18. 雨


 カーくん、と最初に僕のことを呼んだのは弓花だった。小学校の学童クラブの頃の記憶がある。二年生に上がったばかりだった。帰りの時間に流れる、夕焼け小焼けのチャイムが鳴っていた。


「カー。カー。カラスのカーくん。帰りましょー」


 僕の横にやってきて、弓花は歌い始めた。


 その響きが気に入ったらしくて、弓花はそれから僕のことをカーくんと呼ぶようになった。他のみんなも真似して、小学校の間は「カー」とか「カーくん」と言うあだ名が定着した。


 弓花と良く一緒に遊んでいたのは、小学校一年生から三年生の頃だった。遊ぶと言っても弓花は外遊びが好きだった。鉄棒が得意で飽きずに、何周も回っていた。


 反対に、小さい頃の僕は本を読むのが好きだった。学童クラブのボロボロの図鑑とか絵本を帰る時間になるまで読んでいた。


「カーくん。なに読んでる?」


 彼女が声をかけてくるのは、ほとんど雨の日だった。雨の日は外で遊ぶことができない。トランプとかボードゲームをやり尽くした弓花は、退屈しのぎに僕が読んでいる本をのぞき込んできた。だから彼女との思い出は、いつも雨が降っている。


「私も一緒に読む」


 そう言って弓花は僕の隣に座った。


 窓の外は薄暗くて、水滴が窓についている。ざあざあと降り注ぐ水の音。校庭の桜の葉が、雨を弾いてパチンと音を立てる。


「あ。待って」


 僕が本のページをめくろうとすると、弓花はスッと手でおさえた。


「まだわたし、読んでる」


 一緒に読んでいると、いつの間にか本を読む主導権は弓花に移っている。僕は彼女が読むペースに合わせて、本をめくる。視線が最後の文字に行ったことを見計らってページを進める。


「これ。どう言う意味?」


 弓花が分からないひらがなを指差している。


「けっぺき?」


「きれい好きのこと」


「カーくんは物知りだね」


 ひとりで読ませて欲しい、と最初の頃は思っていた。弓花は読むのが遅いし質問も多い。その内飽きるだろうと思っていたけれど、弓花が途中で投げ出すことはなかった。


「ああ。面白かったねえ」


 最後まで読み終わると、弓花は満足そうに笑って、またどこかに遊びに行く。面白かった以上の感想を弓花が言ったことはなかった。


 けれど不思議なもので、弓花に「面白かった」と言われると、その本は本当にすごく面白かったように思える。読んでいる間は何とも思わなくても、彼女がそう言うと素敵な物語になる。


「カーくん。今日は何読んでる?」


 小学生の僕は、弓花といる時間を嫌いじゃないと思うようになっていた。誰かと一緒の物語を共有するのが、楽しいものだと初めて知った。


 その記憶は、しとしとと降る雨の音と重なって、すごく幸福なものとして僕の中に残っている。周りを気にすることなく、2人で同じものを見ていた記憶は、かけがえのないものになった。


「今日のも面白かったねえ」


 その時間だけ、僕は自分自身の孤独を忘れることができた。子どもの頃から、僕は友達を作るのが上手ではなくて、家でも学校でもひとりでいることが多かった。


 小学四年生になって、学童クラブに出ることがなくなると、弓花との時間は失われることになった。彼女とは違うクラスだった。男子は男子で、女子は女子で遊ぶようになった。顔を合わせることもなく、僕たちはまたひとつ年を取った。


