美術室にて ② 手がかりのない未知の問題は誰かに聞けるならさっさと聞くに限る
全てを身に纏ったオレは、
美術準備室の扉を恐る恐る開ける。
扉の向こうの、美術室。
オレの目に映ったのは―――、
木崎と、
そして女子4人の、
得体の知れない感情がめちゃくちゃに入り混じった不思議な瞳、だった。
皆の瞳が全然知らないひとたちみたいな色をしていたから、
オレは自分が人間ではなく、うっかり解脱してしまって弥勒菩薩にでもなってしまったかのような心地がした。
足元がぐらりと揺れた。
沈黙が、世界を支配する。
その後。
世界は一転して黄色い歓声に包まれた。
「ウソでしょ。いくら何でもここまで似合うとか……!」
「ちょっとちょっと私って天才じゃない? この服、選んだの私なんだよ?」
「あー、もう、なんか鼻血出てきそうなんですけどっ?」
「誰よ、三崎くんのこの魅力に最初に気付いたひとは??」
「想像を絶する、という言葉は今、このために存在していたんだな」
オレは立ちすくんだ。
苦海の真ん中で餓鬼に縋りつかれた弥勒菩薩のように。
もとい。
猛獣の群れの中に放り込まれた草食動物のように。
オレはきっとこいつらに跡形もなく喰われちまうに違いない、そう確信した。
少なくとも、どこも傷付かずに帰れる気は、まるでしなかった。
黄色い嵐が収まってから。
顔を赤らめた久保が、ゆっくりと口を開いた。
「じゃ、次はメイクだから」
気のせいか、声が上ずっている。
「どこですればいい? ここでいいのかな?」
ここ、とは、この美術室内で、衆人環視の中、ということか?
やはりオレは猛獣たちに嬲り殺しにされる運命なのか?
「いや、あんまりギャラリーがいると、メイクするのにも気が散って難しいんじゃないか?」
これは木崎の助け舟だ。
さっき、美術準備室に入った時に木崎が囁いた言葉は、今、この時の為のものだったのだ。
「うん。オレも落ち着かない」
こんな格好で言ったってちっとも説得力はないだろうと思いつつ、それでも言った。
途端に女子たちは、目や口、鼻などを一斉に押さえる。
「落ち着かないどころの騒ぎじゃないこっちはもう今、完全に心臓が爆」
「なな何、そんな格好でそんなこと言われたら、何でも言うこと聞いちゃいそうっ」
「誰か……誰か私にティッシュを……!!」
「頼むから、お願いだから、そんなカワイイこと言わないで~」
あっという間に世界は黄色い台風に襲われた。
「三崎がこう言ってるんだから、メイクは準備室でやってやれよな?」
台風の目の中から、木崎が救命ボートを投入した。
「いいけど。でも、久保さんと二人っきりで?」
唐突にクラス委員らしい冷静さを取り戻した井川が、恐ろしいことを指摘する。
そうか。衆人環視もイヤだが、久保と二人っきりというのもかなり、怖い。
どうすればいいんだろう。
にっちもさっちもいかず固まってしまったオレに、今度は救命浮き輪が木崎から投げ入れられた。
「オレが立ち会うよ。メイクのことは分かんないけど、宣伝ポスターを描くために三崎にこんな格好させてるんだから」
さすがに誰にも反論の余地はなかったので、それであっさりと決まった。
「じゃ。悪いけど、またしばらくここで待っててくれ」
そう言って木崎は女装姿のオレの肩を抱くと、再び美術準備室の扉を開けた。
途端に、背後で黄色いつむじ風が巻き起こった気配を感じたが、オレも木崎も「ここは
🎨 🎨 🎨 🎨 🎨
作業台の上に、久保がメイクセットを広げる。
よく持ってきたなと感心するくらい大きな鏡もバッグから出してきて、オレの前に立てて置く。
オレは自分の顔と向き合う形になった。
「これ、使ってくれる?」
久保が手渡してきたのは、ゴムが入った細長い輪っかのようなもの。
「どうやって?」
と尋ねると、「あ、そうか。知らないか」小さく呟いて、オレの手から一旦、取り戻すと、「ほら、こうやるの」と言って頭から被ってみせた。(『ヘアバンド』というのだと久保がメイクをしながら教えてくれた。その名の通り、髪を留めるためのバンドである。)
「ああ、分かった」
もう一度、渡されたそれを、メガネを外してから早速言われたとおりにつけてみた。
「そうそう。で、前髪は全部それで上に上げちゃって、おでこ全開にしてほしいんだ。ついでに横のもみあげあたりもまるっと押し込んで、顔に毛がかからないようにして」
「こんな感じでいいのか?」
鏡を見ながらもう一度、被り直して久保に見せると
「……ぐぅ」
変な唸り声のような音が久保の口から漏れた。
「どうした。大丈夫か?」
この前の件がいまだ記憶に新しいオレは、つい心配になって久保の顔を覗き込んでしまう。
あの時は真っ白だったのに、今の久保の顔は妙に赤くなっている。
「おまえ、さっきからよく顔が赤くなってるけど、熱でもあるのか?」
久保のおでこに手を伸ばそうとした、その時。
「ぐぇっ。ぐぇぇぇーっ」
異世界からやってきた怪鳥が鳴いたような奇っ怪な声が聞こえた。
木崎だった。
「ゲホ、ゴホン」
わざとらしい咳払いまでした挙げ句、
「久保、ほら、さっさとやろうぜ? オレが描く時間が減る。
それに三崎、おまえもあんまし時間かけたくないんだろ?
