美術室にて ③ 勉強に集中できる環境は何があろうと譲らないで死守すべし
「さあ、できた」
やけに嬉しそうな久保の声で、オレは不可思議な異空間から現世に意識を引き戻された。
「見て、三崎」
言いながら久保が、脇に除けていた鏡をオレの前に置き直した。
ひと目見て、オレは絶句した。
それこそ鏡の中に異世界が現れたのかと思った。
スケッチをしていたはずの木崎も、ギョロ目をさらにひん剥いて、手を止めてオレを見ている。
あの不思議な時の流れの間に、まさかこんな魔法がかけられていたとは……!
「ふふ。我ながら、いい出来」
久保は満足げに笑うと、
「あ、そうだ。仕上げのこれを忘れてた」
そう言って、慌ててバッグの中から袋を取り出し、中身を引っ張り出した。
「これ、被って」
それは髪の毛が横から垂れ下がっていることを除けば、昔の女優さんが映画の中で被っているようなオーソドックスな形のつばが広めの黒い帽子だった。
「本当はウィッグ用意したかったんだけど、さすがにそんなモノすぐには調達できなくって。仕方ないから家にあった帽子にエクステ縫い止めてきた。
即席で作ったから、しっかり止まってないかもしれない。だからそうっと被ってね」
久保は壊れ物を扱うような手付きでオレに帽子を差し出した。
受け取った帽子を、さて、これは一体どういう向きで被ればいいのだろうと見つめていたら、
「あ、帽子の中にタグがついているでしょ。そっちを後ろにして被るの」
よくオレの考えていることが分かったなと感心しながら、言われた通りに被る。
少しきつめだが、なんとか頭に収まった。
被ると両側に長い髪が垂れて、妙な気分だ。
「自毛をなるべく帽子の中に入れるようにしてみて」
鏡の中の自分を見つつ、言われた通りにする。
「ん。おおむね、そんなものでしょう。OK。
では、早速、お披露目せねば。
大丈夫。心配ないから。ほら、胸を張って」
久保の言葉に魔法をかけられたようにオレが立ち上がると、スケッチブックを作業台に置いた木崎もふらふらとオレの横に並び、オレの手を取った。あたかも、姫をエスコートする騎士のようである。
扉を開けた久保に続き、オレたちは2人並んだまま、扉の向こう側へと粛々と歩を進めた。
🎨 🎨 🎨 🎨 🎨
地底を這う地鳴りのような低周波音、
もしくは声にならない唸り声、
のようなものが一瞬、聞こえた、気がした。
直後。
黄色ではなく、もはや金色とでも言うべきだろうか。
凄まじい勢いの竜巻が起きた。
「こここここれは……! 女神降臨!!」
「もうダメ……鼻血止まんなくなりそう……」
「どどどうしましょう。もはや言葉が出てこない」
「だよねー。絶対、キテるよねー」
誰よりも嬉しそうに久保が笑っている。
ああ、そういえばこいつ、こんな風に大口開けてよく笑ってたよな。
球技大会の時なんかずっとこんな顔してて、口デカいな、って感心してたんだけど。
久しぶりに見た。こいつのこの笑い顔。
久保の笑顔が眩しくて、オレはつい、目を細める。
と、
「うわ。何、そのミステリアスな表情。ぐっとくる!」
「やば……、鼻血出過ぎて貧血っぽい」
「あああ、私の表現能力を軽々と超えていかないでーっ」
金色の土石流が時間の概念をも押し流そうとした、その時。
「はい。そこまで」
パチン、と大きく手をひとつ叩いたのは、木崎。
たったひとつの冴えた拍手で、3人の集団トリップを解除した。
「興奮する気持ちはとてもとてもよく分かるけど、ここからはオレがこいつを描く時間だから、悪いけど出ていってくれる? さすがにこの状態ではオレも集中して描けないから」
「あ、ああ、そうね」
「そうそう。そうだった。私たちも衣装のデザインとか予算とか、考えてすぐやんなきゃいけないことが山盛りにあったんだ。今から急いで取りかからなきゃ」
「早速、しっかりした打ち合わせをしましょう。失敗は許されません」
「ほら、だから、かをりも一緒に教室に戻るよ?」
川原と井川が、久保を急き立てるようにして3人で美術室を慌ただしく出ていく。
ひとり残った真田が、
「木崎。描き終わったら教室まで呼びに来て。その間に三崎は着替え。三崎のその格好は、文化祭当日まで隠しておきたいから、絶対にそのままで出歩かないこと。で、メイク落としはコレ。コレで拭いてから顔を良く洗えば大丈夫。ああ、もちろん戻ってくるから、メイクが残ってないかちゃんと確認はする。そこまでで今日はおしまい」
メガネの奥の目を光らせながら、立て板に水で話すと、
「じゃ、あとは木崎、キミのその”二次元の姫を爆誕させる神の右手”を存分に奮ってくれ給え」
ニヤリと笑ってオレたちに背を向け、美術室から悠然と出ていった。
🎨 🎨 🎨 🎨 🎨
男2人が取り残された美術室は、やけにガランとして寒々しく見える。
さっきまでのかしましさがウソのような静けさだ。
毒気に当てられいささか放心気味のオレに、
「じゃ、早速、始めるから、そこに座って」
木崎が落ち着いた声で言った。
オレが呆けている間に、木崎はいつの間にか西日が当たる窓の近くに椅子を置き、少し離れたところにイーゼルを立てていた。
「あ、ああ」
