終. クジラ
弓花が目を覚ましたのは、クジラの葬儀が終わって1ヶ月後のことだった。
僕が席を外している時に、巡回の看護師が彼女が目を開けていたのを発見した。僕が駆けつけた時には、弓花は再び目を閉じてしまっていた。
その頃には、僕は仕事を辞めていた。
ほとんど一日中、弓花の側にいる日々の中で、意識を回復させた弓花を見ることができたのは、最初の覚醒から二週間ほど経ってからだった。
いつも通りベッドの側に座って、弓花に話しかけていると、弓花の目がうっすらと開いているのを見た。
灰色の濁った瞳だった。痩せて落ち
「弓花」
呼びかけると、ぽかりと口が開いた。「あ」の形だった。何を言いたいかはもう十分に分かった。
弓花は自分のお腹の方を見ていた。
「クジラは。いない」
嘘をつくのはやめようと思った。
弓花には本当のことを言おうと、僕は決めていた。
「ダメだった」
その事実が弓花を傷つけることは知っていた。
瞳の動きが止まって、まぶたがゆっくりと降りていった。
それから、またしばらく弓花は目を覚まさなかった。深いまどろみの中にいて、生きているのか死んでいるのか分からない状態が続いた。
これで良かったのだろうか。本当のことを言っても、胸の重みは取れないままだった。弓花がどうすれば救われるのか、僕には分からなかった。
クジラの骨壺の前で、自問する日々が続いた。貯金を削る生活だった。生きるためには働かなければいけない。そんな気力も湧かず、少しでも節約するために、モヤシに醤油をかけて食べて暮らした。
再び事態が変わった時には、夏が終わっていた。
弓花が目を覚ました。
今度ははっきりと呼びかけにも反応するようになった。起き上がることはまだできないけれど、手を動かしたりすることができた。
右半身には麻痺が残った。
脳梗塞を起こした箇所は左側だった。言語に関わるところだった。弓花はもうすっかり言葉を失ってしまっていた。
何かを喋ろうとするけれど、弓花の口から出てくるのは要領を得ない「あー」と言った音の塊だった。僕からの言葉もほとんど、弓花には通じていなかった。
耳は聞こえていて、呼びかけには応じる。僕が声をかけると、麻痺していない左側の唇がぴくりぴくりと動いた。
そのうち、食事を取るようになった。
口が満足に動かないので、食べるとしてもドロドロとした流動食だった。多分美味しくないのだろう。食事の後は不機嫌そうな顔をしていた。
髪を切った。
今は耳の少し下くらいまでだった。痩せた腕はそのままだったけれど、肌にはかすかな温かさを感じた。
以前はできていた読み書きは覚束なくなった。佐月先生によると、スコアは前の半分もないらしい。言語聴覚士の人がリハビリに来てくれているけれど、成果は
佐月先生は僕たちに、大きなスケッチブックをプレゼントしてくれた。言葉の代わりに絵や記号で、僕たちはコミニュケーションを取るようになった。イエスは丸、ノーはバツから始めて、徐々に記号を増やしていった。数が描けるようになってからは、だいぶ意思疎通が取りやすくなった。
次は動物。弓花が最初に覚えたのは鳥だった。黒いクレヨンで、ぐしゃぐしゃの羽根の生えた生き物を描いた。
「
弓花は僕を見て、微笑む仕草をした。
その絵はリビングの壁に飾った。
次に覚えたのは鯨の絵だった。丸まった胴体から潮を吹いている、子どもっぽい絵だった。
弓花はその絵を見せながら、首を傾げていた。
僕は弓花が何が言いたいか分かってしまった。
「クジラは」
もういないんだよ、と弓花に言う。
そう言っても弓花は聞かずに、鯨の絵を僕に見せ続けた。何かを訴えるように、その絵をずっと持っていた。僕が視線を伏せると、弓花も諦めたようにスケッチブックを閉じた。
そんなことが何回が続いた。そのたびに僕は弓花にクジラがいないことを言い聞かせた。
多分、何もかもが通じていないんだろう。「いない」と弓花に言うたびに胸が締め付けられるような思いがした。理解していないのが良かったと思うと同時に、この事実を弓花が理解してしまった時のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。
クジラはいない。
僕たちの子どもは、この世界にはいない。これから先もずっと。
「いないんだ。もう」
こんな単純な言葉も弓花には通じない。
その日も弓花は同じ絵を描いていた。青い海に浮かぶ鯨の絵。ベッドの上で身を起こした弓花は、白いスケッチブックに一生懸命にクレヨンを走らせていた。
出来上がると、また僕に見せてきた。目を細めて弓花は僕を見ている。
「もうクジラはいないんだ」
