美術室にて ④ 問題を解く時の時間感覚を養っておこう



ことっ。

固く小さい音がした。

息を吐き出し、伸びをする気配。


「お疲れさん。動いていいぞ」


時計を見ると、描き始めから15分が過ぎていた。

木崎の手からは握られていた鉛筆が消えていた。


「もう、いいのか?」


「ああ。大丈夫。描けたよ。それに、ポージング取ってもらうところから入れたら、これでほぼ20分。オレの時間感覚は完璧でさ」


これでも美大受験に備えてかなり課題こなしているからな、と胸を張る木崎。


「おまえ美大受けんのか?」


初めて聞く話に、オレは語尾を跳ね上げた。


「ああ。オレには他にしたいこともできることもないから」


木崎はきっぱりと言い切った。


「いいなあ」


つい、口が滑る。


「いいなあ、って何が」


怪訝な顔をしながら、木崎がスケッチブックを持ってオレの横に立った。


「ほら。モデルの特権だ。一番に見てくれ」


差し出されたスケッチブックを手にし、ひと目見るなり。






持つ手が震えた。






これは何だ。

こいつは誰だ。

木崎の目は、手は、一体どうなっているんだ。

熱い熱い固まりが、オレの喉を、気管を、心を、一気に駆け上がって埋め尽くす。






「何だよ、そんなに気に入らないのかよ」


ちぇ。

力作のつもりだったんだけどな。


黙り込んでいるオレを見て、ふてくされたように横を向いた木崎に、オレはなんと声をかければいいのだろう。

何も思い浮かばない。

何ひとつ浮かばない。

必死で頭を絞っても、気持ちを言葉で拾いきれない。

受験勉強で鍛えてきたはずのオレの言語能力をもってしても、変換不能だった。



ばんっ



悔しくて。嬉しくて。

オレは木崎の背を叩くよりなかった。


「んだよ。痛てぇじゃねーか」


むくれた顔をこちらに向ける木崎。



ばんっ

ばんっ



「どういう意味だよソレ」



ばんっ

ばんっ

ばんっ



「もしかしてソレ、気に入ったってこと?」



「……だよ。

そうだよ。

すげーよ。いいよ。ありえねーよ!!」





「何だよ。だったら、頼む。始めからそう言ってくれよ」


木崎がへろへろ、っと情けなく顔を崩した。


「これ、ダメって思われたら、と思うと結構ビビってたんだけど。


あー、ホッとした」


どんっ、と音を立てて木崎が椅子に腰を下ろす。


「力、抜けたわ。今のおまえのひと言で。


ほんと、良かった。

おまえにイヤな顔されたらどうしよう、ってマジ怖かったわ」


「そんなこと気にしてたのかよ?」


「ああ。

だって、オレが見て描きたいからって、わざわざおまえにそんな格好までさせておいて、それでつまんない絵、描いたと思われたら、申し開きのしようもないだろ」


そうか。そう言われりゃ、そうか。

そんなこと考えてもいなかったけど。


「それに、こんないいモデル作り出してもらっておいて、ヘタな絵でも描こうもんなら、あの女子組が何を言い出すか分かったもんじゃねえからな」


それは言えてる。

想像するだけで、吹き出した。


「木崎。おまえ、ほんと凄いよ。オレ、絵のこと悪いけどちっとも分かんないけど、この絵はすごくいいと思う。誰がモデルとかそういうことに関係なく、とてもいい絵だと思う。


