31. 未来


 駅に着くとエスカレーターが故障していて、長い階段を歩かなければいけなかった。シャツの下がじんわりと汗ばんでいる。会社に着くと、先にいたのは浅見さんだけだった。


「おはようございます」


「おはよう」


 小さく会釈えしゃくをすると、浅見さんはあくびをしながら新聞をめくり始めた。顔色は前よりか少し良い。


 浅見さんは不妊治療をやめていた。

 結局、最後までうまくいかないままだった。これで最後にしようと相談して終わりにした。浅見さんが僕にそう言ったのは、つい二週間前の話だ。


「要は疲れたんだ」

 

 仕事の話のついでに浅見さんは言った。もう我慢しなくて良いんだ、と美味しそうに電子タバコをふかしていた。


「長い戦いだったよ」


 悲しんでいるのかすら分からない。浅見さんのそんな表情を、僕は弓花に似ていると思った。「いつ、いなくなっても良いようにしてるから」と言った弓花も、こんな風にのっぺりとした抑揚よくようのない表情だった。


「普通って人それぞれだからな」


 お前の受け売りだよ、と浅見さんは笑った。無理をしているような笑顔を見て、僕はやりきれない気持ちになった。


 みんなが普通になれる訳ではない。

 他人が当たり前のように持っているものを、諦めるのはひどく辛い。同じ言葉を僕が言った時、本当は少し強がっていたことを、浅見さんに言えないままだった。


 実際のところ、僕は人の普通を、すごくうらやましく思う。


 痛みのない生活だったり、包帯を変える必要がなかったり、どうでも良い話を長々としあったり、階段やステップのことを考えずに歩いたり、薬臭い病院に行く必要がなかったり、転ばないかヒヤヒヤせずに一緒に公園を散歩したりしてみたいと思う。


 同時に「してみたい」と思うと胸が締め付けられるような罪悪感を感じる。「してみたい」を一番思っているのは僕ではなく、弓花だ。


 思えば、弓花は無理なことをねだったことがない。深夜に牛タンを食べたいとわがままを言うことはある。でも杖を使うのも、定期検診に病院に行くのも、弓花は嫌だなんて言ったことはない。


 弓花は当たり前に、自分の境遇を受け入れている。その境遇は周りからすると特殊で、みじめに思われることがある。実際に弓花がどう思っているかは分からないけれど、彼女は自分を不幸だなんて言ったことはなかった。


 弓花が薄暗い感情を吐き出したのは、最初に僕に傷跡を見せた時くらいだった。それもすごく静かな動作だった。泣くこともしなかった。必死に感情を押し殺していたのだと、今となっては思う。


 僕たちは痛みや辛さを共有することが、あまりできていない。


 浅見さんも同じように、そんな感情を僕の前で吐き出すことはなかった。いつも通り働いて、コーヒーを飲んで、電子タバコを吸っていた。言葉にする必要のないこと、しても解決しないことは、口には出さなかった。


 そう言うものは、いつか解決するんだろうか。僕にはそう思えなかった。痛みや寂しさはずっと残るのだと、弓花は言っていた。


 心配だったので、昼休みになって弓花に連絡した。「調子はどう?」とメッセージを送ると、すぐに連絡が返ってきた。お腹が張っていてあまり食欲がないらしい。「ハラミって気分じゃないかも」と首を傾げるクマのスタンプと共に返信がきた。


 打ち合わせは3時からだった。これが終わったら早退はやびけしても良さそうだった。発注先の担当から送られてきた資料があったので、改めて目を通すことにした。


 病院の建て替えの工事で、そこで使う資材を僕たちの会社で請け負う。大きな案件だった。


 仕事に集中するべきなのに、病院の完成図を見ていると、別のことが頭を過ぎった。


 弓花の入院のことを考えていた。

 歯ブラシをリュックに入れるのを忘れていた。手鏡と一緒に買わなきゃいけない。鏡はどんなものが良いだろうか。昼休みにネットで見た、水色と白のストライプのものは気に入りそうだ。


 それから出産予定日を両親に伝えないといけない。もし孫の顔を見たら、少しは僕たち家族のことを認めてくれるだろうか。


 ふと目を落とすと資料の中に、手を繋いで歩く子どもと母親と父親のイラストがあった。病気の祖父らしき人が、ベッドで3人を出迎えていた。


「明るくて、家族で過ごしやすい病院がコンセプトです」


 先方の担当はそんなことを言っていた。 

 紙の上の家族はみんな笑顔で、幸せそうに見える。僕は自分の未来の姿を、それと重ねて合わせてみた。


「どうした。ぼうっとして」


 振り返ると、浅見さんが後ろに立っていた。資料を見ながら、浅見さんは「ああ」とうっすらと微笑んだ。


「良いよな。俺もこんなところに入院できる身分になりたいよ」


 冗談めかして笑いながら、浅見さんは自分のデスクに座った。


 また資料に目を落とす。

 今度は唐突に、耳鳴りが始まった。


 会社の電話が鳴ったのが聞こえた。浅見さんが応対していた。その声が遠くに聞こえる。


 耳鳴りは最初は小さく、時間が経つごとに大きくなっていった。気分が悪くなってくる。目を開けると、再びさっきの家族のイラストが目についた。


 明るくて幸せな家族。 

 浮かんだ言葉に胃がぐるりとひっくり返って、吐き気がこみ上げてきた。思わず口を押さえた。理由は分かった。


 自己嫌悪だった。

 自分自身と、この家族を重ね合わせてみて気がついた。


 僕はこんなものが欲しかったのか。

 胸のうちで湧いた憧れとしか言えない感情が、たまらなく嫌だった。

 

 この光景は僕たちとは遠い。

 こんな普通の幸せは、僕と弓花が生きる世界から、すごく遠くにあるものだ。


 それを一瞬でも「うらやましい」と感じて、自分が情けなかった。知らず知らずのうちに自分が抱えていた欲望は、あまりにも平凡なものだった。


 親子三人で手でも繋いだら、胸を張って歩けるんじゃないか。まともで普通の人間になれるとでも思っていたのか。


 僕は、思っていたみたいだ。


 その感情をひどく醜いと思った。


 幸福を取りつくろおうとしていたんじゃないか。父や兄と同じように、家族を作れる普通の人間になりたかった。本当はそうだ。ずっとうらやましかった。


 普通なんて人それぞれだと言っておいて、僕は焦がれるほどに嫉妬しっとしていた。もしかしたら弓花は、僕の欲望を知っていたんじゃないか。


 だから「子作りしよう」と彼女は僕を誘ったんだ。自分が寂しいからじゃない。僕の欲望のためだ。


 妊娠して、痛みや苦しみを背負うのは弓花なのに。そんなことすらも僕は分かっていなかった。


 遠くの方から声がした。浅見さんが僕を見ていた。真っ青な顔で浅見さんは言った。


「電話が」


 その表情から、ただ事ではないのは分かった。嫌な予感と共にまた耳鳴りが大きくなった。辺りが急に真っ白く、人間がみんなのっぺらぼうになった。


 手がいやに汗ばんでいたのを覚えている。デスクにポツンと置いてある受話器を手に取った。 


「弓花?」


 呼ぶと、うめくような低い声が返って来た。


 もう一度呼ぶと、受話器の向こうで、コクリと唾を飲み込む音がした。


「血が。止まらない」


 それが、僕が聞いた弓花の最後の言葉だった。

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