32. 痛み

 

 弓花の声が途切れてすぐに、僕は救急車を呼んだ。彼女を受け入れてくれたのは、いつも定期検診で通っている病院だった。


「子宮から、胎盤たいばんがれかかっている状態です」


 病院に到着して、弓花の容態が一刻を争う危険な状態だと言うことを聞いた。


「出血がひどく輸血をおこないつつ手術しています」


 搬送された時には、弓花の意識はほとんどなかった。本来は出産後に剥がれるはずの胎盤が、お腹の中で剥離はくりしかかっていた。2週間前の超音波検査では分からなかった突然の異変だった。


 今、手術室では予定を早めて帝王切開をしていた。剥がれかかった胎盤を、完全に取ろうとしている。きっと血がたくさん出ている。そんな光景を想像してしまって、まともでいるのはもう無理だった。


 耳の奥で音叉おんさを叩いたみたいなキンキンした音が、ずっと鳴ったままだった。まだ悪い夢の中にいるみたいだった。地面がぐらりと溶けて消えてしまうんじゃないかと思った。不安定で、立っていられなかった。


「お腹の子は」


 聞くと、看護師は目を伏せて言った。

 クジラは子宮の中で酸欠を起こしていた。手術を始めた頃には心肺停止していた。それ以上のことは聞けなかった。


「他にご家族の方は。連絡取れますか」


 説明してくれている看護師の表情から、これから起こるであろう最悪のことを想像した。僕は首を横に振った。


「いません」


 弓花はひとりだった。ずっとひとりだった。


 待合室に案内された。広い部屋の白いソファに僕は座った。


 まだ手術は続いている。僕にできることはなかった。祈ろうにも、浮かぶのは恨みや呪いの言葉ばかりだった。


 弓花は色々なものを諦めてきた。普通に生きている人が享受きょうじゅするであろう当たり前のものを、彼女は何ひとつ与えられてこなかった。すれ違う若い家族連れや、小さな子どもが憎らしく思えてくる。


 彼女はずっと一人で、痛みに耐えてきた。それなのに、また奪われていくばかりだ。


 時間だけが進んでいく。手術は深夜まで及んでいた。


 痛いし、苦しんでいるだろうと思う、


 僕が信じられないのは、弓花がそれに関して、今まで何ひとつ恨み言を言ったことはなかったことだった。辛いとか痛い。それ以上のことは弓花は言わなかった。


 どうして私だけがこんな目に、ときっと思ったはずだ。恨みとか、呪いがあったはずだ。


 もっと怒って良かったはずだ。もっと欲しがって良かったはずだ。きっとあったはずなのに。もっと言って欲しかった。本当は、そういうことを知りたかったのだと、僕は初めて気がついた。僕と彼女のぽっかりとした空白は、そこから始まっているように思えた。


 目を覚ます時に彼女が見るものを想像して、最悪な気分になった。


 彼女が望んだ幸せはなんだったんだろう。僕は答えを知らないままだった。


 弓花が子どもを欲しいと言った時。「子作りしよう」と言った時。


 そのもっと前。


 震える身体で僕のものを受け入れた時。怖がりながら「やめられる方が辛い」と言った時。


 あの時、本当は、弓花はやめて欲しかったんじゃないか。


 恐怖に潰されそうになりながら受け入れたのは、自分のためじゃなくて、僕のためだったんじゃないか。時計の針は二回りして、待合室にはもう僕一人になっていた。


 部屋は広くて冷え冷えとしていた。周りが白いものばかりで、尚更寒く思えた。冷房を切ってもらおうと、人の姿を探したけれど、辺りには誰もいなかった。


 震える身体をさすりながら、ソファに戻る。たくさん血が出ていると言った。きっとすごく寒いだろう。僕なんかとは比べものにならないくらい。指先がピリピリとしびれてきた。


 弓花が子どもが欲しいと言った時、断るという選択肢もあったんだ。


 コンドームを外した時、内心喜んでいた自分がいた。普通の家族になれるんじゃないかと期待をしていた。それによって手に入る幸福のことを、僕は考えていた。


 セックスをして恋人になって、子どもを作って家族になる。そうすれば、きっと幸福になれる。幸福であれば同情されずに済む。ひとりの人間だと認めてもらえる。当たり前のように自分が感じていたことは、ひとりよがりの欲望でしかなかった。


 弓花は違うんだ。


 彼女は、もう全部を諦めたはずだった。戦いすぎるほどに戦ってきた。弓花は、これ以上傷つく必要なんてなかった。恐怖に潰されそうになりながらセックスする必要も、吐き気と痛みに耐えながら子作りをする必要もなかった。


 弓花が最初に、僕に傷跡を見せてきた時のことを思い出す。


 あれでもう限界だ。立っているだけでやっとで。生きていることが奇跡みたいで。ただ隣にいて欲しい誰かを求めていた。


 弓花はずっと寂しくて仕方がなかった。それを埋めるためには、傷つくことをいとわなかった。彼女にとっては痛いより寂しいの方がずっと辛かったんだろう。今になってそんなことを思う。


 壁の時計は深夜2時を指していた。


 弓花の家が火事にあった時間だった。 

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