36. 部屋


 クジラの葬儀が終わった。


 死産の子どもでも葬儀をやってくれるのだと、僕は初めて知った。弓花にも見せてあげたかったけれど、間に合わなかった。両親と兄が来てくれた。白いおくるみに包まれて、クジラは穏やかに眠っているように見えた。


 小さな骨壺は、揺れるとカタカタと音がした。実家に帰るようにすすめられたけれど、僕はクジラを自分たちの家に帰してやりたかった。付き添いを断って、僕はひとりタクシーで家まで帰った。


 玄関を開けると、日を追うごとにきつくなったハラミの腐臭がした。キッチンの床についた血の跡は消えなかった。雑巾とハイターでこすってみたが、床の上に広がるばかりで、ますますひどいことになった。


 クジラの骨の置き場所を考えて、リビングの中央のテーブルにすることにした。隅っこに置くと寂しいと思った。けれど、どこに置いても変わらなかった。どこに置いても、ポツンと寂しそうに見えた。


 この匂いのせいかもしれない。


 腐ったハラミを冷蔵庫から出して、ホットプレートで焼いた。焼いて漂った匂いはもっと酷かった。吐き気をこらえながら、僕はハラミを口に入れた。


 折れてない方の奥歯で噛むと、肉はゴムのように曲がった。ようやく噛みちぎると、むせ返るようなひどい匂いの液体がこぼれてきた。吐き出さないように口をおさえて飲み込むと、折れた鼻からボタボタと緑色の汁が垂れてきた。それがだんだん赤くなっていく。鼻血が止まらなくなった。


 ハラミの量は思っていたより多かった。弓花一人では食べきれなかったかもしれない。ホットプレートで焼いて食べていく内に、今度は腹が潰れるように痛くなった。もう吐き気を我慢できなかった。


 トイレに駆け込んで、全部を吐いた。それでも腹の痛みはおさまらなかった。出してみると、下痢になっていて、肛門のところが熱くヒリヒリと痛んだ。棚の上に正露丸があったので飲み込むと、それは歯だった。


 誰がこんなところに置いたんだろう。思った時には飲み込んでいた。


 歯は僕のお腹を転がっていった。それのせいか、胸焼けがますますひどくなっていった。身体に震えがきて、手に力が入らなくなった。持っていた正露丸の瓶が床に落ちてガシャンと割れた。


 今度は腕に痛みが走った。

 見ると、正露丸のガラスが右腕の手首に突き刺さっていた。赤茶色の破片を引き抜くと、一筋の傷になっていった。思っていたより深くまで刺さっていて血がたくさん流れた。


 立ち上がろうとしたけれど、うまく力が入らなかった。


 お尻の方が冷たかったので、触ってみると緩めのうんこだった。あまりに臭かったので、僕はまた吐いてしまった。吐くものがなくなると、熱い胃液が出てきた。喉の奥も痛くて、うまく声を出すこともできなかった。身体がだるい。気絶なのか睡眠なのか分からないくらいで、気を失った。


 次に目を覚ました時、水みたいなうんこと血を下に敷いて、横になっていた。茶色と赤が混じって、ひどい匂いがした。また気分が悪くなって、胃液を吐いた。


 手首の傷跡をみると、血はまだ流れていた。正露丸の瓶が古かったからか、傷跡は真っ赤に膨れ上がって、大きなミミズ腫れになっていた。動かそうとしても、全然力が入らなかったので、もうダメかもしれないと思った。


 そのうち、全身がしびれて感覚がなくなっていった。胃液まで吐き出してしまったので、おそらく脱水症状だろう。身体が冷たくなっているのが分かった。


 また意識が遠くなったので、僕はこのまま死ぬんだろうと思った。どうせ死ぬなら早いほうが良いと思って、落ちていた正露丸の瓶の、一番大きな破片を手にとって、何度も自分の腕に突き刺した。自分で切ろうとすると、意外と難しいことが分かった。それでも、僕はやり続けた。水たまりになるくらい血を出そうと思った。


 痛みがあると、臭さを忘れることができるのが幸いだった。身体の中に、まだ血はいっぱい残っていた。ただ、これから死ぬことを考えると気分が悪くなったので、また吐いた。この後に及んで、僕はまだ臆病だった。


 便器の上を白いものが転がっていった。

 さっき食べた歯だ。食べたことすら忘れていた。胃液混じりの赤っぽい便座に浮いた歯を、僕は手に取った。


 その歯を見て、僕はそれを弓花が光に透かして、眺めていたことを思い出した。「この人。死んでも帰る場所がないんだ」弓花がそう言ったことは、遠い昔のことのように思えた。


 僕はしばらく、弓花がそうしたように、歯を眺めていた。


 蛍光灯の下で見ると、たくさんの傷がついていることが分かった。僕の奥歯より大きい。持ち主はがたいの良い人だと想像した。修一さんが言っていたことをふっと思い出した。


「どこかに救いのようなものはあると思うんです」


 そんなものはない、と僕は思う。救いなんて、幸せな誰かが考えた綺麗事だ。


 今の僕には、何一つ見えなかった。


 救われない人間は語らない。語る言葉を持たない。少なくとも彼女はそうだった。


 救われない人間は、みんな言葉を持たない骨になっている。


 僕も同じように骨になりたいと思った。そうすればどんなに楽だろうか。また意識が遠くなっていった。

 

 次に目が覚めた時、どうしてか分からないけれど、体温が戻っていた。悪いものを全部出したからだろうか。後に残ったのは手首の血と、下痢便だけだった。死にたいと思った時に死ねない僕の身体は、あほだと思った。


 どうにもならないので、垂れ流したものを片付けてトイレに流した。正露丸の歯は、迷った挙句に枯れたポインセチアの鉢に埋めた。右腕のミミズ腫れは、赤黒く変色したまま、もう元には戻らなかった。

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