった。緊張で汗ばんだ手を、僕はポケットに隠した。


「どうぞ」


 お邪魔します、と中に入っていく。


 1DKの室内は夏にも関わらずひんやりとしていた。冷房がついている様子はなかった。その冷たさはどこか現実離れしているように思えた。病院の診察室のような、薬の匂いがした。


 彼女の部屋にはほとんど物がなかった。

 ちゃぶ台と座布団が部屋の中心にある。テレビもソファもない。辛うじて電子レンジはある。他の調理器具はない。


 弓花はカバンをクローゼットの中にしまうと、おずおずと口を開いた。


「お酒、飲む?」


「あるんだ。普段、飲まないのに」


「ほろ酔いだけは飲めるんよ」


 ジュースみたいで甘いから、と彼女はお気に入りだと言うホワイトサワーの缶を開けた。僕も同じものにした。


「スーパーで買ってるんだけど。いっつも年確される」


 ちびちびと缶に口をつけながら、弓花は不満そうに言った。彼女が飲んでいると、本当に小学生がジュースを飲んでいるみたいに見える。


「家で飲むんだ?」


「たまにね。本当にたまに」


「いつも家で何してるんだ」


 彼女の部屋を見回しながら質問する。

 弓花の部屋は人が住むにはあまりに殺風景だった。広さに反して、ものが余りに少ない。空白が多い。彼女の性格からして、もっとにぎやかな部屋を想像していた。


「うーん。どうだろ。本読んだり?」


「本が無いけど」


「図書館で借りてくるから」


「そっか。ミニマリストだ」


「なあに。それ?」


「部屋に物置かない人のこと。良いな。すっきりして見える」


「すっきり。そうだね」


 一口、コクリとお酒を飲み込んで、弓花は言った。


「私は。いつ。いなくなっても良いようにしているから」


 白い蛍光灯の下で言ったその言葉は、良く覚えている。その時の弓花の表情もはっきりと記憶にある。


 弓花が初めて、自分の薄暗い部分を吐き出した時だった。その言葉を聞いて、ひどく胸が締め付けられた。好きな女の子から聞くには、あまりに悲しい言葉だった。


「カーくん。終電なくなっちゃうよ」


 僕が缶を飲み干した頃に、弓花はポツリと言った。薄いカーテンの向こうに小さな月が浮かんでいた。 


 ポケットから汗ばんだ手を出して、僕は彼女に言った。


「あのさ、弓花」


「ん?」


「良かったら」


 僕と付き合ってくれないか、と彼女に告白する。


 弓花はしばらく黙っていた。何かを確かめるように、ジッと僕のことを見つめていた。お酒を飲んだからか、頬がほんのりと赤かった。


 手にはアルコールの缶を持っていた。彼女が手を動かすと、ちゃぷちゃぷと液体の音がする。


「見る? 私の左半分」


 静かな声で、弓花は言った。


「見せても良いよ。カーくんなら」


 誰にも見せたことが無いんよ、と弓花は言葉を続けた。変わらず何の表情も見せていなかった。唐突なことだったけれど、僕はうなずいた。


「見るよ」


「うん」


 弓花は立ち上がり、おもむろにシャツのボタンを外し始めた。パステル絵の具みたいな淡い水色の下着と、白い包帯。スカートを外すと、丁寧にそれをたたんだ。


 弓花の動作のひとつひとつは、何か重要な儀式のように見えた。それは実際そうだったんだと思う。誰かの前で服を脱ぐと言うことは、彼女にとって人一倍、勇気のいることだったはずだ。


 うつむきながら、弓花はするすると包帯を外した。ほどけていく部分から徐々に身体が現れていく。


「ほら。見て」


 弓花がさらけ出した身体の、左部分をスッと伸ばした。


「これが私の10年間」


 彼女の左半身は岩のようにゴツゴツとしていた。風雨にさらされてり切れたみたいに、細く、血管と骨がくっきりと浮き上がって見えた。赤黒い腕は、弓花のもう半分と比べるとあまりに貧相に見えた。何か間違ったものが、彼女の身体に取り憑いてしまったみたいだった。


「火傷の跡。一生消えることが無いの。まだ痛くて。ピリピリとしびれる」


 それから彼女は自分の障害について話をし始めた。

 身体の深部までの火傷。生きているのが奇跡と言われて、何度も植皮しょくひの手術をしたこと。脳に障害を負っていて、今も少しずつ進行していること。長い会話があまり理解できないこと。


 彼女の言葉を聞きながら、僕は涙を流していた。僕と彼女の決して埋めることができない10年間が、ぽっかりと口を開けているようだった。


「どうして泣いてるの?」


 分からない、と首を横に振る。


「そっか」


 弓花はぺたんと僕のそばに腰を下ろした。


「わたしも好きだよ。カーくんのこと」


「うん」


「これから一緒にいてくれる?」


 もちろん、とうなずく。


 弓花は僕の肩に抱きつくと、ゆっくりと顔を寄せて、長い髪の束で涙をふき取った。すぐ近くに弓花の顔があった。瞳がかすかに揺れている。


 弓花の身体を抱きしめた。骨張った左半分も含めて。


 唇にキスをした。舌を合わせて温かくなっていく体温を確かめた。彼女の手の小ささを知った。


「ありがとう」


 そっと耳元で弓花がささやいた。

 僕は幸せで、同時にたまらなく寂しかった。彼女のことを何も知らなかった。何も知らずに生きてきた。彼女のことを、半ば忘れかけていた。


 もっと早く弓花の側にいられなかったことが、僕はどうしようもなく寂しかった。 

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