言いながら、バツの印を掲げてみせる。弓花は首を横に振った。
また絵を描いている。海面から顔を出した鯨は、水色のクレヨンで潮を吹いていた。ニコニコと笑う鯨の横には、小さなボートが浮かんでいた。
弓花はスケッチブックを僕に差し出した。
「いないんだよ」
受け取りながら、大きな声を出してしまう。
ピクリと肩を震わせた弓花が、怯えたような瞳をする。「ごめん」と謝って、安心させるための微笑みを向ける。
ペンを持って伝えようとする。何か彼女に伝える言葉、記号や文字。考えようとするけれど、思いつかない。僕は固まって、空白のままのページを彼女に返す。
「死んでしまった。だからいないんだ」
骨になってしまったんだ、と僕は彼女に言った。
すると、弓花はスケッチブックを閉じて、不自由な右手をついて、ゆっくりと身体の向きを変えた。
手招きするように左手を動かすと、弓花は僕に身体を委ねてきた。すっかり細くなった彼女の身体。出会ってから今までで、一番小さくなってしまったかもしれない。
僕は彼女が、泣いているんだろうと思った。
冷たい水滴が手の甲に落ちていた。ハンカチで彼女の涙をぬぐおうとすると、顔をあげた弓花は乾いた瞳で僕のことを見ていた。
口からかすれた音を鳴らして、弓花は震える手のひらを自分の髪に置いた。髪を拳で握ると、それを小さく束にした。
手に握った髪で、弓花は僕の顔をゴシゴシとこすった。すると、僕のほっぺたを冷たい滴がボロボロと落ちていっていた。
それで僕は、泣いているのが自分だったと言うことに気がついた。弓花の短い髪ではふきとることできずに、涙は次から次へとシーツに垂れて
泣き始めると止まらなかった。声も出なかった。ただ涙を流していた。僕はクジラが死んでしまってから、初めて泣いていた。
「ごめん」
僕は泣きながら、再びスケッチブックに目を落とした。水面のボートには僕と弓花、二人の人影があった。鯨から吹き出した潮の水が、雨のように僕たちに降り注いでいた。
僕がそのボートを指差すと、弓花はコクリとうなずいた。
「ごめん」
弓花が分かっていないはずがない。弓花はずっとクジラと一緒にいた。僕なんかよりずっと長くいた。クジラがいないことくらいもう分かっている。
腰を上げて、僕は病室を出た。
一階にある図書室で動物の図鑑を借りてきた。分厚い図鑑の中に、僕は青い海面を突き破る巨大な鯨の写真を見た。
病室に戻って、僕はその図鑑を開いた。
弓花は身体を起こして、僕の隣でジッとその写真に目を落とした。
「マッコウクジラ」
巨大な鯨だ。
僕は手を大きく広げて、その大きさを表現する。すると弓花は何かを思い出したように、こっちを見て、鼻のところで拳を丸く握って見せた。
鼻を伸ばす仕草だ。僕は大きくうなずいた。
「そう。ピノキオが飲まれるクジラ。頭が大きい」
同じ仕草で答えると、弓花は満足そうに微笑んだ。僕たちは再び、たくさんの写真に目を落とした。
シロナガスクジラとその子ども。オキアミの群れを飲み込んでいる。海面から飛び上がるザトウクジラ。この行動はブリーチと呼ばれている。巨大な身体は波しぶきを立てて、晴れた空に飛び上がっている。夕暮れの海に沈んでいく白いまだらの尾びれは、ホッキョククジラのものだ。
たくさんの写真を見た。それを見ながら、いろいろなことを、身振り手振りで彼女に伝えてみせる。
全部が伝わっているのかは分からない。
次のページをめくる。夢中になった彼女の身体が、僕に寄りかかってくる。
弓花と一緒に図鑑を読みながら、僕は耳の奥で水が跳ねる音を聞いた。雨の音に似ていた。外では、本当に降っていたのかもしれない。窓の外を見る必要はなかった。僕の視線は弓花と同じ、大きな
ベッドの側で、二人でボートに乗っているところを想像した。
ゆらゆらと不安定に揺れている。いつ転覆してしまうか分からない恐怖に、ずっと襲われている。僕は弓花の手に触れながら、いずれ彼女を失うことを恐れた。それはどうしても、避けようがないことだった。
せめて僕は、今の生活が長く続くことを切実に願った。
これ以上何も奪われませんように。良いことも悪いことも起こりませんように。そんなことを考えた。いつの間にか耳鳴りは止んでいて、雨の音に代わっていた。
やがて弓花の視線が、ページの最後の方まで進んで止まった。
それを確認して、それから僕は、また次のページをめくった。
〜おしまい〜
幼なじみと子作りを始めた。 スタジオ.T @toto_nko
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