久保かをり② 見慣れない問題でも慌てるな



昇降口を出たところで、蛇に睨まれた蛙よろしくオレは身動きできなくなっていた。


理由はただひとつ、久保の目。 

メドゥーサの如き視線をぴたりとオレに当てながら、久保はさっきとは逆にゆっくりゆっくりと近づいてくる。


何なんだ、一体。


オレは固まったまま、脳みそだけは必死で動かす。というか、動かそうとする。

しかし、受験勉強絡みならいざ知らず、こういうなんだか分からない事象に対しては、オレの脳みそはうまく機能しないらしい。

ただただ空回りするばかりである。



おい、久保、

そんな目でオレを睨んで、一体何だってんだよ?


問いかけたいのは山々だが、何と問うべきかも分からなくて黙っているうちに、久保がオレの眼前に立った。

立ったまま、眼圧をかけてくる。


今のオレの毎日は、自分でも感心するくらい受験勉強一色だ。

そんな目で見られるようなことをおまえにした覚えは何一つ、ない。

なのに、なんで。





さすがに訳の分からない理不尽さに腹が立ってきて、文句のひとつでも言ってやろうと言葉がようやく口に出かけたその寸前で


「三崎、」


先を越された。


「ぉお?」


不格好な言葉が口をつく。


「な、なんだよ? 何か用かよ?」


「うん」


いともあっさり頷くと、ニコリともしないで聞いてきた。


「今日、この後、何か予定ある?」


「い、いや。まあ、いつも通り図書館行って勉強しようと思ってるだけで特に何も」


「じゃ、悪いんだけど。私と一緒に帰ってくれない?」


「……いいけど。おまえんちってどこだったっけ?」


「図書館のふたつ先。金崎台」


「なら、ちょうど都合がいいのか」


オレの返事を聞いた久保の顔が、ようやくほんのわずかだが緩んだ。

なんかやっぱりヘンだ。

でも、「何かあったのか」と尋ねるのは直球過ぎる気がする。

だから、変化球。


「一緒に帰るだけでいいのかよ?」


「……うー。だって、三崎の勉強、邪魔しちゃ悪いよ?」


そういうことを言われたら、本当にそうだとしても言えなくなるのはオレの昔からの悪い癖だ。


「……、あー。まあ、別に? 少しくらいなら構わないけど?」


「ホント?」


久保の顔がいきなりガキみたいにくしゃっとほころんだ。


やべ。

うっかり、ちょっとカワイイかもとか思っちまったオレ。

ギャル系の久保みたいなヤツが無防備に笑うと、隙をつかれた感じでグッときちゃうんだよな、危ない危ない。

しかも。

笑うとコイツ、かなり、可愛いんだ。

いや別に笑わなくても十分に可愛い部類だと思うんだが、ってオレ何、言ってるんだ。おい。

ともかく。なんかリスみたいで、さ。髪が茶色なトコだけじゃないぞ?

ちょっとふわふわした甘い感じがあるんだよ、ギャル系なのに。


なんて思っているうちに久保はさっさと笑顔を引っ込めて、またさっきみたいな眼圧のある顔に戻っている。

ホントどうしたんだ今日のこいつ。

不思議に思いながら、横に並んで歩き出した。




歩きながらすぐに何か話し出すのかと思っていたら、意外や久保は黙ったままだ。

仕方なく、何か適当な話題を探す。

んーと。何にも浮かばないなあ、こういう時って。

っていうか、なんでコイツと2人で帰ってるんだオレ。

メドゥーサに睨まれて意識だけが神話の世界に飛んでいってたのがやっと正気に戻って帰ってきた的なそんなことを思っていたら、久保が小声でぼそっと聞いてきた。


「三崎ぃ。あの、えっと。あんたん家ってたしか、図書館からもう少し先だよね?」


「ああ。5つ先。菊野」


「そっか」


ホッとした様子で頷いている。

なんなんだよ、それ。

どういう意味なんだよ、それ。


思っても聞けないオレは、代わりにかなりマヌケな質問をしてしまった。



「おまえ、いつもは誰とどうやって帰ってるんだ? オレと帰ってていいのか?」



「いいのいいの、っていうか、一緒に帰ってくれって頼んでるのこっちなんだよ? 三崎ってばほんと、お人好しなんだから」


久保はわずかに眉根を寄せた。


「いつもはね、ほら私、部活入ってないから、同じ帰宅部の七奈ちゃん、あー、川原さん、ね? と帰ることがほとんどなんだけど。この前の英標の課題未提出で、矢部に出来るまで帰るなって言われたらしくて、今日は急に居残りさせられちゃってて」


「あー、矢部な。アイツそういうのにウルサイもんな」


「そ。バカだよね、七奈ちゃんも。ああいうしつこいヤツの課題はとりまさっさと片付けときゃいいものを」


肩をすくめる久保。

よく見ると、その肩先がわずかだが震えてる、ような。


なんだ、こいつ。

ホント今日はどうしたんだ??


こんなの見ちまったらさすがに色々と気になり過ぎるじゃないか。

見て見ぬ振りが正解かとも思うんだが。

少しくらいなら構わない、って今さっきオレが言っちまったんだしな。


「おい。そこの自販機でジュースでも買って、どこでもいいから座って飲んでいこう。なんかオレ、喉、乾いた」


「……あ、だったら私が奢る」


久保は小走りになって自販機の前に立つと、カバンから財布を取り出しコインを手にした。


ちゃりん。ちゃりん。

コインが落ちる音がやけに大きく響く。


「何にする?」


背中を向けたまま、久保がオレに尋ねる。


「えーっと、」


自販機の中身を見るために久保の背中に近寄った。





びくん





いきなり久保の背中が跳ね上がった。

あまりに突然で、オレはびっくりして、


「え、おい。何だよ、どうしたよ?」


声をかけながら、横から顔を覗き込む。





唇を噛み締め、青ざめた久保の顔がそこにあった。







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