この絵、オレは好きだ」






あー。


木崎が頭を抱えて、呻いた。


「バカ三崎。それ、一番の褒め言葉だ。

”好き”っていうの。

それさえもらえりゃ、オレはもうそれで十分。

描いて、よかった」







しばらくうずくまっていた木崎は、がばっと顔を上げ、

おしっ、と言って自分の顔をぱんっ、と両手でひと叩きすると。


「三崎。さっさと着替えて顔洗って帰りな。

あいつらと顔、合わせないで」


「え? そんなことしていいのか? さっき、後でまた、って真田が言ってたじゃん」


「いい、いい。んなの無視して。オレが適当に言っておくから。

じゃないと、またなんやかんやでキャーキャー言われて時間食うぞ?」


たしかに木崎の言う通りだった。

あいつらとまた顔を突き合わせたら、そのまままっすぐに帰れるとはとても思えない。


「分かった。だったら遠慮なくそうさせてもらう」


「ああ。その代わり、違う日にまた2人であのジェラート屋、食べに行こうな」


「もちろん。で、今度もまたおまえの奢りだよな?」


「ええっ? そ、それは……」


「バカ、冗談だよ。冗談。今度はオレもポイントカード作ってもらうよ」


「はは。その顔と格好でふざけたこと言うなよな。シャレにならん」


木崎がぎょろりと目を剥いて笑うのを見てから、オレは美術準備室に駆け込んだ。




🎨 🎨 🎨 🎨 🎨




翌日。

オレは女子4人組からクレームを頂戴した。


「酷い、三崎くんたら。私たちに何も言わずにさっさと帰るなんて」

「帰るならせめて写真だけでも撮らせてほしかったなー」

「そうだよ。皆で撮るの、楽しみにしてたのに」

「撮れなくてもいいから、もっとしっかりこの目で見ておきたかった」


口調の割に、とびきり小さいひそひそ声なのには訳があった。

木崎がさっき男子トイレでこっそり教えてくれたのだが、木崎が描いた絵も含めてオレの今回の情報は全て、オレたち6人だけのトップシークレットにしたのだそうだ。


「なんで?」


意味が分からなくて問い質した。


「もともとおまえのコスプレの出来がハンパなかったから、あいつら4人メチャ興奮してただろ? で、オレの絵を見て、コレは超ヤバい、って。

あいつら『これだけ破壊力があるのがうっかり先に出回ったら、他のクラスに真似されるか、潰されかねない』って言い出して、当日まで完全に秘密にしておこうって」


「はぁ? 訳が分からない。

だいたいあの格好はオレだけがするんじゃないはずだ。

クラス全員、男子が昨日のオレのような格好、女子が男装するんだろ?

それなら、そうそう簡単に真似するとかしないとか、できないと思うんだが。

だいたいクラスの連中にも秘密って言うけど、オレをモデルにしてポスター描く話はLHRで決めてるんだから皆、知ってるのにそれって何か意味があるのかよ」


「おまえの言ってることは正論だけど、あいつらの言い分は分かる。

あの昨日のおまえの姿、見ちまった人間としては、な。

写真ではなくオレが描いた絵とは言え、とにかくどんな形にしろあの姿が漏れたら、おまえ、タダじゃ済まないと思うぞ?

それくらいおまえのあの姿は危険だ。

クラスの皆には、ポスターをいつ描くかなんてことまでは伝えてない。そんな必要もなかったしな。

だからこのまま全部、秘密にしておいた方がいいとオレも思う」


「……なんかオレ、なにげに脅迫されてる気がしてきた」


「そうだな。脅迫されても仕方ないレベルではあるな。あれだけ凄かったら」


そう言えばオレ、宮地にも半ば脅迫されたんだっけな。写真をネタに。

脅迫こそされてないけど、例の二人組にも写真、超ハズいの撮られちまってるし。

だとすると、今のオレには画像の類、全部が鬼門のようにも思えてくる。


でも、木崎の描いたあの絵。

あれだけはオレ、手元に欲しいと思ったんだ。心から。


だからこっ恥ずかしいのをガマンして、オレは木崎に頼んだ。


「秘密の件は、分かった、任せるよ。

あんなクソこっ恥ずかしいナリした話なんてオレからは絶対、誰にもしやしないし。秘密の方がいいに決まってる。


ただ。頼みがひとつあるんだ。


おまえの描いたあの絵、写真でいいからオレにくれないか」



「もちろん!

っていうか、おまえにそんなこと言ってもらえて、頭がヘンになりそうなくらいオレは嬉しい。

写真、じゃ、すぐに送るから、LINEくれよ」


あ。そうか。そうしないともらえないのか。

いや、もちろんメール添付でもいいはずなんだけれど。

でも、今時メールってまず使わないんだよな。オレたち。


仕方ない。

オレは自分のQRコードを木崎に差し出した。

その場で『友だち』になった木崎は、すぐに昨日のあの絵を送ってくれた。




🎨 🎨 🎨 🎨 🎨




「オレもさ、あの絵が描けたのが自分でもメチャ嬉しくて、自分が描いたデッサン、初めて写真に撮ったんだよ。家に帰ってから」


照れくさそうに言いながら木崎が送ってくれたその絵を、オレは勉強の合間、合間に何度も何度も見返している。

鉛筆で描かれた美しいその絵は、見る度に胸が高鳴り、見る度に幸福を感じ、見る度に発見がある。


この絵に弱点があるとすれば、それは唯一、モデルがオレだということだけだ。

それさえ知らなければ、こんなに素敵な絵はちょっとないと思う。

本当に、いい絵、なのだ。


今は見せたくても誰にも見せられないのが、残念でたまらない。

だから、文化祭当日、誰もが遠慮なくこの絵を見られるようになるのが待ち遠しい。

皆がこの絵を見ているところを想像するだけで、オレはわくわくしてくるんだ。





あれ、ヘンだな。

別に文化祭なんてさほど楽しみにしてないはずなんだけど。

文化祭であんな格好をしなきゃならないのは相変わらずイヤでイヤで仕方がないんだけれど。


まあ、いい。

とにかくまたあの絵を直接この目で見られる日が楽しみなのだけは確かだ。

そしてその楽しみを、オレは皆と共有したいと思っている。


その時は誰もが遠慮なく、穴が開くほど見られるはずだから。

――オレの好きな絵を。


(モデルがオレだということはもちろん秘密のままで)

(そして頼むから、オレのことだけは誰も見ないでほしいと切に祈っている)










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