言われるまま椅子に腰を下ろすと、矢継ぎ早に指示が飛ぶ。さっきの久保より注文が多い。
「顔、もう少し窓の外の方へ向けて」
「ちょっと上向きに」
「目線は窓の外か、ああ、やっぱり準備室の奥の方がいいな」
「足は閉じて」
「背筋、伸ばす。でも、肩の力は抜いて、リラックス」
「手は膝の上で揃えて」
手、と言われてようやく、資料集を手元に用意していなかったことを思い出した。
木崎も気付いたようだ。
「ごめん。机に向かってうつむき加減のポーズをとってもらうつもりだったんだけど、西日がいい感じだったから、ついうっかり違うポーズにしちまった。これだと勉強しながらは無理だな。悪い。約束と違うが、許してくれるか?」
「いいよ。さすがにこの流れでは、仮に読めたとしても到底、頭になんか入るとは思えない」
「確かに」
木崎が小さく笑った。
「なんかあいつら色々と凄かったもんな。
あ、悪いけどこれから描き始めるから、もう動くなよ?」
オレをざっくりとした視線で捉えながら、木崎は早速、右手を柔らかく大きく動かし始めている。オレは木崎の動きを横目で捉えつつ、「分かった」と短く返す。
「それにしても三崎。おまえ、ヤバいくらい似合ってるぞ、その格好」
「それ、褒めてるのか? それともバカにしてる?」
「褒めてるに決まってるだろ。今のおまえ連れて外、歩いたら、間違いなくオレ、すげぇ羨望の的になる」
「どういう意味だよ」
「男子の憧れを具現化しているような完璧なルックス、ってこと」
「そこまで言うか」
「言う。
あ、そっかおまえ」
木崎が手を止めてしげしげとオレを見て、言った。
「おまえ、顔は鏡で見てるけど、全身の姿は見てないんだもんな」
そうなのだ。
オレは自分が今、ひとから見てどんな風に見えているのか、顔以外は分かっていないのだ。
帽子、髪、服、体型、それから顔。
ひとを外見から判断する時、顔はもちろん最重要ポイントだけれど、全身像もまた、それとは違った重みを持っている。ここのバランスが悪いと、顔はいいけれどね、といったことも起こるし、その逆もまた然り。
「男子って、制服もジャージも意外と緩めだったりするじゃん。特に三崎みたいに細っこいヤツは。だから普段は気づきにくいけど、今のその格好って身体の線がかなり出てるから、その分、おまえの細さが際立って見えるんだよな。
おまえ、マジ細いし、手足は長いしまっすぐだし、小顔だし、すごく中性的で、今、メイクしてる上に帽子でいい感じに顔が隠れてるから、ほんと誰が見てもそう簡単には男ってバレないくらい完璧に女子になりきれてる。それもかなりのハイレベル女子に」
手を動かしていると口もなめらかに動くのだろうか。
木崎はいつも以上に饒舌だ。
オレは黙って聞いている。
「川原が選んだその服、すごく似合ってる。それに割とオレの好み」
「好みって、おまえ」
つい、笑いそうになって、あ、いかんいかんと口元を引き締める。
オレは今、モデルなんだった。
「あ、そんなに気にしなくていいぞ? 少しは笑ったりしゃべったりしないとしんどいだろ」
モデルって意外と大変なんだよな、と木崎がオレを気遣う。
「服の話だけど。
もっとゴスっぽいの持ってくるのかなとか、逆にギャルっぽいので攻めてくるかも、とか、まあ、色々想像してたけど、割とオーソドックスなメイド系に近いあたり。もしくはちょいロリが入ってなくもない、のか」
まあ、網タイツが出てくるとは思わんかったけど。
そう言った時だけ、木崎の声のトーンがちょっとばかしスケベっぽく聞こえて、
「おい。なんか今のいやらしく聞こえたぞ?」
と言ったら、
「やっぱり? だってオレ、網タイツなんて生で見たの生まれて初めてだったからさ。ちょっと興奮してんのかも」
なんて抜かしやがった。バカ。ふざけんな。
「だったら、オレなんか、見るのも触るのも初めてなら、いきなりそんなものまで着させられてるんだが」
わざと声を低くして、どすを利かせて言ってやる。
「違いない」
木崎が吹き出した。
「いや、ほんとあいつらえげつないよな。
いきなり黒の網タイツとか、マジあり得ない」
言いながら、笑いを噛み殺している。
「なんならオレが脱いだ後、おまえも履いてみろよ。もっと興奮するかもよ?」
「いや、遠慮しておく。おまえのその姿、見ちまったら、自分のなんて気持ち悪くて見たくもない。
あ、でも、おまえが履いたあとすぐ足入れるとか、ちょっとヘンタイっぽくてオモロイか」
「おいおい。クソキモいこと言ってるんじゃねーよ」
「頼むからその格好で必要以上にそんな乱暴な言葉、使わないでくれよ。夢が壊れる」
「夢クラッシャー上等。壊しまくってやろう」
「バカ、やめろー」
オレたちはフザけたやり取りを延々と続けた。
もしかしたらオレたちは今、少しばかり居心地の悪さを感じているのかもしれない。
それを隠すかのように、たくさんの言葉でもってこの空間を埋めているのかもしれない。
木崎の手は、それでも描くことを止めない。
動き続け、描き続けている。
オレを。
オレの姿を。
女装姿のオレを。
泣ける。
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