19. 待合室
弓花が診察に行っている間、待合室のソファに座っていると、廊下の向こうから電動車椅子のモーター音が聞こえてきた。顔をあげると、向こうの廊下から小宮山さんがやってくるところだった。
小さく会釈してみたが、小宮山さんが僕に視線を向けることはなかった。
小宮山さんは僕のことを見下ろしていた。
「どうも」
試しに挨拶してみたが、小宮山さんは口を結んで黙ったままだった。なのに僕の前から離れようとしない。枯れ枝のような腕は、ピクリとも動かない。
「弓花。今、診察です」
「知っとる」
ぶっきらぼうな言葉が返ってくる。
高齢の男性は正直、昔から苦手だ。父方の父がそうだった。たまに訪ねると、こんな風に黙って何を考えているか分からない。すぐ機嫌が悪くなって、大きな声で怒鳴る。その祖父が亡くなると、父が同じような癖を見せるようになった。
ギョロリとしたカエルみたいな目が僕を見ている。待合室は静かで、弓花の診察が終わるのはまだ先だった。
「いつもお世話になってます」
「誰がじゃ」
「弓花が言ってました」
僕が言うと、小宮山さんはふっと息をはいた。
「つまらんことを言うな」
バッサリと斬られる。早く帰れば良いのに、小宮山さんはまだ動こうとしなかった。
「調子は良いか」
「弓花のですか」
「他におらんだろ」
それもそうだ。「まあまあです」と言う。小宮山さんは嬉しくもなさそうにうなずいた。
病院の待合室は相変わらず人が多かった。もう遅い時間だからだろうか。僕みたいにスーツ姿の人も何人かいる。
「厄介な子じゃった」
しばらくの沈黙の後、小宮山さんはボソリと言った。
「うちの婆さんも手を焼いていた」
小宮山さんが話し始めたのは、僕の知らない弓花のことだった。
「世間には悪い人間がたくさんおる。真っ当に生きてる人間の
僕は最初、テレビのニュースのことを言っているのかと思った。待合室の隅っこに置いてあるテレビが、関西の方で起きた殺人事件を報じていた。女がひとり刃物で刺されて、男は自殺していた。
「弱い人間は、十全とそのことを知っとる」
小宮山さんのよどんだ瞳は、僕を見ていた。テレビなんか見ていない。
「弓花」
「あ?」
「どんな娘でした」
小宮山さんはしゃがれた声で応えた。
「半分、死んでおった」
ほとんどまばたきもせずに、小宮山さんは話し始めた。
「兄貴に良く似てた。シベリアから帰ってきた」
「シベリア?」
「大勢、人が死んだと。兄貴も死にかけた。半分、死んだと。そう言っておった。もっとも言葉はほとんど喋れんかった。兄貴も半分死んでいた」
半分、死んでいた。
小宮山さんの言葉を聞いて、僕は弓花の左半身のことを思い出していた。成長することをやめて、止まったままの弓花の半分。
「婆さんが連れてきた。ボランティアの集まりじゃ。わしには分からんが。やれ年寄りみたいな娘が来たと思った」
小宮山さんはずっと独り言みたいな調子で話しをしていた。話が飛んでいる。今度は弓花の話だった。
「うちに来ても、ぼっと喋らんとしとる。いっそ
むずむずと小宮山さんは車椅子の上で身体を動かした。大きな黒目が、カーテンから漏れる西日を反射して赤くなっていた。
「婆さんには懐いておったが。それでも最後まで喋らんかった」
喋らない弓花を想像する。あまり信じられないと僕は思う。
「あの子の後ろに、兄貴に見えたもんと同じものが見える気がした」
それで小宮山さんは黙ってしまった。「それは何ですか」と僕が聞くと、小宮山さんはかすれた声で言った。
「シベリアじゃ」
荒涼した大地が見えると、小宮山さんはポツリと言った。小宮山さんのお兄さんは、シベリアでの強制労働で線路を作っていたらしい。山を崩して、地面をならして、果てもなく続く線路。
「お前には見えるか」
小宮山さんは僕に言った。
「見えないです」
「見えんなら良い。見えん方が良いこともある」
「でも、小宮山さんには見えるんですよね」
「ほうじゃ」
「今でも見えるんですか」
「見える」
こっくりとうなずいた。
「消えるもんじゃない。ずっとそこにある」
弓花が前に言ったことを思い出す。
そこ、とは一体何だろう、と僕は思う。痛みや寂しさ、それからシベリア。小宮山さんに聞いてみたが、
「そこはそこじゃ」
と返すばかりで何の参考にもならなかった。
「小宮山さんのお兄さんはどうしているんですか」
「とうに死んだ。ドヤで脇腹刺されておった」
悲しくもなさそうに小宮山さんは返事をした。
「半分死んどるもんは、死にやすい」
そんなことも言った。
その時は妙な老人の独り言だと思っていた。小宮山さんの言葉の意味が分かったのは、もう少し後になってからの話だ。
「しっかりせえよ」
この前と同じような言葉を吐いて、小宮山さんはどこかに行ってしまった。
それきり僕は小宮山さんに会うこともなかった。話の続きを聞きたいと思うこともあった。シベリアについて。お兄さんのことについて。弓花の後ろに見える景色について。それで、弓花のことをもう少し理解できるんじゃないかと期待した。
けれど待合室で座っていても、あの車椅子の音を聞くことはなかった。
それから一ヶ月くらい経って、僕は弓花から小宮山さんが亡くなったことを知った。僕と話した日の後くらいに、肺炎にかかって、そのまま寝たきりの状態になって亡くなったそうだ。
僕は結局、シベリアについて知ることはできなかった。
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