 弓花にそのことを聞いたことがある。あまり覚えていないらしく「そんなこともあったかな」と首を傾げた。


 思い出は僕の中にしか残っていないようだった。それでも弓花があの少女であることには変わりない。たまにあの時の幸福が、ひょっこり顔を出すことがある。  


「あ。待って」


 家に帰って、晩ご飯の冷凍チャーハンを食べながら、大人になった僕たちはソファに座って映画を見ていた。海外のコメディドラマだった。リモコンを握る僕に弓花は言った。


「分からんくなった」


 弓花は基本的に字幕付きの映画しか見ない。字幕が無いと、何を言っているか理解できない。文字を理解するために、いつも0・8倍速のスロー再生で見ている。


「巻き戻しして。あー、ストップー」


 字幕があっても、分からなくなることもある。

 1分ほど巻き戻して、もう一度再生する。今度は意味が分かったのか、弓花は深々とうなずく。また少し経って「止めて」と言う。画面に映ったパーマの男の子を見ている。


「あの人誰だっけ?」


「ヘイリーの恋人。ディラン」


「メモする」


 手元のメモ帳に名前をメモした。

 彼女の言語障害は読み書きにはあまり現れていない。それでも、人より理解するのは遅い。ドラマを見る時も、巻き戻したりして、行ったり来たりしている。


「疲れたあ」


 ドラマを見終わった弓花は大きなあくびをした。僕の肩に頭を置くと、満足そうにテレビを消した。真っ暗な画面に僕たちの姿が映った。弓花は僕の腕に、頭をゴシゴシとこするようにしていた。


「登場人物が覚えられなくなってきた」


「気にすることないよ。忘れても。どうにかなる」


「むう」


 そう言うわけにはいかない、と彼女はうなった。続きの話は今度見ることにした。


 寝る前に包帯を巻く。彼女の服を脱がしながら、僕は今日の話をした。


「今日さ。浅見さんと話したよ」


「あ。すっぽん。何か言ってた?」


「天ぷらが一番美味しかったって」


「何だ。カーくんと同じじゃん」


 愉快そうに彼女は微笑んだ。


「私はやっぱりお鍋だけどなあ」  


「鍋も美味しかったけど。もう、お腹いっぱいだったから」 


「じゃあ鍋が最初に出てたら。鍋が一番だった?」


「たぶん」


「何それ」


 弓花が笑うと、長い髪が僕の手をくすぐる。

 毛先が丸まった猫っ毛。僕と出会ってからずっと弓花は、真っ黒なロングヘアだった。


「弓花、そういえばさ」


「ん?」


「最近、髪いじらないな」


「髪?」


「三つ編みとか。子どもの頃。良くやってたのに」


 今日、コンビニですれ違った子どもを思い出していた。学童クラブの時の弓花はいつも違う髪型で来ていた。


「私、手先不器用だし」


 いつもお母さんがやってくれたんだ、と弓花は懐かしそうに言った。


「カーくん。そういうの得意そう」


「いけるかな」


「いける。いける」


 楽しそうに言った彼女は、スマホで三つ編みの仕方を検索し始めた。


「ほら。これ」


「へえこうやってやるんだ」


「やる?」


「うまく出来るかな」


「練習だよ。だってさ。私たちに。女の子ができたとしてさ」


 弓花は声を大きくしてはしゃいだ。


「三つ編みができるお父さん。すっごく格好良いよ」


 そうかな、と言うと彼女は大きくうなずいた。


「ほら。やってみて」


 僕の手に髪の毛を握らせて、弓花は背中を向けた。スマホの画面を見ながら、弓花の髪を重ねるようにして編んでいく。


 弓花の髪はくしを入れるとスッと通っていく。一本一本が糸のように細い。美容院に行くのが嫌で、ほとんど伸ばしっぱなしにしている。たまに前髪と毛先の方を自分で切っているのを見る。


 出会ったばかりの頃は、髪の色つやもくすんだような感じだったけれど、最近は調子が良い。まとめると「貧相な感じがする」と言って結ぶのを嫌っていたけれど、編んでいると全然そんな感じはしない。


「どう?」


 鏡を2つ出して、彼女に見せる。


「すっごく良い」


 鏡に映った自分を見て、弓花は嬉しそうに微笑んだ。


「カーくん。素敵なお父さんになれる」


「娘って決まってないのに」


「男の子でも髪伸ばさせるの」


 よほど気に入ったらしく、弓花は翌日も僕に髪を編むのをねだるようになった。ネットで編み方を調べてはそれを試した。


 弓花のもっぱらのお気に入りは、丸っこい三つ編みだった。百均で買ってきたリボンを中に編み込んで、綺麗に組み合わせる。


 ときどき鏡の前で髪をかざして、ニコニコ微笑む弓花の姿を見るようになった。

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