だったら急がないと」
よく分からないが、これもまたきっと彼のオレに対する救命行為なのであろうと推察した。今の感じからすると、救命胴衣あたりだろうか。
「ああ。だな。
久保、悪いけど早く始めよう」
「え、あ、うん。分かった。
じゃ、早速」
久保の目が一瞬できりりと鋭くなる。
獲物を見つけた鷹の目だ。
オレは思わず身をすくめた。
💄 💄 💄 💄 💄
最初のうちこそ久保は緊張していたようだが、すぐに落ち着いてきたらしく、手元に迷いがなくなった。
オレの顔を見ながら、うーん、と唸ったり、「こっちの色の方がいいかな」なんて呟きながら、それでも手際よく進めていく。
今、オレのメイクをしている久保は、オレの知らない久保だ。
オレの顔を見ているけれど、オレを見ている訳ではなく、大切な実験をしているとか大事なデータを読み取ろうとしているとか、そんな感じの研究者みたいな目つき。
おかげでオレも恥ずかしくならずに済んだ。
机の上に置かれた化粧品も、そうやって見てみると実験器具に見えてくるから不思議だ。
メイクと化粧品について色々と聞いてみたくなったが、作業の邪魔をしても悪いかと思ってオレはずっと口をつぐんでいる。
「ちょっと顔ごと上、向いてくれる?」
「あー、悪い。目、閉じて」
「視線だけ下、向けて」……。
久保は手を動かしなから、合間、合間に、オレに短くリクエストを入れる。
言われた通り、オレは要求に応える。
なんだか2人で息を合わせて共同作業をしているような気分だ。
顔を筆やスポンジみたいなもので触られるのも、くすぐったいが気持ち悪くはない。どちらかというと、顔の近くで感じられる久保のあの優しく柔らかい匂いと相まって、ふわふわと夢見心地になってくるくらいだった。
そんなオレたちを、最初は横で感心しながら見ているだけだった木崎が、気が付いたらスケッチブックを手に猛烈な勢いで鉛筆を動かしている。
久保かオレか、はたまた両方かは分からないが、どうやらスケッチし始めたらしい。
美術準備室には、時折漏れる久保の呟き声とオレに指示を出す声、木崎の鉛筆を走らせる音だけが静かに響いている。
オレの顔近くには久保の顔があり、彼女からは優しく柔らかい匂いが漂ってくる。そこに化粧品の匂いと美術準備室の匂いが入り混じって、あたかも遠い異国の香りのようだ。
窓から差し込む秋の日差しは暖かい白黄色で、空の青が窓越しに薄く見えた。
突然、現れたエアポケットのようなこの異空間に、オレは心地よく身を委ねている。
3人でいるのに妙な密着感はなく、だからといって壁もない。
付かず離れず、心が凪いでいる。
この摩訶不思議な世界を居心地良く思っているオレがいる。
悪くない、と思っている自分がいる。
うん。悪くない。
悪くない。
あ、もしかしてオレ、今、解脱しちゃってる?
それともアレ? うっかり黄泉平坂、超えちゃった??
ってか、メイク、イヤじゃない、ってコト???
やば。
※黄泉平坂/
生者が住む現世と、死者の住む他界(黄泉)とを分ける境界にあると言われる坂。またはその境い目の場所を指す。日本神話に登場する。
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