37. 弓花
4月が終わろうとしていた。
僕たち家族三人はみんな別々のところにいた。ひとりは生きていて、ひとりは死んでいる。もうひとりはその間にいた。みんなひとりぼっちだった。
クジラの骨壺は、青紫の風呂敷に包んでいた。ものがなくなった家で、リビングの中央のテーブルに置いてある。あまりに寂しく見えたので、僕はその横に弓花が大事にしていたスノードームを置いた。それでもまだ寂しく見えたけれど、もうどうして良いか分からなかった。
歯を植えたポインセチアの鉢は、窓際に置いてある。枯れた枝は形を失って、崩れ始めていた。
病院のベッドの上で、弓花の身体は日を追うごとに小さくなっていた。痩せて骨張った身体は、もうすっかり老人か、産まれたばかりの赤ん坊のようにも見えた。
僕の昔のことは話し尽くしてしまった。
話してみると、僕の今までの生活はペラペラで何の面白味もないように思えた。どれだけ薄めて書いても、A4の原稿用紙も埋まらなそうだった。
話すことがなくなったので、僕はベッドの脇の椅子に座り直して、これからのことを話した。
弓花は
「しれとこ? どこだっけ?」
弓花が首をかしげるところを想像する。
北海道、と僕は言う。弓花は納得したようにうなずく。
「良いね」
知床で見られる鯨は、弓花が前に言ったように船を転覆させることもない。ちゃんと離れたところから観察する。でも運だったり天候が関係してくるので、見られないことがある。
「それは仕方ないよ」
そう言うこともあるよ、と弓花は言う。何もかもが上手く行くわけじゃないから、と言う。僕もそれに同意する。
「知床にはね。イルカやシャチもいる」
「シャチも」
「見たことある?」
「ない」
弓花は目を輝かせる。
「シャチも大きくて強いよ」
そう言って、弓花が喜ぶところを想像する。
僕は旅行を計画をする。
飛行機を使って
知床は鯨以外にも沢山見るところがある。きっと楽しいはずだ。その時は晴れていると良い。
「どうだろう」
「完璧だと思う」
弓花が楽しそうにするのが分かる。
「行こうよ」
賛成、と弓花は笑う。けれど、すぐに考え込むように顔を伏せる。
「でも。それってさ」
腕を組んで彼女は言う。
「私がしたいことであって。カーくんがしたいことじゃないよね」
弓花は困ったように微笑んでいる。
「ほら。カーくん。あまり何も言わんから」
シャワーの冷たさを思い出す。弓花はいつだって正しい。あの時はとても幸福だった。ずっとあんな気持ちだったら良いけれど、そう上手くはいかない。辛い時だってある。辛い時の方が多い。
僕は自分がしたいことを考える。
したいことなら沢山ある。今なら言える。
「本当はさ」
家に帰って無印のカレーを食べて、タイミングが合えばセックスをして、それから焼肉を食べる。彼女が好きな牛タンとハラミが冷蔵庫にある。全部食べ終わったら歯を磨いて、ベッドまで彼女の身体を運ぶ。「わあ」と楽しそうな反応が返ってくる。立川のニトリで買ったベッドの上で、唇と頬にキスをする。
夢の無い深い眠りにつく。
朝起きたらホットケーキを食べる。お布団みたいだねと彼女が言う。口にいっぱいにケーキを頬張りながら「美味しいね」と笑い合う。僕は彼女の唇についてしまった蜂蜜をふく。照れ臭そうに彼女がはにかむ。
やりたいことはまだまだある。言葉にすると、止まらなかった。これは良い。これならいくら話しても話し足りない。
しばらくはこうしていられる。もうしばらくは。
弓花は時間をかけてゆっくりと死んでいっている。そう遠くない将来に、僕は弓花の全てを失うだろう。彼女の手を握りながら、その冷たさに
話し疲れた僕は、彼女の痛みを想像する。そう言う時に決まって思うのは、赤々と燃える炎のことだった。
その炎はずっと長い間、燃えていた。ジリジリと確かな痛みを伴いながら、弓花を傷つけ続けている。
結局、僕は何も彼女のことを知らなかったんじゃないかと思う。何度セックスをしたところで、僕たちが共有できるのは快楽くらいだった。気持ち良くなって、熱くなった頭で、全部を理解できたと勘違いしている。痛みはずっとそこにあって、互いの内でなおざりになったままになっている。
目を開けると、ベッドの奥に荒涼とした景色が広がっていた。目的もない。目印とするものもない。ただ虚しいだけの人生が僕の目の前にあった。
これで僕の話はおしまいだ。
もう語るべき言葉はない。彼女がそうだったように。僕たちは孤独で、たまらなく寂しい。それが消えてなくならないと言うことは、もう知っての通りだと思う。
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